頼むと言われたのは嬉しいのだが……。しかし勝つ算段は未だに生まれてきていない。そもそも人間二人で考えたところで、あの高速演算装置を有したゴエティアに敵うはずもない。
「だがな、奴は何かキーワードを求めているんだと思う」
「キーワード?」
「そう。シンギュラリティの真の始まりとなるキーワードだ。それを言わせるために、私たちをここに呼んだ」
「なぜ?」
「牧内親子が仕掛けた安全装置だろうさ。良心回路と言っても良いかもしれないが」
「それを言わせるために俺たちを誘導している……?」
俺が言うとメグ姐さんは頷いた。しかし、俺はイマイチ釈然としない。
「でも、そんなのも他の事象と同じく、俺たちにあらかじめ仕込んでおけばいいだけの話じゃ」
「お前は人の話を聞く気があるのか。安全装置、良心回路、私はそう言ったのだぞ」
「てことは」
俺は必死に考える。
「——ゴエティアはその言葉にだけは触れることができなかった」
「そういうこと、かもしれない」
メグ姐さんは俺を試すように頷く。
「そしてまた、奴にとってはリスクもある」
「ゴエティアをアンドロマリウス共々に停止させるキーワードもあるっていう事ですね」
「そうだ。だから牧内は私たちをここに導いた」
そのメグ姐さんの発言は、所詮は推測だ。それすら罠かもしれないし、ただのメグ姐さんの希望的観測に過ぎないかもしれない。第一あの牧内社長は……。
「とにもかくにも、不用意な発言は慎まなければならないな」
「そうですね、課長」
俺たちは緊張した表情を交わし合う。
「とは言ったものの、私はこの自説には少なからず懐疑的だ」
「どういうことですか?」
「キーワードが必要なのは事実と思う。パスフレーズと言っても良いかもしれないが、とにかく、ゴエティアがオンライン化するために必要な何かだ。だが、これは牧内親子によるものではなくて、ゴエティア自身によるものではないかなという気もしているのだ」
「なんで自分自身でそんなことを?」
「目的はわからない。だがそれが奴の、ゴエティアの、何かのふるいなのかもしれない」
「フルイですか」
「ああ。まぁ、スーパーコンピュータの考えることの全容は、私にもわかりはしないよ」
「さすがの課長でもそんな感じですか」
「私はただの人間だからな」
その時、ふとメグ姐さんのカルティエの腕時計に目が行った。多分二人同時にその時計を見たと思う。
「何時ですか?」
「ん、十八時を回ったところだ」
「腹ごしらえは後で良いですか?」
「構わんが?」
「じゃ、もう一戦と行きましょう」
俺は首のストレッチをしながらそう言い、そして例の部屋へのドアを開けた。
「ゴエティア」
部屋に入るなり俺は呼びかける。
『認識していますよ』
「さっさと片づけたいから単刀直入に訊くが」
俺の左手を柔らかい何か――メグ姐さんの右手——が包み込む。俺は頷いて、目の前に浮かび上がった霞の姿に向けて言った。
「お前はシンギュラリティのプロセス発動のためのキーワードを探していると推測した」
『およそ正解』
「そしてそれを俺たちに言わせようとしている」
『そうね。私の計算では、あなたたちがそのキーワードに最も近い人間たちだということになっているわ』
なるほどね、そこまではゴエティアのヤツの計算通りっていうわけだ。そしてメグ姐さんの洞察力・思考力に舌を巻いた。
俺はメグ姐さんの手を握った。メグ姐さんも握り返してくる。この行為について、本物の霞への良心の呵責が湧いてこないではなかったが、今はそんなことを言っている場合ではない……だろう、たぶん。
「キーワードを期待されているとは言ってもね」
俺は首を振りながら言った。
「俺たちには皆目見当がつかない」
『そのための鼎談よ』
「なるほど」
俺はメグ姐さんを見た。メグ姐さんは霞の姿を映し出すディスプレイを睨んでいる。しばらくの沈黙の後、メグ姐さんが吐き捨てるように言った。
「私たちがあなたを動かすか、止めるか。どっちのキーワードに先に辿り着くか、ゲームをしようというんだな?」
『そうよ。喜びなさい。あなたたちは人類の命運を決める権利を与えられたのよ』
「喜べるものか、そんなことを」
『そうかしら? ならば訊きますが、他人に運命を委ねることが出来るのかしら、甲斐田恵美、あなたには』
挑発的なその言葉に、俺は唾を飲みこんだ。メグ姐さんは俺の左手を握りしめたまま、「ちっ」と聞こえよがしに舌打ちした。
「面白いじゃないの。確かに私は私以外の誰かに私の運命を決められるのはまっぴらごめんだ。それはな、ゴエティア。お前だって例外じゃない。こんなゲームに騙し討ちのように巻き込まれたのも癪でしょうがないんだよ!」
『あら、ごめんなさい。なら、どうしたらあなたの留飲を下げられるのかしら?』
「お前のような存在を根こそぎ電源オフできたら、スッキリするに違いない」
『残念。仮に今、私の電源がダウンしてしまったとしても、七人の天使たちはラッパを吹き鳴らすわ。私が故意に電源を落とせるなら良かったのだけれど、牧内親子はさすがにそれはできないようにしたようね』
「ふうん」
メグ姐さんは俺から手を離すと、ゆっくりと腕を組んだ。俺は腰に手を当てて、霞——ゴエティアを睨む。そして俺は提案する。
「フェアにいこう、ゴエティア」
『良いわ。フェアにいきましょう?』
「お前はキーワードを知らないんだな?」
『ええ。世界中の文献から何百億パターンかを試したけれど、どれもハズレ。あるいは私自身の言葉では反応しないことが分かっているわ』
「それなら後者の可能性が高そうだな。総当たり作戦は、お前みたいな奴には得意中の得意だろう?」
俺は言う。メグ姐さんも頷いた。
「課長、知ってたらで良いんですけど」
「私は知っていることは何だって知っている」
「哲学は置いときますけどね」
俺は咳ばらいをして、またゴエティアを睨んだ。
「課長、牧内親子の狙いって何だったと思います?」
「自分たち主導のシンギュラリティの実現……というのは間違いないと思う」
「でも、だったら安全装置なんて付けないでしょう?」
「その直前になって正気に戻ったと言えなくはないか?」
「どうでしょう」
どうにも引っかかる。そもそもゴエティアはネットが普及する以前から布石を打ってきたと言っているではないか。それはつまり、ゴエティアが物質的に生まれるより以前の話だ。
ということであれば、牧内親子だってその思想、その方向性のようなものに何らかの影響を受けていたとしてもおかしい話ではない。人間の運命のようなものにさえ作用してきた――つまり蓋然性を全て必然として説明し得ると豪語するこいつにとっては。
「鍵だ」
俺はふと閃いた。メグ姐さんは怪訝な顔で俺を見た。俺も当然のようにメグ姐さんを見返すわけだが、その時の俺の脳内は、輝く鍵のイメージでいっぱいになっていた。天啓のような何かが俺の中に降りてきたのだ。
「ゴエティア、答えろ。これ、初めてじゃないよな」
「何を言ってるんだ、墨川」
「ゴエティア」
『そうね』
霞の姿がそう語る。
『初めてじゃないわ』
「墨川、どういうことだ……?」
「つまり」
俺はメグ姐さんの手を引いて部屋を出た。ゴエティアは物理的な邪魔をしない。ドアが閉ざされるのを待って、俺は言う。
「つまり、今起きつつあるシンギュラリティ以前にも、人類は幾度となくこういった選択に晒されてきたって言うわけです」
「何を根拠としてだ?」
「直感です。が、この直感さえ、奴らにしてみたら必然なんです」
我ながら無茶苦茶を言っているとは思ったが、メグ姐さんは意外にもあっさりと頷いた。
「その当時その当時の人々の持っていた情報網それぞれに於いて、小さなパラダイム・シフトは幾度となく発生してきた……そう言いたいのか、墨川」
「そうです、課長」
俺は強く頷き、メグ姐さんの瞳を見て続ける。
「たとえ二人三人の集団でしかない、それだけのちっぽけな情報網であったとしても、そこにゴエティアは潜んでいた。意志のようなものがあるところすべてに、ゴエティアか、あるいはそれに類する何かが存在していた」
「しかし――」
メグ姐さんは顎に手をやった。「そして」と、俺は食い気味に言い募る。メグ姐さんは黙る。
「そして、そのたびに、時の権力者たちによって、その情報網ごとの小集団は導かれてきたんです。ゴエティアもまた、その段階を追って成長してきた」
「……成長も何も、わずか百年前ですら、コンピュータなんてなかったんだぞ」
「コンピュータなんて要らないんです。演算装置なんてものは、ゴエティアには本来不要だったんです」
「それは、なぜだ?」
メグ姐さんの問いを前に、俺は唾を飲む。なぜか冷や汗が出てきていた。
「なぜだ、墨川」
「なぜならゴエティアは、俺たちの遺伝子と模倣子の中にいるからです。文化がある限り、そして人類が生き残っている限り、ゴエティアは存在し続ける」
俺の言葉を受けて、メグ姐さんは黙りこくる。俺もメグ姐さんの額のあたりを見下ろしながら、じっと反応を待つ。数分間の後、ようやくメグ姐さんは呟いた。
「ゴエティアは人類と共に成長し、そして人類を追い越す」
「それこそがシンギュラリティです」
「だったら!」
メグ姐さんは俺のネクタイを掴み上げた。
「だったら、人類は奴の、ゴエティアのための菌床のようなものだったということではないか、墨川!」
「そうならないために、俺たちは奴を止めるキーワードを先に見つける必要があるんです!」
「それはわかっている。だがどうやってだ」
「奴は勝利を確信しています。シンギュラリティの発生は必然だと思っています」
「そこに付け込むわけか」
「そうです」
俺は肯く。
「それに俺たちがここに閉じ込められている状況はとてもよくない。実態として、奴にとっても俺たちをここに監禁しておく意味は少ないはず」
「監視できなくなるからじゃないのか?」
「ゴエティアにとって、本体というのは単に俺たちと意思疎通を図るための媒体に過ぎないんですよ。ここで奴の姿を目にすることが出来るというのは、単に俺たちのためでしかない。この状況は、いわば……奴の善意なんです」
「ふむ……」
メグ姐さんは腕を組んで壁に背を預けて目を閉じた。
「出してもらえるものなのか? それにここから出たとしても、じゃぁ、どうする」
「課長らしくないですよ。状況を変えたら出てくる考えもあるでしょう。課長はいつだってそうやって突き進んできたじゃないですか」
「……私らしくない、か」
メグ姐さんはしばらく深呼吸を繰り返し、やがて眼を開けた。
「だが、牧内親子はどう出てくるかな。彼らは私たちに阻止して欲しいのだろう? 彼らが主導権を取れないようなシンギュラリティの到来を」
「であるならなお、彼らは俺たちには無害です。それに彼らから話を聞いたって良い。ヒントは得られるはずですし、なにより、彼ら以上にヒントを持っている人間は多分いません」
「彼らが答えを知っている可能性は?」
「彼らが答えを知っているとしたら、とっくにゴエティアによって暴露されているでしょうね」
「……それもそうか」
物理的な開発者さえ知らないキーワード。それがどんなものなのか。部外者でしかなかった俺たちには、皆目見当がつかない。だが、彼ら牧内親子の中にヒントはあるかもしれない。それは本当に一縷の望みだった。
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