僕らが教室に収まるのを待っていたかのように、ドアが乱暴に開けられた。僕らを含めたクラスメイトたちは、一斉に教室前の方にあるドアに注目した。あまりの勢いで開けられたドアが、外れて廊下で派手な音を立てた。
「チョッカ……」
誰かが――ていうか、僕の声だ。そこに立っていたのは大砲の弾のような小太りの同級生である。その手には大きな包丁を持っている。尋常ではないその様子に、クラスの女子たちが悲鳴を上げる。そして男女を問わずに一斉に教室の後ろの方に集まって、後部のドアから飛び出していく。チョッカは彼らには目もくれず、ただ夏山ルリカをギラギラした目で見ていた。僕は足が竦むのを感じながら、夏山ルリカの手を握りしめ、僕の後ろに庇おうとした。
「ありがと、ショーガツ」
夏山ルリカはそう言って僕の行動を止めた。でも僕は夏山ルリカの前に出る。
「どけよ」
チョッカが包丁を振り回しながら吼えた。その狂気に侵された声に、僕は身が竦む。でも、僕は夏山ルリカを守らなくちゃならない。傷付けさせるわけにはいかない。身体はまるで氷漬けにでもされたかのように動かない、震えている。僕は夏山ルリカの左手をしっかりと握りしめ、チョッカと対峙した。
「このままじゃ二人ともやられちゃう。ショーガツ、離れて」
「冗談じゃないよ」
僕とチョッカの間にあるのは机が三個。チョッカはそのうちの一個を乱暴に蹴り払った。派手な音を立てて机が倒れる。チャイムが鳴った。五時限目の授業が始まる。先生も来るだろう。時間を稼げば良い。僕は瞬間的にそう考える。
「チョッカ、何でこんなことをするんだ」
「二人して俺をコケにしやがって」
チョッカは目を血走らせ、今度は椅子を蹴飛ばした。ガタン、と音を立てて、椅子が転がって滑っていく。
「大方俺を嗤ってたんだろう。大方俺を馬鹿にしてたんだろう。俺みたいな馬鹿でデブな奴が夏山に告白するとか、身の程知らずだとか言って嗤ってたんだろう」
「そんなことない!」
夏山ルリカが叫ぶ。「うるせぇ!」とチョッカが怒鳴る。夏山ルリカは小さく悲鳴を上げて僕の右手を握りしめた。
「お前ら、殺してやる!」
チョッカが跳びかかってきた。机を踏み台にして、上から襲い掛かってくる。僕は瞬間的に夏山ルリカを突き飛ばす。夏山ルリカは机にぶつかって転倒する。僕は体勢を整えることが出来ない。
その時、チョッカが「ぐぅっ」と変な声を上げて空中でバランスを崩した。その脇腹に警棒のようなものが当たったのを僕は見た。それはシュルシュルと音を立てて教室の入口に向かって飛んでいく。
「タケコさん! ……と、還屋!?」
そこには滅多に学校に来ない――というよりいた記憶のない――還屋未来がいた。タケコさんがいることにも驚きだが、そのタケコさんと還屋が一緒にいることにさらに驚いた。還屋はそのツインテールを両手でいじりながら、タケコさんに何か言った。
警棒のようなモノを回収したタケコさんは、一も二もなく教室に踏み込んできた。未だ悶絶しているチョッカに向けて、包丁を捨てるようにと怒鳴り付ける。
チョッカは唸り、包丁を手放す様子はまるでない。ゆっくりと立ち上がったチョッカは、タケコさんに向かって包丁を振るった。だが、タケコさんは伸ばした警棒のような黒い棒で、その包丁をあっさりと払い除ける。その正眼の構えには全く隙が無い。大振りのチョッカの攻撃なんて、まるで当たるようには見えなかった。
「タケコさん、大丈夫なの?」
「剣道四段、舐めるんじゃないわよ」
そう言ったまさにその瞬間、電光石火の打ち込みがチョッカの右手首を襲った。チョッカも良く反応したが、タケコさんはそれを見越しての空振りをした。そして掬い上げるようにして包丁を絡め取り、撥ね上げる。包丁はあっさりと蛍光灯を割り、天井に突き刺さった。LED蛍光管の破片が、キラリキラリとチョッカの上に降り注ぐ。
勝負あったかと思ったが、チョッカはどこからか折り畳み式のナイフを取り出した。あれはバタフライナイフというヤツじゃないだろうか。あんなもの、どこで手に入れたのか……。
だがタケコさんは怯まない。手近な机を思い切り蹴り出して、チョッカの動きを止める。チョッカはナイフを投擲する。
「タケコさん!」
キン! と音がしたと思ったら、今度はそのナイフは黒板に突き立っていた。だが、チョッカは他にも何本ものナイフを持っていた。次から次へとタケコさんに放る。しかもそれは正確にタケコさんの胸を狙って飛んでいく。
「いい加減にしろっ、チョッカ!」
僕は後ろから机を蹴り出した。途中で倒れた机がちょうど膝裏に当たり、チョッカは思い切りバランスを崩す。その時、チョッカは一瞬僕を見たが、それだけで僕はもう竦み上がってしまった。何故ならもはや人間の目をしていなかったからだ。だってそうでしょう、白目が黒くて黒目が赤いだなんて、三流のホラー映画でだってそんな演出しないよね。結果として僕と夏山ルリカは、この瞬間にすっかり打ちのめされてしまった。
恐怖だ。そりゃもう、真夜中に底の見えない穴を覗き込んでいるような、そんな恐怖である。宇宙の深淵に放り込まれでもしたかのような、そんな絶望的恐怖である。
だが、そんな恐怖をものともせず、タケコさんはチョッカだったものと対峙している。そして入口に佇む還屋未来もまた、恐れるどころか余裕さえ持った表情で、今にも鼻で笑いそうな高慢な顔で、状況を静観していた。時々流れてくるナイフが顔の近くをかすめても、還屋は全く動じることもない。あまつさえ壁に突き刺さったナイフを指で弾いたりしていた。
「おとなしくしなさい」
タケコさんはチョッカとの距離を詰めながら警告した。その間に僕らは還屋の近くに移動しようとする。
「待てコラァッ!」
ナイフだった。それはチョッカの右手から離れ、夏山ルリカに向かって飛ぶ。タケコさんの顔が一瞬歪んだのが見えた。僕は夏山ルリカの手を引いて、還屋未来の方へと思い切り移動させた。代わりに僕が後ろに進む。そこは夏山ルリカの身体があった場所で――。
結果として僕は悲鳴を上げてのたうち回ることになった。左肩が燃えるように熱かった。痛いなんて言葉では言い表せない、とんでもない熱さだ。夏山ルリカが悲鳴を上げながら僕を教室の外へ引き摺り出したが、還屋はそんな僕を冷たい目で見下ろしていた。ふと顔を上げると僕の腕から流れ出た血液がまるでぶちまけられたバケツの水みたいに赤く広がっていた。
「ショーガツ、ショーガツ!」
夏山ルリカが泣きそうな声で僕を呼ぶ。廊下で様子を見ていた野次馬たちが、僕を見て悲鳴を上げる。先生が何人か、彼らギャラリーを押しのけて姿を見せる。だが、教室内で繰り広げられている光景を前に、誰も踏み込もうという気にはなれないようだった。
「ショーガツ、どうしたらいい、どうしたら血が止まる?」
そう言われましても。
僕は何故か冷静になっていく自分を知覚する。身体がふわふわしているような感覚があった。これで痛みがなければ五分で眠ってしまうだろうというくらいに、奇妙に心地良い上下運動を起こしていた――それは脳による錯覚なのだろうが。
「ショーガツ! ショーガツ! 保健の先生来たよ、大丈夫だからね!」
「う、うん……」
僕は眠るまいと目を開く。夏山ルリカが僕のすぐ目の前で、必死で涙をこらえていた。
「タケコさんは……」
「だいじょうぶ」
夏山ルリカに変わって、還屋がリンとした声を出した。
「朱野は負けない」
「でも、たすけな、きゃ」
「要らない」
還屋は淡々と断言する。その根拠は不明だが、その声には確信があった。
なぜ――その理由を問う前に、僕は気を失った。
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