おーい、アキ姉、そろそろ行くぞ。
ミキは二階に向かって声をかけた。
「待ってー! お姉ちゃんを置いていかないで!」
「はいはい」
ミキは呆れたように車のキーをくるくると弄び、カバンを「よいしょ」と持ち直す。
「ほんと、余裕を持った行動というのをだな、そろそろ覚えなきゃ」
「ごめんねミキ。あたし、三分前行動してるんだけど、世界の時間が速いのよ」
「哲学だな」
ミキはパンプスを履き、アキを待つ。いつものことだ。
大学に向けて車を走らせていると、信号に捕まった。その時たまたま、横に選挙カーが並ぶ。そこには「桐矢響子」の名前があった。この選挙から政界入りを狙う、新進気鋭の候補者だった。二十年後には内閣総理大臣になるであろうなんて紹介されてたな――車を自動で走らせながら、ミキは頬杖をついている。助手席ではアキがおにぎりを頬張っていた。寝坊するがゆえに、いつでも朝食は車中である。ちなみにおにぎりはミキが握っている。
後部座席の窓に、桐矢本人の姿があるのを見つけ、ミキは少し表情を険しくした。
「アタシ、あいつのことなんか気に入らないんだよね」
「なんで?」
「なんか」
ミキは溜息を吐きつつ、信号が変わるのを見届けた。車が走り出し、桐矢の車とは別の道を行く。
「ところでアキ姉。論文のテーマは決まったんだっけ?」
「うっ……胃が」
「そんだけおにぎり食っといてよく言うわ」
あきれたように言いながらも、その口元には柔らかい微笑が浮かんでいる。
「テーマは何にするのさ」
「ええとね」
アキは空中に指で長方形を描いた。するとそこに何か文字情報が表示される。
「覚えとけよなぁ。博士号取れるかどうかなんだろ」
「どーせ十代でドクターな美貌の妹ちゃんには、何をとっても勝てないお姉ちゃんですよーだ」
「拗ねてる場合か。で、テーマは?」
「んーと、論理世界と物理世界に於ける共通プロトコルの存在について」
「どういうことだ? 物理世界と論理世界が同じプロトコルなわけないだろ」
「そうかな?」
アキは首を傾げる。
「その二つの相……いや、どっちかっていうと層の方か。それって、本質としてどこか違うの?」
「違うも何も、物理の世界はあらかじめアタシたちが存在してる世界だし、論理の世界はそこから派生したプロトコルの世界だろ? いくらネットワークの世界が物理世界を模したモノだと言っても、その約束事はあくまで模倣的だろ」
「それ、違うと思うんだよなー、あたしは」
「だったらなにかい、アキ姉。物理と論理の相は、どっちも同じレベルのレイヤに属しているって、そう思ってるわけ?」
「うん。主従関係はないと思う」
「へぇ」
ミキは半眼になってアキを見る。
「まぁ、そういう考え、否定はしないけど。ラジカルっていうかエキセントリックっていうか。で、教授はなんて言ってるのさ」
「長谷岡教授?」
「うん」
「面白いねって。昨日はそういう考えの持ち主を待ってたんだって言ってくれたけど」
「へぇ……あの長谷岡教授にそこまで言わせたのか、アキ姉」
「すごい? お姉ちゃんすごい?」
「はいはい、すごいすごい」
「あー! 心がこもってないよ!」
アキはおにぎりをもぐもぐしながら抗議した。
その時、フロントガラスに突如「緊急停止」と表示されて車が止まった。
「なんだ?」
ミキが前方に視線を戻し――。
「あ……!」
二人は同時に声を発する。アキがそれを指差しながら、乾いた声で言う。
「あれってさ」
「うん」
二人は茫然とした様子で車から降りた。周囲の車たちも全て停止しており、まるで時間が止まったみたいだった。多くのドライバーたちがアキたちと同様に外に出て、その巨大な何かを見上げている。
アキはその暗黒の眼窩に吸い込まれそうな感覚を覚えた。ミキがその肩に手を置いていてくれなかったら、そのまま意識を持っていかれてしまったかもしれない――そう思えるほどに、その暗黒は蠱惑的だった。
「アキ姉、あれ、見覚えある……よな?」
「うん。アヴァンダだ」
西暦2093年――今回の世界はここから始まる。
-Aki.2093 完-
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