05-006「深淵なるもの」

Aki.2093・本文

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 不思議な世界だな、ここは。

 アキは違和感しかない感覚に戸惑っていた。触覚も嗅覚も使えない。視覚と聴覚のみが生きている。だから、咲き乱れる花の香りも、風の柔らかさも感じない。

 扉があって、そこにを挿し込んだ――のはなんとなく覚えているが、それこそ夢のようなものだったのかもしれない。

 目玉の化け物を撃破したところまではよく覚えてる。ウィルス注入したら自壊して、ミキをどろっどろにしたんだっけ。あの光景とミキの表情はちょっと面白かった。だが、そこで強制ログアウトを食らい、気がついたらにいる。

「あっ」

 小高い丘の上に一本の木が生えている。その下にミキがいた。ミキは軽く手を上げて丘から下りてくる。

「なんだろうな、ここは」

 ミキはアキの頬をつねりながら言った。

「つねられても痛くないけどさ、気分的に痛いからやめてくんない?」
「これ、夢なのかな」

 手を離して、ミキが呟く。アキは「うーん」と唸る。

「夢か、現か、幻か。わかんないね、そういうのって」
「だな」

 空は一面の青。白から青への強烈なグラデーション。太陽の輝きは、野に咲く花を傷めつけるように降り注ぐ。

「拡張センサーの類は全部だめだ。ミキは?」
「アタシも。頼りないな」
「人間の頃はこんなだったはずだよ、あたしたちも」
「そんな感覚は、もうとっくに忘れたね」
「うん」

 そう。覚えていないのだ。脆弱ぜいじゃくだった人間の時代を。記憶はある。だが、感覚は残っていない。残されていないのだ。

「でもなんていうか、いいな、ここは」
「うん。すごくいいね」

 アキはミキの左腕に自分の右腕を絡ませる。

「なんだい、レズいな」
「いいじゃん」

 二人はニッと笑い合う。

「あたしたち、姉妹なんだからさ」
「はいはい、お姉ちゃんお姉ちゃん」

 ミキはぞんざいにアキの頭を撫で、そしてその手で頭を掻いた。

「で、だ」

 ミキはゆっくりと周囲を見回す。アキは「むぅ」と唸りつつミキから離れた。

「こいつが最後の福音の徒ゴスペルリーダーってことで良いのかな」
「であって欲しいな」

 ミキの全身にいつもの武装が出現する。アキは先の戦闘でも用いた三メートルにも及ぶ大剣を呼び出して肩にかついだ。

 花咲き乱れる真夏の野原は、幻だ。

 太陽が消え、世界が暗黒に包まれる。

 論理空間か。

 見たことのない世界プロトコルだ。

 アキとミキは情報を共有しながら頷き合う。足場には何もなく、地平にも空にも何もない。それ自体は論理空間で慣れている。だが、

「座標が出た」

 アキが呟いた。視界の端に現在地情報が表示されている。それはレヴェレイタの本部とははるかに離れた――北海道だった。

「まさか――」

 言いかけてミキも硬直する。

「旧札幌の中心部か」
「どういうこと? 誰かがあたしたちを運んだ?」
「いや」

 ミキは顎に手をやって考え込む。

「シルス・マリアに至る道もそうだっただろう」
「ん……」

 論理層と物理層の境界……?

 アキは大剣を握りなおしつつ何も見えない暗黒の空間を見た。目が開いているのか否かも判然としない。だが、ミキの存在は感じ取ることができる。恒星の一つも残っていない宇宙空間に放り出されたのではないかというほどに、頼りない自我の感覚。夢と言われればそうだと信じてしまえるほどの希薄な現実感。

『よく来ましたね、アキ、ミキ』

 声が響いた。それは「懐かしい」とカテゴライズされる声だった。

「八木博士……?」
『私の娘たち。顔を見せてください』

 その瞬間、その空間には三つの姿が浮かび上がる。スポットライトを浴びているかのように。アキとミキ、そして、少女の姿だった。アキやミキより十歳は若く見える。しかしそれは、まぎれもなくアキたちの記憶にある八木博士の姿だった。

「博士は、あたしたちに何をさせたかったんですか?」

 アキが八木に駆け寄って尋ねた。その隣にミキが並ぶ。

『新たな世界プロトコルを創って欲しかった。によって人は神を認知してしまう。そうなったら人は、人本然の姿ではいられなくなる。は人にとって手の届く記号化アイコナイズされたものでなければならない。真なる神プロパテールの存在を認めさせてはいけない』
「そのために、を?」
『そう』

 八木は小さく呟いた。

『私が、最後の福音の徒ゴスペルリーダー――深淵なるもの』
「うそ……」
「エメレンティアナと同じように、GSL化したと……」

 二人は言葉を失った。

 八木は少女の姿を喪い、まるで戦乙女ヴァルキュリアでもあるかのような姿に変じた。手にした長大な槍が、世界を白銀に彩っていく。

『人はいずれGSLと化す。なぜならその全てがから』
「GSLってつまりなんなんですか、博士」
『GSLは……人の本来の姿。本来は何千年何万年とかけて変わっていくもの。それを私と長谷岡博士は早めたのです。あなたたち、機械化人間ワイスドール……いえ、クリスタルドール・ゼロの創造によって』
「なんでそんなことを」
『緩慢な滅びは止められない』

 戦乙女は囁いた。

『されど、今、私と長谷岡博士が手を取れば、滅びを避けられる可能性があると……あの賢者は言った』
「賢者?」
『あなたたちのよく知る人格です』
「まさか、カタギリ?」

 ミキが掠れた声で尋ねると、戦乙女はハッキリと肯いた。

『では始めましょう、クリスタルドールたち。滅亡か、存続かを占う戦いを。そう、今、
「待ってよ、でも、そんな!」
『アキ、ミキ、あなたたちはね、人間なんです』
「あたしたちはマシンだ。機械だよ……」
『いいえ』

 戦乙女は首を振る。

『あなたたちは、私の娘です。人間としての部位はもう残ってはいない。けれど、その意識は、その意志は、間違いなく固有のもの。独自のプロトコルで制御されるもの。それが人間にとって最も必要な要素。あなたたちので地が充ちる――あなたたちが勝利すれば』
「でも、なんであたしたちがあなたと戦わなければならないの」
『あなたたちは、数十億の人類の未来を背負っている。これは運命。全ての生命に、祝福を与えるために、私は神を殺します』
「それがあなたと戦う理由になるなんて、おもえな――」
「アキ、無駄だ!」

 ミキが突き出されてきた槍を、左手に生じさせた盾で受け止めた。一瞬でも介入が遅ければ、アキが串刺しにされていたところだ。

環地球軍事衛星群グラディウス・リングは今、まさに、世界を書き換えているのです。それが終わる前に決着をつけなければ、あなたたちは……人間が営々と繋いできた世界は、滅びます』
「やるしかない、アキ」
「……わかった」

 アキは周囲にぞわぞわと湧いてきた泡のような気配を察知する。

「ミキ、周りのをお願い。あたしはを……博士を」
「……頼む」
「ミキこそ」
「ああ」

 ミキの放つ火砲が、白銀しろがねの空間を金色こんじきに染め変える。轟音響くその空間の中で、アキと戦乙女が――深淵なるものが切り結ぶ。

『これで良かったのですね、龍姫姉さん』

 深遠なるものが呟いた。その声は撃剣の衝撃音に飲まれて、アキには届かない。

 ミキの砲撃は一瞬の間隙も作らない。アキと深淵なるものもまた、一時も動きを止めることはない。

「命がただうしなわれて良いはずなんてないんだ!」

 アキがその巨大な剣を打ち振るう。深遠なるものは槍の柄で弾き返し、左手から衝撃波のようなものを放つ。

「くそっ」

 全身を襲うダメージにアキは歯を食いしばる。痛覚の類は一切機能していないにしても、ダメージだけはしっかり積み上がっていく。このまま続けばすぐに動けなくなる。この空間では、論理方程式でのエネルギー供給もない。黙っていても機能停止に追い込まれるだろう。

「ミキ、まだやれる!?」
「もう少し、な」

 そっか。

 アキは意を決して跳躍する。槍の穂先が突き出されてくる。アキは構わずそのまま剣を大上段から打ち下ろした。

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