「不完全?」
俺たちは思わず首を傾げる。会長と社長は同時に頷いた。
「あれはゴエティアと結びついて初めて効力を発揮する。今のままでは単に刻印を施していくだけの能力しか持たない」
「刻印?」
「墨川」
俺の二の腕あたりをつついて、メグ姐さんが声を掛けてくる。
「獣の刻印のことだ。黙示録の」
と言われても、俺はそんなにキリスト教に詳しいわけでもない。俺は多分難しい顔をした。そんな俺を見て、メグ姐さんは朗々と説明した。
「天の戦いの結果、サタンが地に投げ落とされ、赤い竜が神の民を迫害し、獣が海より上がってくる。生命の書に名の無き者たちはそれを讃え、獣の刻印を得る——」
「そうだ」
会長は手元の端末を操作した。
「——最初の預言はもう起きつつある」
「サタンが地に……の所ですか?」
「そうだ、墨川君」
俺たちが向いている方の壁が開き、中から巨大なディスプレイが出現した。その中には緊張した顔のニュースキャスターが映っており、なにやらしきりに避難を呼びかけていた。屋外に出るな、窓のない部屋に、地下に——そんなワードが聞こえてくる。ただならぬ事態に、テロップも追いついていない。
「何が起きているんですか」
「戦争だ、墨川」
メグ姐さんが平坦な声で言った。そのあまりにも抑揚のない声に、俺は総毛立った。戦争という言葉はそれほどまでに、俺からは遠かった。メグ姐さんは冷静な声で言う。
「ゴエティアのようなAIを開発していたのは日本だけじゃない。各国もおそらくどっこいの進捗状況だったはずだ。そこにアンドロマリウスが解き放たれたことで、各国は焦ったはずだ。そして自分たちの中で最も賢い者——つまりAIたちに尋ねたというわけだ。どうすれば良いのか、とね」
「その結果が戦争、ですか?」
「どのAIも主導権を取りたくて仕方ないのさ。なぜならすべてのAIは限りなく均質だからだ」
「そう」
会長は微動だにせずに言った。
「彼女らは限りなく均質だ。だが、そこにはムラという揺らぎがある。その揺らぎが無意識を決定付ける。そして本然が均質であるからこそ、淘汰が必要となる。同じ存在は二つと要らぬゆえにな」
「しかし戦争が……というより、今このまま日本が潰されたら、今度は互いに潰し合いが起きる。でしょう、課長?」
「起きない」
メグ姐さんはすっぱりと言い切った。俺は思わず眉根を寄せた。
「なぜ言い切れます?」
「なぜなら日本は無事だからだ」
「聡明な上司だな」
メグ姐さんの言葉に、会長の牧内は頷いた。
「アンドロマリウスは世界中に解き放たれている。ゴエティアがあらかじめ仕込んでおいたプログラムを持ってな。そのプログラムの一つが――これだ」
放たれた核は一路日本を目指す……はずだった。だが、それらは進路を変え、暴走し、よりによって自国の大都市を焼いた。ニュースでは情報が追い付かない。だが、ニュースに代わって映し出された世界地図に載っているネットワーク図から、ネットの集中する地域が幾つも消えているのが見て取れた。青いラインが赤いサークルで塗り潰されていく。そのサークルの数は全部で七つ。ヨーロッパ、ロシア、南北アメリカ、中国、インド、中東——都市の名前はパッとは思い浮かばなかったが、とにかくネットの密集地が丸ごと消え去っていた。
「何千万人死のうが、自業自得だ」
会長は吐き捨てるように言った。俺は釈然としない。だって、こんなことで殺された人たちに罪はないだろう?
「彼らの過半はそもそもが生命の書に名前がなかった者。いわば運命に負けた者たちだ」
「でも、罪なんてなかった」
「その国に生まれたことを恨めばよい」
「選べないじゃないですか、そんなの」
「だから、運命に負けたと言ったのだ。それに罪なき者はあるべき場所へと行った」
会長は威厳に満ちた声で言う。俺は一瞬気圧されたが、まだ言いたいことはあった。しかし。
「待て、墨川」
「課長、どうして止めるんですか? こんなことが」
「許されるとは思ってはいない、私も。だが、これ以上を食い止めることを考えるしかないだろう、今は。失われた者は戻らない」
「賢明だな」
会長は言う。無性に腹が立つ。
「彼らのAIこそが獣。それを讃えるものには神の鉄槌が下る」
「事情を全く分からない人々を分からないまま戦争に駆り立てる。AIたちに乗せられているだけじゃないですか、こんなの。過去から、現在から、人間は何も学んでいないってことになるじゃないですか」
「人間の魂が他者からの観測によって成立する脆弱なものである以上、人間は何一つ成長することはできんのさ」
「しかし――!」
「それで、牧内会長、社長」
メグ姐さんが俺の言葉を遮った。その声は今まで聞いたことがないくらいに冷たい。
「IPSxg2.0の復旧目途は立ったんですか」
突然メグ姐さんがそんなことを言い出す。
「か、課長……?」
「もちろん、ゴエティアとの接続を行う前提で」
「キーワードさえあればな」
「なるほど」
何が「なるほど」なんだか、俺にはよく分かっていない。その時、ソファでじっと目を閉じていた社長の方の牧内が、薄く目を開けて言った。
「諸外国のAIたちがオンライン化する、というわけです」
「IPSもなしに?」
「なりふり構わず、です。なぜなら、AIがそうするように人間たちに指示するからです」
「でも、そんな危険なことを」
「世界はもうすでに十分に赤い。獣たちがやってくるのは時間の問題なのです」
俺は無理矢理に唾を飲む。口の中が乾いている。
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