04-007「福音の徒」

Aki.2093・本文

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 その時だ。

 アキは寸での所でそれをかわす。びたん、と、何かが降ってきた。巨大な水滴のような何かだ。

「うわわっ」

 上を見上げて、アキは思わず声を上げた。黒いツブが潤んでいた。本物のカエルの卵塊のように、ぷるぷると震え始めていた。そのツブ一つ一つに巨大すぎる水滴が生まれ、今にも落ちてきそうになっている。滴ったそれは、衝撃波によって荒野と化した地面をドロリと融解させていく。かすりでもしたらオオゴトだと、アキは大きく距離を取る。そのアキを追いかけるようにして涙の雨が降り注ぐ。

 明らかに狙ってやがる!

 アキは舌打ちしてひたすら駆ける。進路を変えると、そこに向かって本体の一部をぶつけてきた。本体の進路自体は北北東から動かす気はないらしい。

 涙の雨や本体切り離し投射攻撃の精度は、回を重ねるごとに上がってきている。アキの進路が予測されつつあるのだ。

 まずいな。

 アキはまた舌打ちを一つして、いったん大きく距離を取った。二キロ程度離れたところで、ようやく本体切り離し攻撃が止まる。だが、本体は猛スピードで北北東へと突き進んでいる。放置しておくわけにもいかない。

 無理を承知で切りつけるか?

 いやしかし、数百メートルまで肥大したアレに、斬撃が効果を発揮するとは思えない。無駄な危険を冒すだけだ。

 ならばどうする、アキ――自問したその時、アキの脳内に黒騎士の姿が浮かび上がる。

 そうだ。GSLも機械化人間あたしたちも、長谷岡博士が創ったモノ。そしてあたしはクリスタルドール・ゼロ。クリスタルドール・ゼロってのが未だに何なんだかさっぱりわからないけど、いかにもそれっぽい何かだ。いわば、黄金の剣を持った聖女アグネス……。となれば、そして、このGSLの出現タイミングということならば。

 ――あたしが勝てない道理はない。

 長谷岡博士は何かを期待しているに違いない。

 それは多分、人類の未来にも関わることで。

 世界の仕組みプロトコルを変える要素ファクターでもあって。

 となれば、何とかできるはずだ。

「そうだ」

 さっき奴はあたしにウィルスを送り込んできた。

 ということは、奴のネットはまだ生きている。汚染されたIn3ネットを引き摺っているはずだ。であれば、逆にそこにアクセスすれば、あるいは接点コネクションを確立できる可能性がある。

 ていうか、それしかない。

 アキは意を決して、その場に座り込み、In3局所ローカルネットへのアクセスを開始する。その瞬間に、アキのファイアウォールが反応する。脳内にアラートが鳴り響き、アキは奥歯を噛んだ。
 
「電脳戦は苦手なんだけど」

 でも今は、アカリもカタギリもいない。やるしかない。この状況をして退の二文字はないのだ。

 膨大な数のアクセスが発生しては消えていく。アキのファイアウォールはカタギリが構築したもので、おそらく世界中を探してもこれ以上のものはないだろうという代物だ。だが、それでも、汚染されたネットワークに自ら飛び込むことまでは想定されていないはずだった。

 アキは汚染された紫色の論理空間の中に、自分のアバターを出現させる。物理実体とほとんど変わらない姿形である。その方が動きやすいからだ。

「ひどい空間だ」

 アキは顔を顰めた。論理世界でありながら、。圧倒されるほどの腐臭が、アキを包み込んでいた。その腐臭はIn3ネットを汚染したウィルスが発しているもので、その紫の霧は、その臭気の具象だった。その霧はアキのアバターを覆い、その接点からウィルスを送り込もうと躍起になっている。

 長くはもつまい――アキは自身の身体を見下ろしてそう感じた。何せ四方八方をウィルスに取り囲まれているのだ。となれば、早いところこのウィルスの源泉、つまり、ベルフォメトの論理体を撃滅しなければならない。時間は今、ベルフォメトの味方をしている。不利な勝負だった。

 アキは右手に剣を生じさせて、霧を薙ぎ払う。まるで粘土を切ったような手ごたえを残して、紫の霧が薄れて消える。だが、霧は無尽蔵に発生してきてアキを包み、執拗に攻撃を繰り返す。それはしつこい静電気のように身体にまとわりつき、弾けていく。

「うざーい!」

 アキは突き進む。霧の濃くなる方へ、ありていに言えばまっすぐ前にだ。粘液的な霧はますますしつこく絡み付いてきて、アキの力をもってしても前に進むのがだんだんと難しくなる。だが、アキは一歩一歩、虚無の地平を踏みしめていく。

「アキ」
「?」

 突然聞こえてきた声に、アキは振り返る。だが、その声の発生源が分からない。何も見えない。視界は紫一色だ。指先さえまともに見えない。そしてその声も大きくひずんでしまっていて、男女の区別すらつかない代物だった。

「おまえの身の内には、In3を凌駕する力があるはずだ」
「だれ?」

 その声は、アキの問いには答えない。声は一方的に言う。

聖女アグネスの力を使え。In3に匹敵する、黄金の剣を振るえ」
「と言われても――」

 アキにはまだ、Agnアグネスやら黄金の剣やらを手に入れたという実感が全然ないのだ。だが、確かに異物感はある。電脳の内側に何かがある。

「よくわかんないけど」

 アキはその違和感に迫る。紫一色の論理空間に、黒いディスプレイが浮かび上がる。そこには赤色の文字で「システムエラー」を意味する文言が表示されている。どこをどう見ても単なる電脳システムのエラーを表示しているだけだ。

「あれ?」

 ということは?

 エラーの表示を見てみるに、電脳活性が断続的に止まっているのだ。これではこの論理空間に立っていられるはずがない。論理空間はネットと電脳の相補作用によって生成されるものだからだ。今の状態は断続的にネットとの接続が遮断されているという状態であり、継続的な情報の送受信が叶わないということでもある。にもかかわらず、膨大な情報量のやり取りを必要とする論理層での活性が行われている。……のだが、状況を考えるにそんなことは到底できるはずがなかった。だから今は原因不明の状態異常にあると言ってもよかった。

「おまえは今、異なるプロトコルを経由して、汚染されたIn3局所ローカルネットにアクセスしている。言うまでもない、Agnアグネスだ。In3からはAgnアグネスに対しては能動的にはアクションすることはできない」
「リクエスト受付のみってことか」
「そうだ」

 明快な断定に、アキは「よし」と呟いた。

「であるならば、突き進むのみだ」

 アキが剣を振るうと霧が晴れた。

「あれれ? あっけない……?」

 唐突に視界が開ける。視界が暗黒一色に塗りつぶされる。その奥に小さな点が見える。いや、小さくはない。遠いのだ。ただ、遠近感がまるで得られない空間なので、その正確な大きさはわからない。アキはともかくもと、駆け出す。もうアキの進路を邪魔するものはない。見る間にその点は巨大なものになっていく。

「たまご?」

 どこをどう見ても卵だった。鶏卵を立てて、高さ二メートルにまで巨大化させると、ちょうど今、アキが目にしているものと同じものが生まれるだろう。そしてその卵は、今まさにひび割れはじめていた。自立した卵が割れていくという光景は、なかなかにシュールだなと、アキは何とはなしに思っていた。アキとしては一体全体何が生まれてくるのかが、少し楽しみだった。

「ベルフォメトの本体なんだろうけど」

 そう呟いた途端に、卵の殻全体にひびが入り、青白い光が放たれる。暗闇に慣れた目にはその光は少々まぶしすぎた。アキは思わず目を細め、左手を掲げる。

「双頭の蛇……?」

 それには二つの頭があった。どちらが頭側で、どちらが尻尾側なのかはわからないが、とにかく両側に頭のある青白い蛇が生まれていた。蛇は両方の顔、四つの赤い目でアキを睥睨へいげいしている。卵の大きさからは想像もつかないほどに巨大なその姿を前にしても、しかし、アキはひるまなかった。巨大と言えば、アヴァンダの方がよほど視覚的迫力があったからだ。

「お前の目的は何だ。いや、お前らの目的は!」

 アキは右手の剣を握りなおしながら、無駄と思いつつも尋ねた。

『我らを生み出したのはお前たちではないか』

 蛇がじわりと響く声で答えた。答えがあったこと自体に、アキは少なからず驚いた。

「そりゃそうだけど、もうお前たちを生み出した博士はいない。ていうか、どうして今さらになってお前たちが活性化した」
『約束の刻限に至ったからだ』
「約束の刻限?」

 アキは蛇の片方の頭から目を逸らさずに尋ね返す。蛇の目が赤く輝く。

『我ら福音の徒ゴスペルリーダーは、人類に福音を与えるために現れた。剣を持ちし聖女よ。我々こそが、人の導かれるべき姿である。ゆえに我らは人々を救う。そのためには、聖女よ、貴様は滅ばなければならない』
「冗談言うなよなあ」

 アキは左手にも剣を生じさせる。

「聖女だの福音だの、どうでも良いって。あたしだって人間を守りたいんだよ」
『なれば自らの刃で死ね』
「イヤだっての。お前たちは人を殺し過ぎた。そしてあたしはお前たちを裁くことができる。いや、たぶん、あたしにしかできない。だったら、奪われた人々の恨みを晴らすのは、あたしの責務だ」
『なるほど』

 蛇は呟いた。

『聖女よ、それは本当の意味での人々への福音となるのか』
「知らないけど」

 アキは右足をじりりと前に出す。

「おまえたちを創ったのは確かに長谷岡龍姫博士だったろう。けど、GSLはもう不要なんだ。GSLを契機きっかけにして、世界は戦争をやめた。それでおまえたちの福音はもう実現できた。お前たちの役割は終わったんだ」
『それは違うな』

 蛇は問う。

『お前はこの世界を何だと思っている』

 ――と。

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