カヤリは霧の中心部にいる。トバースは確信をもつ。人形師とも呼ばれるトバースであったから、憑依可能な対象の位置はかなりの精度で検知することができる。
とはいえ、憑依したところでどうにもなるわけではない。
むしろそんなことをしたら自分の精神が持つかどうか。
トバースは小さく舌打ちする。この闇色の霧はあまりにも毒々しく、禍々しく、かつ、強烈な圧力を持っていた。放出される魔力量は、瞬間瞬間ごとに増幅していく。
「もう接続は最終段階にある。誰にも止めることはできん」
ハインツが両手を大きく掲げた。カヤリから発生している霧が、その両手に集まっていく。周囲を覆っていた闇の霧が、相対的に晴れていく。
「こ、これは」
トバースは息を飲む。さすがのセウェイも絶句した。ヴィーに至っては声にならない悲鳴を上げた。
ようやくクリアになった視界に広がった景色は、地獄絵図だった。
ハインツの周囲には何十人もの研究員たちが倒れていた。誰が見ても彼らは絶命していた。身体の内部で爆発でも起きたかのようなありさまだった。
「魔力を吸い付くされたんだ」
ヴィーが苦しげに言った。セウェイは鼻から息を吐き、肩を竦めた。
「ま、そんなところね。気をつけて、異形が来るわ」
「異形は時間稼ぎだ。構わずハインツを叩く」
「無茶よ、トバース。異形も半端な奴じゃない。それにアタシは障壁の維持で精一杯。あなたひとりで戦える相手ではないと思うわ」
セウェイはヴィーに視線を送る。
「……あたしは、あたしには、ハインツ様は……!」
「超えろよ、ヴィー。ハインツを克服しろよ」
トバースは印を結びながら、強い口調でそう言った。
「あんな奴に従う必要はないだろう、ヴィー!」
「で、でもっ、あたしにはっ!」
「ハインツか! カヤリか! どっちなんだ! 選べよ、ヴィー!」
「あたしは――ッ!」
ヴィーは唇をきつく噛んだ。トバースは部屋の結界が崩壊しつつあるのを感じ取る。魔法に制限がかかっていた空間だったが、今はもうそれはほとんどない。
「ヴィー! この子の手を何万人もの人間の血で汚させるつもりか! 呪詛の津波に飲ませるつもりなのか!」
ハインツの目の前に翼のある球体が現れる。ぶちぶちという不愉快な音を立てたかと思うと、その球体から筋肉質の腕や足が生えてきた。最後に現れた顔はカマキリのような三角形で、目のあるべき場所は暗い眼窩になっていた。その中では金色の鬼火が燃えている。身の丈三メートル、視覚的プレッシャーも相当だったが、そこから放出されてくる魔力の量もまた甚大だった。
「悪魔か。厄介ねぇ」
セウェイが不愉快そうな顔をして呟いた。
「その上――」
倒れ伏していた研究員たちが、そのぐちゃぐちゃになった身体でゆらゆらと起き上がる。
「セウェイ、これはいったい……」
「全部悪魔ね。不死怪物ではないわ」
「マジか……」
トバースが絶望的な声を発する。セウェイの瞳がギラリと金色に光った。
「ヴィー、あんたも死にたくなかっったら、自分の身くらいは守りなさいな。あと、邪魔はしないことよ」
「……わかったよ」
煮え切らない返事をして、ヴィーは印を結び始める。トバースは自らの周囲に光の槍を六本出現させる。
「速攻で片付ける!」
トバースの操る光の槍が縦横無尽に奔り、研究員たちの身体に乗り移った悪魔を駆逐していく。悪魔たちもただやられてはいない。無数の光弾による反撃を繰り出してくる。
「効くゥ!」
セウェイは楽しげな声を上げているが、その表情には鬼気迫るものがあった。
「さっさと雑魚だけでも始末しちゃってくれる、トバース、ヴィー。アタシの防御にも限界があるわよ」
「やってるって!」
トバースの光の槍は一瞬たりとも止まらない。渋々前に出てきたヴィーの放つ炎も強烈だった。だが、カマキリのような顔の悪魔の障壁によって、威力の過半が殺されている。
「あのデカブツなんとかしなさいよ、トバース」
「陣しかないかっ!」
「ハインツもろともぶっとばせー」
それは無理だなと、トバースは冷静に考える。そして深呼吸一つほどの集中を行う。
「急いでやりな!」
ヴィーがそのトバースを守る火焔領域を展開する。迫る悪魔たちや光弾による攻撃は、それでなんとか防ぎ切る。立ち止まっているトバースは完全に的だ。
「紫氷陣!」
トバースの陣魔法が完成する。研究員に乗り移った悪魔たちの多くは潰れて消えたが、それでもまだ十数体は残っている。それになにより、悪魔の親玉とハインツは無傷だ。
カマキリ顔の悪魔は、ハインツを守ろうとするかのように両腕を広げた。その広げた手のちょうど中間に、はっきりと目視できるほどの魔力が凝縮していっている。
「ちょっちょ、こいつはまずいわ!」
セウェイがヴィーを振り返る。
「あんたも本気出しなさいな、ヴィー! ハインツは今、アタシたちもろともあんたも殺そうとしてるの! そしてあんたが死んだらカヤリはどうなるの! ちょっと真面目に考えなさいな!」
そうこうしている間に、空中にいくつもの魔法陣が浮かび上がり、そこからじわじわと悪魔が姿を見せ始める。それらは、カマキリ顔の悪魔――つまり仲間を呼んだのだ。
カヤリ……!
ヴィーは黒い霧の中心にいる妹分を想う。
そうだ、カヤリを助けられるのは、あたしたちしかいない。
負けられない。死んでいられない。
ハインツか、カヤリか。
「選ぶまでもない」
ヴィーは両手を前に突き出した。そこから青白い業火が噴き出し、魔法陣を次々と焼いた。生き物のように動き回る炎によって、研究員の悪魔たちもことごとく消し炭に変えられていく。あまりに熾烈な火焔と魔力によって、空間の温度と魔力密度が危険域まで上昇する。
セウェイとトバースは視線を合わせて頷きあう。
「一気に決めちゃって、トバースのボウヤ」
「ボウヤはやめてくれ、女装エルフ」
「女装じゃないわよ。アタシが着たいものが女性物のふりをしているだけよ」
「はいはい」
その間も、ヴィーは戦い続けている。ヴィーはその「炎使い」という異名の通り、炎の魔法に特化した能力を有している。その炎の制御能力に関しては、グラヴァードをも凌ぐだろう。
「よし、一気に決め――」
「ふむ……」
トバースの出鼻を挫くかのように、悪魔の向こうにいるハインツが顎に手を当てた。
「なれば」
ハインツの黒い瞳が無感情に状況を見回す。そしてハインツはパチンと指を鳴らした。
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