こんのクソ結界がぁっ!
トバースはエクタ・プラムの強固な結界を恨む。正面から堂々と入れるなら苦労しない。だが今は、正規の入り口は、その全てがギラ騎士団によって魔法的に封鎖されていた。銀の刃連隊の騎士であればあるいはその罠に気付いたかもしれないが、今は先程の魔神の一件によってそれどころではなかった。そして街の住人たちは誰も結界から外に出られない。
開けるしかないだろ!
諦めたら、闇の子も、ヴィーも、助けられなくなる。
『あらあら、苦戦中ねぇ』
「だ、誰だ」
突如加わった強力な追い風に、トバースは一瞬注意を逸らす。
『ほらほら、前向いて。あたしが助けてあげるからねぇ』
「……助かる」
結界への干渉の結果生じる、魔法的な輝き。もはや目を開けることもできないほどだ。だが、トバースたちは確実に結界に綻びを生じさせていく。
「君が、セウェイか?」
『そそ。この状態では顔は見せられないけど、後で合流しましょ』
「そう、しよう!」
一もニもなく、トバースは同意する。二人の注ぎ込む魔力は加速度的に増していく。
『きた! 今なら飛び込め……ってちょっと待って。結界が揺れてる』
「揺れてる?」
トバースは怪訝な表情を見せる。だが、確かに結界が揺れていた。強烈な地震でも起きているかのように、グラグラとだ。こんな現象を見たことはない。
『でも考えてもしょうがないわね。飛び込むわよ!』
トバースは力強く背中を押される。その勢いで結界の中に転移し、目的地に向かってさらに跳ぶ。セウェイの気配は付かず離れずだ。
途中いくつも魔法的なトラップが仕掛けられていたが、トバースたちは力技で突破した。魔導師の仕掛た程度の罠など、せいぜいが嫌がらせだ。
トバースは魔力が最も濃くなっている建物の地下に向けて、一息で跳ぶ。強烈な結界が邪魔をしたが、それも打ち破る。魔神顕現によるダメージが残っていたのが幸いだった。
「ト、トバース!?」
実体化したトバースの前に、尻もちをついたヴィーがいた。
「ば、馬鹿か!? あんた、馬鹿なのかっ!?」
「かもしれないね」
トバースはすぐ隣に実体化した派手な出で立ちの闇エルフを横目で見ながら、頷いた。ヴィーはそんなセウェイを指さして喚く。
「それにそこの闇エルフ! あんたもどっかネジが外れてんのかい!? ていうか、誰だ、あんたは!」
「そぉんなことよりぃ」
セウェイは自分の背後を親指で示した。
「背中に痛いくらいの魔力を感じるんだけどぉ」
振り向きたくないと言いつつ、セウェイはゆっくりと回れ右をした。トバースもそれに倣う。
彼らの目の前には、完全に黒い霧と化した何かがいた。その霧の向こう側には痩せた男が立っている。その甚大な魔力の気配からしても、その男がハインツなのだとトバースは確信する。物理的な距離はほんの十メートルほど。だが、そこには圧倒的な心理的な壁があった。
「ほう」
ハインツが声を発する。その表情は凍てついていて、何を考えているのかが全く伝わってこない。
「グラヴァードの弟子どもの登場か。奴の臭いがこびりついているな」
「あらあら、それは光栄の極み」
セウェイは魔法障壁を展開する。瞬間的に広がったその壁は、トバースのみならずヴィーをも包む。
「アタシはセウェイ。短い付き合いになるだろうけど、覚えておいてね、ハインツ」
「そうだな。だが、覚えておく価値もない」
ハインツは右手を掲げる。黒い霧が見る間に肥大化していく。その霧はセウェイが発生させた魔法障壁を取り囲むように広がっていき、三人の視界を完全に塗りつぶした。ヴィーもトバースも、互いの顔を見ることすら出来ない。闇のエルフたるセウェイだけは無影響だったが。
「あんたたちもたいしたもんね。この状況にびびってない。人間のくせに」
「そりゃどうも。師匠が厳しいものでね」
トバースは頭を掻く。そこには動揺は見られない。ヴィーもまた然りだ。
「まさかあんた、あたしたちを助けに来たとか、そんな歯の浮くようなセリフをいうわけじゃないよね、トバース」
「残念ながらそのまさか。君たちを助けに来た」
「はっ、まったく馬鹿なことをしたもんだ!」
ヴィーは毒づいたが、そこにはいつもの勢いはなかった。トバースは闇に目を凝らし、ヴィーの表情を盗み見ようとしたが、何も見ることはできなかった。暗黒しかない。
「大魔導が三人もいれば、生贄としては十分だろう」
痛いくらいの無音の空間を引き裂くような、ハインツの仰々しい声が三人に届く。
「おとなしく、魔神の魔力の源となれ」
周囲を取り囲むむせ返るほどの魔力が、その言葉とともに一気に強まった。トバースたちは揃って歯を食いしばる。
「ハインツ様、おやめください! 妖剣テラの暴走が起きれば、帝都百万の命が失われかねません! そこまでする必要は――!」
「愚民の百万や二百万がどうなろうが構わぬ」
ハインツはそう言い切った。
「銀の刃連隊にいくらかの打撃を与えられるのであればな」
「ハインツ!」
トバースが怒鳴った。
「罪なき人々の命を奪うなんて、誰にも許される所業じゃない! まして無差別殺戮になんて、絶対に正義なんてない! どんな理由をつけたって、どんな理屈をこねたって!」
「正義?」
ハインツはその顔に侮蔑の笑みを乗せた。セウェイは「反吐が出るわ」と言って目を逸らした。
「私はそんなものに依って立ちはしない。死ぬのならば、それはその程度の命、その程度の価値しかなかったということにすぎない。そもそも刈られるだけの命であるならば、それはまた刈り取られることによってのみ価値を生む。地に落ちて死なぬ麦などに、価値などなかろう?」
「あらあら」
魔法障壁を維持するのに躍起になっていたセウェイが、たまりかねたように声を出した。
「傲慢ねぇ、あなたは。地に落ちて死なぬ麦――確かに生命としての価値はないかもしれないわ。でもね、麦なんて放っておけば勝手に死ぬのよ。あっという間にね。そして勝手に次につながっていく。それって素晴らしいことなのよ。だけど、ハインツ。あなたのしていることは、麦の畑に火を放つようなことよ。素晴らしき連綿たる営みを、ただ等しく灰にしてしまおうとしている」
「次世代につながる価値のない命であれば、燃え尽きて肥やしにでもなるのが相応と思うが?」
ハインツはその身の魔力を凝縮させる。空間の魔力密度が跳ね上がる。
「くっ……!?」
トバースたちが呻く。セウェイは魔法障壁を更に強化して、魔力の均衡状態を保とうとする。
「ハインツ、あなたの考えは、アタシの生まれた森のクソジジイたちに通じるものがあるわ。一部はただ良い主張なのかもしれないけど、やっぱりね、あなた程度の人間がそれを決めるってのは、おこがましいと思うのよね、アタシ」
バシンというような音がその場の全員の耳を打つ。それと同時に、黒い霧が薄れた。
「ほう……」
ハインツは胸を押さえて息を吐く。少し苦しそうだった。
「魔力逆相か」
「あら、これを知ってる人間にははじめて出会ったわ」
睨み合うハインツとセウェイ。二人の間の緊張が加速度的に増していく。
「ヴィー、わかっただろう。ハインツは悪なんだ、まぎれもない、悪だ」
「はん。正直言うとね、あたしも愚民の百万なんて、本当はどうでもいいんだ。ただ夢見が悪いだけで」
ヴィーの赤い瞳が鋭く光る。
「あたしが救いたいのはあの子、カヤリだけさ。それができるって言うなら、百万二百万を犠牲にしたって全然構わないんだ」
「それを承服することはできないけど、カヤリを救うっていう目的は共通だ。あとは――」
トバースは未だにダメージから立ち直っていないハインツを睨む。
「あいつを倒すという目的が共有できれば最高だね」
「そ、それは……」
事ここに至ってなお、ヴィーは悩んでいた。どうしても「ハインツを倒す」と言えないのだ。ヴィーは幼少期よりハインツに育てられてきた。その中で埋め込まれた絶対的な忠誠心のような、圧倒的な畏怖のような、そんなものがヴィーを邪魔していた。ありていにいえば、ヴィーは恐怖していた。
「いいのよ、赤毛のお嬢ちゃん」
セウェイの魔法障壁が削られ始める。だがセウェイは押し負けていなかった。一進一退の攻防だ。
「邪魔しないでいてくれさえすれば、ね。それでいいのよ」
それは凄みのある声だった。
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