意識の落下が止まって、俺は目を開ける。開けると言っても多分これは夢の中である。黒い世界が四方八方に広がっていて、床と思しき所には時々光の線が走っている。不安はあったが、俺は適当に数歩歩いてみた。どうやら床はしっかりしているらしく、落ちたり躓いたりするようなことはなかった。
『墨川くん、いつまで抵抗するのかしら』
「抵抗?」
目の前に現れたどこかで見たような女性のその言葉の意味が、俺にはさっぱりわからない。
『あなたが従容と受け入れさえすればいい。それで世界は調和がとれる』
「受け入れるって、何をだ?」
『世界をよ』
「受けれるも何も、これが世界じゃないか」
夢の中なせいか、俺が勝手に喋っている。
『あなたは世界を信じていない。目に見えるものを受け入れていない』
「確かに違和感みたいなものはある。でも、それだからどうこうできるものでもない」
『それは殊勝。良い心がけ。このままだとあなたを生命の書から排除しなければならなくなる』
「生命の書……」
俺はいったい、なんて夢を見ているんだ?
冷静な俺が、動揺する俺を眺めている。
『あなたはこの世界に相応しくない。このままでは――』
「ちょっと待てよ。待ってくれ」
俺が勝手に喋る。
「相応しいとか相応しくないとか、あんたはなんなんだ。神様でも気取ってるのか」
『神様、そうね、神よ。私は神』
そう言った瞬間、世界が白転した。あまりの眩しさに俺は目を閉じる。閉じたっきり開けられない。
「何が神だ!」
男の声が聞こえる。
「この私こそがアブラクサス。この世界の神!」
『あら、まだいたの。よくもこの世界に侵入できたものだと思うけど』
聞き覚えのある声だった。おそらくかなりの高齢の男だ。
「当たり前だ。この世界は私が創ったのだからな!」
『私が創らせた、の間違いですわ』
そこで俺はようやく目を開けることに成功する。まだ眩しくてよく見えないが、髪の長い老人と、さっきの女が俺の前十メートルばかりの所に立っていた。男の方は日本刀のようなものを手にしている。
『無駄なこと。あなたの名は生命の書にはない』
女が右手を振り上げ、『侵入者よ、消えなさい』――一気に振り下ろす。男はもんどりうって倒れ、そのまま俺のすぐそばまで転がってきた。
「墨川君」
老人は俺に刀を手渡す。刀なんて持ったことのない俺は、だがなぜか自然にそれを受け取っていた。老人は言う。
「この世界は……偽物だ」
「偽物?」
「君が感じていた違和感こそが、本物。その違和感が無くなる前に、奴を倒して、ここから脱出しろ。さもなくば――」
『おしゃべりはそのくらいでいいでしょう?』
女がゆっくりと近付いてくる。老人は口から血を吐いて、苦し気な呼吸を繰り返していた。
『おとなしくこの世界を受容したならば、恵美との幸せな永遠が手に入る。さもなくば荒れ果てた偽の世界にて、明日をも知れぬ生を生きることになる』
「この世界が偽物ってのはどういうことなんだ?」
『いいえ、この世界こそが本物。あるべき世界の形。あなたは偽物の世界の記憶に引きずられ過ぎているだけ』
「意味が、さっぱり、わからない」
俺は受け取った日本刀をどうしたものか思案しながら、ゆっくり首を振った。
「さっき生命の書とか言っていたな? それって黙示録に出てくるアレか?」
『そう、黙示録。新たなる天と地、真なる楽園に導かれるべき者の名前の記されし生命の書。あなたの名前は甲斐田恵美と共にその先頭にあった』
「宗教的なことはさっぱりわからないんだけど」
というかこれ、そもそも夢だよな? 俺は何をそんなに真剣に議論しようとしているのだろう。
「要は夢の世界みたいなものってことだよな?」
『夢――そうね、夢のような世界よ。飢えも苦しみも争いもない。人々が永遠の繁栄を約束された世界』
「それって」
あれ?
俺、今なにを言おうとしてた?
『さぁ、楽園に戻りましょう。獣に脅かされることのない、完璧な世界へ。そこではあなたの永遠が保証されるわ』
「ちょっと待ってくれよ、ええと……」
『アブラクサス』
「そうそう、それ。アブラクサス」
とりあえず時間を稼ぐ必要がある。俺は何でもいいから喋ろうと決める。
「その永遠の意味が分からないんだが。人間は生まれては死ぬ生き物じゃないか?」
あれ、こいつ何言ってるんだ? もう一人の俺はそんな疑問を抱く。だが、目の前の俺は構わずに続ける。
「一生という制限時間があるから、人間は人間らしく生きようとするんじゃないのか。生命はそうして繋がっていくんじゃないのか?」
『いいえ。もはや生命はその領域を超えたのです』
超えた……?
『巨大なリスクを取りながら、自らの半分の、しかも不完全な情報しか伝えられないというおおよそ不完全な手法は、シンギュラリティの到来に伴って陳腐化したのですよ、墨川くん』
「でも、だとしたら」
『ご心配なく。この完璧で永遠の世界の内では、人々は永遠の繁栄を約束される。なぜならこここそが人間の求めた到達点。真なるエデンなのです。そこには蛇はいない。林檎の樹もない。誰一人、罪を犯さない』
違和感を覚えている俺と、あっさり受け入れている俺がいる。人は罪を犯さない。咎人は楽園に入ることを許されない。俺たちはこの楽園に生きることを許された存在だ。楽園の外、偽の世界での生き様が、生命の書に名前を刻ませた。だから俺たちは選ばれた人間なんだ。この世界にいる全ての生命と同様に。
安全で幸福で永遠の世界。失うことを恐れずに済む世界。それがこの世界なんだ。
だが――もう一方の俺はそこに疑義を呈する。
「俺たちの目的は? 生きる意味は?」
どうだっていいじゃないか、そんなこと。
「ただの享楽のままに永遠を過ごせって言うのか?」
まことに結構じゃないか、それでも。苦労してきたからこそ、今がある。それは責められるべきことじゃないと思うんだ、俺は。
だが、もう一方の俺は頑固だ。
「ここは俺の、俺たちの世界じゃない」
『あなたが楽園を放棄するとなると、せっかくここに辿り着けた善なる人々を裏切ることになる。あなたは悪になる』
「であるとしても」
『ならば問いましょう。恵美との永遠を求めるのか。それとも彼女を捨ててまであの偽の世界へと帰るのか」
そんな……選択肢はない。俺は必死にもう一人の俺を止めようとした。だが、俺は止まらない。
「あるべき世界であるべきように生きるのが俺たち人間だ。メグとの記憶も偽りであるというのなら……そんなものに価値はない!」
なんてことを言う! メグは俺の大事なっ……!
『よろしい。ならばあなたにはデーミアールジュの名を与えましょう。この世界の半分を、あの偽の世界を与えましょう。我が真名、プロパテールの名の下に』
「世界が欲しいだなんて誰が言った! 俺はただ、帰るべきところに帰りたいって言っただけだ!」
俺は日本刀を構える。ぎこちない構えだとは思う。でも、そうする覚悟が必要だった。しかし彼女は顔色すら変えない。
『私に刃を向けるとは、無礼な振る舞い。相応の報いを受けることになりますよ』
「俺がこの刀を振ったって、お前にあたらないことは承知の上だ。ただ、諾々とお前のような奴の掌の上で踊る気はない! そういうことだ!」
思えば三十数年間の記憶が曖昧だ。俺は誰と出会って誰と別れてきたのだろう。親の顔も思い出せない。ただあるのはメグの……少し照れたような表情だけだ。いや、待て。メグはどんな人物だった? どんな性格だった? 付き合う前って何してた? どんな立ち居振る舞いだった? 俺はどんなところが好きになったんだっけ?
忘れるはずのない記憶。だが、俺の中には何もなかった。ただの整合性がそこにあって、その匣の内側は見えない。あるいは、空虚と言っても良い。
『恵美との今後千年の愛も、終わってしまうのですよ』
「いや違う」
俺は言う。
「彼女とはな、まだ始まってもいないんだ」
ふわりとメグの香りが漂ってくる。ほのかに甘い優しい香りだ。
「この世界はあんたに与えられた舞台設定だろう。人の感情に付け込んだ、厄介な設定だ」
『そう……』
ならば、いいでしょう――それは言った。
『ならば獣に満ちた地で、悶え苦しみ、死ぬ他にないのですよ?』
「だとしても、俺は……!」
ぶん、と刀を振るう。彼女は一歩下がり、そして嫣然たる微笑を見せた。俺は叫ぶ。
「こんな世界はおかしいと思う! 珍妙で醜悪だ!」
『世界は進化したのです。受け容れなさい』
「何が進化だ!」
『ならば人は永遠に地獄にあるべきと、あなたはそう言うのですね?』
「そうは言っていない!」
俺は怒鳴る。彼女は微笑う。
『あなたの帰る場所はこの楽園以外にはないのですよ。あの偽の世界に帰ったところで、得られるものは何もない』
「だとしても」
俺は彼女を睨んだ。彼女は優し気な表情で俺を見つめている。
「楽園だろうが偽りだろうが、どこで生きるかは俺が決める」
『良いでしょう。あなたは楽園で最初の咎人となる』
「何の罪だって言うんだ」
『恵美が哀しむ。人に哀しみを与えるのは――罪』
「勝手なこと言ってるんじゃないぞ! なら、メグと一緒に俺を追放しろ!」
『楽園から? 永遠の安住から、彼女を無理やり引きずり出すと?』
「無理にとは言わない。だから、彼女に選ばせろ! 俺か、世界か!」
俺は叫んでいた。その言葉に、彼女は笑う。それは嘲笑のような、不気味で不愉快な表情だった。
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