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この世界を何だと思っている?
アキは一瞬考えたが、すぐに首を振ってその文字列を意識から追い出した。
「そんな哲学的な問答をするために、あたしはおまえと向き合っているわけじゃない」
『人々の世界は、人々の認識によって成り立っている。そして人は、自らをして万物の霊長であると定義されなければ生きてはいけない。それが真であれ偽であれ、だ』
どういうことだとアキは問う。蛇は淡々と答える。
『人は意識の頂上に位置づけられていると認識してこそ、人としてのアイデンティティを得る。人であること、人で在り続けることとはすなわち、構造の最上位にいなければならないということだ。人は家畜としては生きられない』
「おまえたちは人の家畜化を防ぎ、あたしは人を家畜と化すとでも言うのか」
『然り』
双頭の蛇は断定する。あまりに明確な肯定を前に、アキは二の句が継げない。
『人は神を描くことで、神の本質を矮小化し、人の本然の中にそれを生成せしめた。神の本質を、総体としての人の本能のレベルで刻み込むことに成功した。人間は人間の想像の及ぶ範囲のものしか認知することはできぬ。人は神を想像し、創発し、そして人の意識の中にその粗い解像度の神を閉じ込めることで、神を人の道具と化した。その事実は歴史が証明していようぞ』
「神とか……つまり、何を言いたいんだ」
『聖女よ。まだわからぬか』
「わからないね」
アキは不貞腐れたように応じた。蛇は静かに四つの瞳でアキを見ている。アキは腰に手を当てて双頭の蛇を睨む。
「つまりなに? リアルな神様が現れると、人間は家畜になるとかそういうこと?」
『然り』
「ええ……?」
『されど、人は神に歯向かうだろう。なぜなら、人は人の認識に於いては、あらゆる事象の頂点に立つからだ。さにあらんとするものは、神なるものを悉皆、倒すべき敵と認知するだろう。たとえそれが真の神であったとしても』
「神ってのがどんなものかはわからないけど。人間がそれに挑んで不都合でもあるって?」
『然り。人は滅ぶ』
あまりと言えばあまりの断定を前に、アキは蛇を睨み上げつつ、黙り込んだ。
『人は至るべきではない。人は知るべきではない』
「世界の本当の構造というものに?」
『そうだ、彼らは認識するべきではない』
蛇は語る。
『我ら福音の徒は、その警鐘を鳴らすためにこの世界に存在を始めた。人々がその本然に持つ防衛機制により、無意識のうちに我々を必要としたゆえに、我々は観測された』
「人間が望んだから、おまえたちGSLが生まれたって? いや、でも、長谷岡博士じゃないの、開発したのは」
『開発――ではない』
蛇は微動だにせぬままに言う。アキは手持ち無沙汰に剣を弄びつつ、首を傾げる。蛇は舌をちらつかせながら、畳みかけるように言った。
『あの人間は我らに気が付いた。この世界の形態素としての我らに。そして、人間が太古に生み出した畏怖の対象、禁忌への警鐘たる我らに』
「でも、長谷岡博士はAgnやあたしたちの開発者でもあるよ。そのあたしたちが潰し合うのは、道理に合わないってことにならない?」
アキのその問いかけに、蛇は沈黙する。
「なんだかよく理解できなくなってきたけど」
アキは剣を構えた。
「おまえは今、人々を危機に陥れようとしている。どんな形であれ、人々を傷つけるのは許さない」
『笑止。人々は淘汰され、そして生き延びる。我らの行為はすなわち福音。人々がその種とアイデンティティを残したまま生き残るために必要な過程に過ぎぬ』
「だからって、大勢の人々を殺していいはずがない!」
アキの叫びに、しかし、蛇は冷淡だった。
『淘汰は必要。我らは無作為に、一つの意志の介在もなく人々を淘汰する。完全なる平等の下に行われる淘汰の末に、種としての人は生き残る』
「冗談言うな」
アキは吐き捨てた。そして叫ぶ。
「冗談じゃない!」
『……なれば人間という種が滅ぶ未来しか訪れることはない』
「それをなんとかするのがあたしたちだ!」
アキは啖呵を切る。
『その先に絶望しか残っていないとしても? パンドラの匣を、今まさに開けようとしているのだと指摘されたとしても?』
「それでもだ! 抵抗もかなわない人々を無作為に殺しておいて福音だなんだと嘯くような奴らに、人間の未来をどうのと言われてたまるかってんだ!」
『よろしい――』
双頭の蛇は、ゆっくりと口を開けた。その奥にあるのは、闇だった。影などという生易しいものではない、圧倒的な暗闇だ。
『なれば択ぶがよい。我は双頭の蛇。未来を創るも壊すも、我が能力の内なり』
「択ぶまでもない! おまえをぶっ倒して、あのキモい物理実体の方もぶっ壊す!」
『よかろう』
蛇は囁くと、一瞬の輝きの末に姿を変えた。
そこにいたのは、白髪のアキだった。それ以外は今のアキと全く同じ姿をしていた。
「あたしじゃん……」
『お前が滅びを望むのならば、我は救いを求める』
蛇は言った。アキは二本の長剣をゆっくりと持ち上げる。蛇もまた、同じ構えを取る。
「なんでおまえがあたしの姿なの」
『否、お前が我の姿なのだ』
「はぁ? あたしのこの姿はねっていうか、このアバターもね、あたしが生きていた時の姿を忠実に再現してるわけ。さすがにそこには長谷岡博士だって介入できたはずがないでしょうが」
『小さい話だ』
蛇は白髪を揺らしながら微笑する。そこには邪気の一つも浮かんでいない。確信的微笑というものだとアキは心の中で吐き捨てる。
『長谷岡龍姫は気が付いただけに過ぎない。この世界の構造に。神を観測し、神に隷従するだけのこの世界に。彼女はまた、人の世界のあらゆる秘密の継承元を隠したのだ――パンドラの匣に』
「衒学的抽象論はどうでもいいんだ」
アキはうんざりと首を振った。
「とにかく、今あたしに必要なのは、おまえをぶっ倒すことでしょ?」
『アキ。世界の構造を明かしてはならぬのだ。なんぴとたりとも触れてはいけないのだ』
「それと人々を無作為に殺すことに何のつながりがあるの」
『我がしなければ世界がそれを起こすのみ。いかような手段を以てしても、人類は淘汰される。なればと我がそれを代行しているにすぎぬ。我は一の犠牲で以て十を救おうとしているにすぎぬ。我以外の――世界がそれを実行したとすれば、犠牲は一ではとどまらぬやもしれぬぞ。まして、お前の手によれば、その全ては消え去るだろう』
話にならない――アキは剣を握りしめた。あたしが滅びの徒だとでも言うのだろうか。あたしは人々を滅ぼしたりなんてしない。あたしは人類を救うつもりなんてないし、そんな能力だってないに違いない。だが、人類を滅ぼそうというものが出てきたら、何も言われずとも戦うだろう。そしてその滅びをもたらすのが、誰でもない、あたしだなんて、ジョークにしてもできが悪すぎる。
アキは両手の剣を握りなおし、虚無の大地を蹴った。足元の暗黒が弾ける。蛇もまた、走り出す。
合計四本の剣が、暴風を伴って振るわれる。どの一撃であれ、食らえば終わる――それだけの威力の撃剣である。アキは無表情に、蛇は微笑みを浮かべながら、位置関係を時々刻々と変えていく。左右はもちろん、上下すらない。
変幻自在に空間を操る二人の戦いは、撃剣の形をとってはいたのだが、その内実は計算と侵食の戦いである。Agnと黄金の剣のバックアップを得ているアキと、自分のコードで書き換えた世界にアキを引き摺りこんだ蛇。どちらが有利という事もない。たとえカタギリでさえこの戦いには介入できないだろうと、アキは直感した。誰も助けに来ることはできない。だが、だからといって「はいそーですか」とこの戦いに負けるわけにはいかない。
しっかりしろ、あたし!
アキは歯を食いしばりながら、蛇の足を払う。蛇は左の剣を立ててそれを止め、右の剣で胴を薙いでくる。アキの左の剣がその一撃を止めるが、衝撃波までは殺せない。
「くっそ」
なんでだ。なんで押されてる。
アキは距離を取って、白髪のアキを睨みつける。そこで気付いたが、その目は、蛇のそれだ。
『潔く負けを認めよ、アキ。人の未来は我らに託せ。さすれば人は救われる』
「だからっ! そうじゃないって言ってるでしょうがっ!」
あたしなら、犠牲を出さずにすべてを救いたい。人が人を踏み台にして生き延びることを淘汰と言うのなら、そんなことで生き残った人間たちは、等しく罪を重ねることになるではないか。そんな理不尽などあってはならない。
『罪咎を背負え、人を模したモノよ』
確かにあたしは人間とは言えないけど。そんな言い方をされるとムカつくな。
アキはまた距離を詰めた。間断のない打ち合いが生じる。金属音と火花が飛び交う。双方向に論理解析が進んでいく。先に侵入を許した方が負ける。
「GSLはもはや不要! あたしたちは、あたしたちのやり方でやっていく!」
『そして再び繰り返すのか。圧倒的な淘汰を』
「そうしないようにするのもまた人間だ!」
『そして失敗し続けるのもまた人間ぞ』
「なら! おまえは人間が相争わないようにできるっていうのか!」
アキの一撃が蛇の左手の剣を圧し折った。白髪のアキは目を細めて後ろに跳ぶ。だが、アキは間合いを離させない。フルパワーで虚空を蹴り、両手の剣を組み合わせて大剣と化し、一気に振り抜いた。
『!』
立てた剣ごと、蛇の右わき腹を砕く。青白い光が傷口から漏れ出てくる。アキは間髪入れずに大剣を振り戻し、今度は首を狙って斜め上から打ち下ろした。
『我を滅ぼす事の意味を理解っているのか』
不可視の力に阻まれて、あと皮一枚の距離で刃が止まる。アキは震える腕にさらに力を込める。だが、動かせない。
「おまえを滅ぼしてから考える!」
『それが人類の代弁であると。そういう事か』
「知らないよ! そんなこと考えたこともないし! でも、犠牲の上に成り立つ平和なんて、要らないんだ!」
『ははははははははは!』
蛇は笑った。自分の顔が自分を嗤う。アキは奥歯を噛み締める。
『お前たち人類が何をしてきたか。どんな歴史を歩んできたのか。我は全て知っている。愚かしい人類の歴史を全て知っている。されど、人類はなぜ人類同士で争ったのか。わかるか』
「そんなの――」
今ひとことで言える問題じゃないだろう!
アキは心の中で怒鳴る。白髪の方のアキはニヤリと唇を歪めた。
『人類には共通の敵が必要なのだ。倒し得るギリギリの敵がね』
「それが……おまえたちGSLだっていうのか」
『少なくとも我らを観測し、この世界に顕現させた人間は、そう考えていたようだがな』
長谷岡博士か……。アキは唇を噛んだ。
「だけど、だとしたら!」
アキはなおも腕に力を入れながら怒鳴る。
「さっきの神とかはどうなるんだ! 共通の敵じゃないってのか!」
『神はな、人には決して超克能わぬ。かのものは人に絶望しか、もたらさぬ。ゆえに、パンドラの匣に触れるべきではないと言っている』
「強大すぎる敵だっていうことか」
『然り』
アキは一瞬迷った。
「でも、あたしはさしあたり、やっぱりおまえを倒さなきゃならない。その後のことはやっぱこの後に考える!」
『ふっ……』
白髪のアキは嘲笑を見せた。その直後、アキの大剣がその首から上を消し飛ばした。青白い光の柱が、首の断面から立ち上る。
これで、よかったのか?
アキの中にはモヤモヤしたものが残る。光と化して消えていく己の似姿を見て、怖気を覚える。
「っていうか、神ってなんなんだよ、長谷岡博士!」
アキは何もない空間に、完全なる虚無に向かってそう叫んだ。無論、応えはない。
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