聖神殿の周りには、突如現れた暗黒の城に不安を覚えた人々が大挙して押し寄せていた。すっかり日は落ちていたが、みながみな不安そうな顔をして聖神殿を見上げていた。彼らの寄る辺はやはりエレン神、そして聖騎士エライザその人なのだと、シャリーは改めて実感した。
誰もがエライザの言葉を待ち望んでいたが、シャリーはそれは得られないだろうと思っている。おそらく今夜はエライザもヘレン女王も沈黙を守るだろうと。早くても明日の朝まで、有力者たちは誰も動かない。
シャリーはその健脚を活かして、群れる人々の間をすり抜ける。目指す先はケインたちの家だ。
「あれ、シャリーじゃん」
ドアを叩くとすぐにケインが開けてくれた。シャリーはニコリと笑って、先程ケインたちに与えたものと同じ霊薬を二本、手のひらに乗せて差し出した。
「やっぱり起きていましたね、まだ」
「これって、つまり、今夜は寝るなよっていうこと?」
ケインはそれを受け取ると、一本をアディスに投げ渡した。シャリーはにこやかに頷くと、二人は「やれやれ」と声を揃えて言い、同時に小瓶の中身を口に流し込んだ。
「うぇ、相変わらずびみょーな味」
「そのびみょー成分がありがたい霊薬成分ですからね」
シャリーは言うと、勧められるがままに木の椅子に座る。お世辞にも座り心地は良いとは言えない。
「で、俺たちだけで乗り込むってのか、これ」
「はい」
シャリーは傍らに立つケインを見上げ、肯いた。
「外がすげぇ騒がしいのはわかるんだけど、俺たちだけって言ってもよ、さっきボコボコにされたばっかりじゃん。どうすんの?」
「あの黒ローブの集団は、ギラ騎士団だそうです」
「あれがギラ騎士団!?」
冷たいお茶を用意していたアディスの声がひっくり返る。ケインの方はまだ状況を理解できていない。ケインは霊薬の入っていた小瓶をシャリーに返しながら尋ねる。
「ギラ騎士団って、大魔導レベルの連中がうじゃうじゃしてるっていう? そいや昨日の爺さんもそんな事言ってたな? ギラ騎士団がどうのとか」
「そうです。ギラ騎士団は世界中で暗躍している謎の組織ですよ」
「悪い奴らだとは聞いているけど、いまいちピンとこねぇなぁ」
ケインの認識が、多くの人々が持つギラ騎士団についてのそれである。
「目的や政治的主張はよくわからない集団ですが、善良であるとは言い難いです。世界の敵とも言われていますし、実際に彼らが主導したテロ行為は枚挙に暇がありません」
「へぇ」
ケインは頷いてからシャリーを窺う。シャリーは咳払いを一つして、話題の方向性を元に戻す。
「魔神の言葉から推測するに、私たちがあの城に入ることについては、魔神は拒否しないはずです。そして当の魔神はギラ騎士団によって少なからぬダメージを受けていると推測されます」
「倒されちまったってことは?」
「それはないです」
シャリーはハッキリとそう言った。
「エライザ様によれば、あの城自体が魔神であって、魔石なんだそうです」
「そ、そうなんですか?」
アディスは額に浮かんだ汗を拭きながら考える。
「だとすると、膨大な魔力を持っているということに――」
「そのとおりです」
シャリーは緊張感をもってそれを首肯する。
「エライザ様はギラ騎士団の動向を追うというので、明日の夜までの様子見をするとおっしゃいました。ですが、私にはどうしても納得がいかないんです」
「……と言うと?」
アディスはそわそわと杖を弄ぶ。ケインは立ったまま、腕を組んで目を閉じていた。
「だって、セレナさんは最年少神官というくらいの才媛でしょう? ましてエライザ様の筆頭補佐官、でしたよね?」
「そうですね」
「だったら、みすみすこんな危険な状態に置いておこうだなんてしないはずです」
「しかし……」
アディスは少し考えてから言った。
「現在、我々ディンケルの虎の子である風の騎士団は各地に散っているものと思われます。魔神のみならずギラ騎士団も噛んでいるとなると、いくらエライザ様やアリア様とはいえ、迂闊にあんな場所に踏み入ることはできないのではないでしょうか」
「可能性は、あります」
シャリーは小さく頷く。
「しかし、一部の兵力すら動かさないのはやはり大きな違和感があります。まるで――」
「ギラ騎士団に任せているように見える、ってことか?」
目を開けたケインが鋭い口調で言った。アディスは「何を言っているんですか」とやや憤慨したように言ったが、ケインは「感情論は抜きにして、ありえねぇ話じゃねぇよ?」と軽く手を叩く。
「メレニを巡る利害の一致があった、なんてのは一番ありそうな話だ。この国、メレニの名前が出てきたらその瞬間に目の色が変わるからな」
「それは仕方のないことでしょう」
アディスが不貞腐れたように言う。
「ディンケルは長い間メレニの支配下にあるわけですから。そもそもあの黒い城だって、メレニがいなければ海に沈むことはなかった」
「……待ってください」
シャリーは静かに両手を組み合わせた。青緑の虹彩が、ランプの光を鈍く反射する。
「思えばなぜ、魔神サブラスはあそこにいるのでしょう」
「……あそこに封印されていたからじゃね?」
「封印、されていたと思いますか?」
シャリーの詰問口調に、ケインは押し黙る。
「魔神の封印は、実はとっくに解けていたとは考えられませんか。そして時が来るのを虎視眈々と待っていたとは思えませんか?」
「そんな、まさか」
アディスは頑固に首を振ったが、シャリーは譲らなかった。
「城が沈んだ五十年前には、魔神は目を覚ましていた可能性もありはしませんか。そしてそれゆえに海に沈んだ、とも」
「まさか、サブラスが自分の意志で沈めた、とでも言うんですか?」
アディスはシャリーのその突拍子もない仮説に目を剥いた。
「五十年後の今日のために、敢えて姿を隠していたとも」
「あるいは、それと気付いたメレニ太陽帝国が、何らかの方法で沈めたか」
ケインはもう愛用の革鎧を身に着け始めていた。その鎧は先の戦いで甚大なダメージを受けていたが、まだかろうじて着用することはできる――そんな状態だった。
「案外、ディンケルが危ないことをやらかそうとしたのを見て、メレニが介入したのかもしれねぇな、シャリー」
「ええ」
シャリーは小さく三回頷いた。アディスはなおも釈然としない様子だったが、論理建てて反論することが出来なかったので、沈黙を選んだ。
「それも全て、歴史の闇の中ですが……。わずかに五十年前のこととはいえ。それに、エライザ様は……」
シャリーは数秒躊躇してからアディスを見据えて言った。
「ああなることを知っていた様子でもありました」
「ああなることを……」
アディスは渋々と言った様子でカバンを持ってきて、中にいくつか干し肉や水筒を放り込んだ。ディンケルで生まれ育ったアディスにとっては、聖騎士であるエライザに疑義を唱えるなどあってはならないことだった。もっとも、同じ環境で育ったはずのケインには、神殿に対する畏怖や敬意はまるでないのだが。
「セレナさんの救出を急ぎませんか、アディスさん」
シャリーのダメ押しに、アディスはため息をついた。
「わかりました、行きましょうか」
アディスは意を決したように鍵を外し、扉を開け、驚いて尻もちをついた。
「どうした……って、なんでぇ、昨日の爺さんじゃん」
「サブラスは人の手に余る。されど人はあの力を求める」
男はいきなり言った。フードの奥の爛々と輝くその瞳がシャリーを見つめている。
「あの力は、決して誰の手にも渡してはならない」
「そのつもりだけどよ」
ケインはぶっきらぼうに言う。
「だけど俺たちはエライザ様とか、風の騎士団の連中みてぇな力を持ってるわけじゃない」
「ならばこそ、だ」
「しかし、僕たちは魔神に一度撃退されています。それどころかセレナまで」
アディスの言葉に男は頷く。
「知っている。お前たちはあの娘を助けたいのだろう」
「不気味な爺さんだな、おい」
ぶつぶつというケインには目もくれず、男は言う。
「それこそがお前たちの運命。クレスティアを魔神に渡してはならん」
「――っ!?」
三人は思わず絶句して、知らず、男を睨んだ。
「なぜそのことを」
「運命がそう語る」
男は即座にそう応じた。そして右手を横に振り上げる。
「行くが良い」
「ちょっと待てよ、爺さ――」
ケインがその肩に触れようとした。だが、その手が触れるその瞬間に、老人の姿は消えてしまった。
「なに……!?」
『私は運命に抗えなかった。だが、次こそは――』
男の声が三人の頭の中で響く。
三人が顔を見合わせると同時に、三人の姿は室内から消え去った。
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