OreKyu-07-003:ピンチには必ず駆け付けると言っただろう

|<∀8∩Σ!・本文

 そこそこうまくいっている感じの会社員生活も、早くも十年目に入ろうとしていた。俺はずっと彼女のことを忘れられず、その結果三十を過ぎても彼女の一人も作ってこなかった。一応俺の名誉のために言っておくが、告白されたことは何度かある。誘惑に駆られたこともなくはない。だけど、俺はどうしても彼女のことが――頬にされたキスを中心に――忘れられずにいた。それは彼女なりのだったのかもしれない。まんまと縛られっぱなしだった俺も俺だ。中学二年生の恋を引き摺っているだなんて、とんだ中二病というやつじゃないか? でも、俺はそのことを邪魔に思ったことはない。あれがあったから、今も俺はこうして社会人として自立し、頑張れている。

 だが、そんな俺もうっかりするとアラフォーに入ってしまう。焦りはあるが、もし本当に彼女が俺を忘れていなければ、きっと会える。俺はそう信じて、札幌の地で頑張っている。

 現在、開発部の課長として、AI——開発コード:KASUMI――の研究に勤しんでいるわけだが、ここにきて行き詰まってしまっていた。ネットワーク防御システムであるIPSxg2.0との相性問題という厄介な奴が浮上したからだ。今更IPSxg2.0の仕様変更を要請するわけにもいかない。KASUMIはこっちで秘密裏に開発したもので、政府機関にでさえ明かしていないプロジェクトの結晶なのだ。だが、どうしても動いてくれない。ある日突然ダウンしてしまい、それ以来AI本体が立ち上がってこなくなったのだ。

「社長、本当に困っています」

 俺はコーヒーを手に、目の前のソファに座る牧内社長に泣き言を漏らした。開発部長が体調不良で入院してしまったため、現在俺が開発部全体を任されている。本当に厄介な問題だ。KASUMIがうんともすんとも言わないので、もはや手の打ちようもないのだ。

 牧内社長は豪奢な白髪を撫でつけながら、「うーん」と声を漏らす。社長はIT業界、ことプログラムの世界では非常に有名で、日本有数の知性とまで言われている。その父親である牧内会長もまた然りだ。偉人なのだ。

「実はな、IPSxg2.0の開発部に、すごい人材がいると聞いた。引き抜こうと思うがどうだろう」
「名案……と言いたいところですが、情報が漏洩しませんか? 二次請けですよ?」
「その分報酬は弾むさ」

 ということは、もうすでに通すべき手続きは通しているという事か。この社長、動き速いからなぁ。

「あとはご本人次第、ですか」
「うん。実は今日、顔合わせに来てもらっている」
「わざわざ東京から? 何の名目で呼びつけたんですか、社長」
「人聞きの悪い言い方をしないで欲しいね」

 牧内社長は気さくに笑うと、目の前のカップを手に取った。そして香りを楽しみつつコーヒーに口を付ける。俺も、まだ熱いコーヒーを飲む。俺たちのコーヒーが空になると、どちらからともなく立ち上がる。

「仕事に戻るかね」
「ええ。報告は済みましたしね」
「報告ね」

 牧内社長は苦笑する。

「急ぎでもないなら、本人に会っていかんか。私だけでは適任かどうか判断がつかないかもしれない」

 人事部や総務部の部長が出るべきじゃないのかと、一瞬思いはした。が、考えてみれば開発部ウチの助っ人だ。俺が出るべきかもしれない。

 そんなこんながあって、俺は社長室から会議室へと移動した。秘密裏の会合であると聞いて、俺のテンションは少なからず上がった。ほどなくして、ドアがノックされる。

「失礼します」

 入ってきた美女を見て、俺は思わず呼吸を忘れた。

「あ、荒木さん……?」
「何を言ってるんだ、墨川君。彼女は甲斐田さんだ」
「あ、いえ」

 促されるまま、目の前のソファに腰を下ろしたパンツスーツの美女は、小さく会釈した。ポニーテールがゆらりと揺れる。

「昔は荒木でしたから」
「知り合いだったのかね」

 牧内社長の言葉が、俺の右から左へ抜けていく。昔は荒木だった……つまり、旧姓・荒木ということだ。そして彼女の左手の薬指には、銀色の指輪が着けられていた。その指輪の価値はわからないが、俺は二度と彼女の左手は見ないと誓った。

「久しぶり、墨川君」
「あ、ああ。久しぶり。け、結婚……したんだ」
「え?」

 彼女は一瞬言葉に詰まると「ああ!」と大きな声を出した。その時、「墨川君」と牧内社長がソファから腰を浮かせた。そして俺にこっそり言う。

「彼女のことは後で聞こう。昔話でもして、何とか、引き抜きを頼むよ」
「あ、ええ、はい。承知しました」

 通り一遍の挙動不審さを見せて、俺は頷いた。牧内社長は「それじゃぁ、また後程」と言って出て行った。

「本当に久しぶりだな、墨川!」

 社長が出て行くなり、彼女は立ち上がって俺の隣に座った。俺はどういう対応をしたらいいのかさっぱりわからなくなり、ただ「ああ」とか「うん」とか言うほかにない。

「ちなみに言うと、甲斐田は母方の姓だぞ」
「え?」
「そうだな、順を追わなければ混乱するよな。うん。そう、それで、あの転校のあと、すぐに親が離婚してね。そしてめでたく甲斐田になったというわけだ」
「で、でも、左手の」
「指輪? あははは! 墨川にも効いてしまったか!」

 どういうことか未だわからない俺。本当に頭の中が真っ白だった。

「これはな、男けだ。だが、私くらいの美女ともなると、既婚者を装っていようがね、迫ってくる奴が多くてな! ところでお前は、結婚してないのか? 彼女は? いないのか?」
「してないし、いないよ……」

 だって荒木……じゃない、甲斐田さんのことばかり考えていたから。

「なんだ、童貞か!」
「ど、童貞って――」
「ちがうのか?」
「いや、うん。その――」
「なら私たちは魔法使い同士だ。まったく、二十年近く待たせやがって。どれだけ安穏な人生歩んできたんだよ、墨川」
「安穏……だったかもしれないなぁ」
「でもま、努力はしてきたんだろ。今や部長代理だと聞いたぞ」
「部長が休養中だからだよ」
「それでもだ。それにあの牧内の会社だぞ。あの男に認められるなんて、すごいじゃないか! システム屋としてこれ以上ないじゃないか」

 褒められて、俺は何と言ったら良いかわからなくなった。

「それに私とお前がまたこうして出会えたってことは、お前は今、人生最大のピンチにいるってことだな!?」
「そうなんだ。人生賭けてやってきたプロジェクトが破綻寸前で」
「こっちの会社にお前がいるって分かってたら、何が何でもこっちに来ていたのに。一次請けのF***野郎ばかりだと思っていたから、チェックが漏れていた」
Fワードはやめようって」
「ん?」
「言ったじゃないか。きみの口からそんな言葉は聞きたくないって」
「どうした、墨川。私とお前は正確には十八年ぶりに出会ったんだぞ? あの頃の私はFなんて口にしたこともないし、お前に説教された覚えもないのだがな」
「え? あれ、そ、そうか。そうだよな……」

 おかしなやつだな! と、甲斐田さんは喉の奥で笑った。

「他の女と勘違いでもしてるのかもな」
「それはないよ。だって、Fワードを言う女性なんて、初めて見たし」
「そうか。そいつは光栄だ」

 幾分胸を張る甲斐田さん。

「で、甲斐田さん。引き抜きの話なん――」
「ったく、せっかちな奴だな! お前がいるのに引き受けない理由があるか? ましてお前が今、困ってるというのに。私はお前のピンチには絶対に駆け付けるって決めていた。私が役に立つというのなら、今からでもどうにでも使うがいい」
「そんなに簡単に決めて良いのかい? あっちの会社にだって……」
「お前がいないなら丁重にお断りするつもりだった。だが、今は断る理由がない」

 きっぱりと断定する甲斐田さんに、俺は正直言って胸が熱くなった。

「もしお前が良ければ」
「ちょっと待った。それはちょっと待って」

 さすがの俺も、その続きくらいは想像できた。だから止めた。

「私もせっかちだからな。何事もサクサク片付けたいんだ。それとも――」
「こ、今夜。この後、別の所で昔話をしようじゃないか」
「私がしたいのは今の話だ。昔の話なんて」
「昔から、俺はきみが好きなんだ。だから、昔のきみが――」
「今の私は?」
「その話を今夜するんじゃないか」
「じゃぁ、やっぱり今の話じゃないか」

 あ、そうか。

 俺は頭を掻く。やっぱり甲斐田さんには敵わないなと思った。甲斐田さんは元の席に戻って、ソファで足を組んだ。パンツスーツだからできる豪快な組み方だった。

「大事なのは今だ。昔好きだった女だったとしても、今は幻滅するかもしれないぞ」
「そんなこと――」
「夢見る童貞君みたいだな!」
「き、きみだって――」
「ああ、処女だ。この年だけどな」

 そう言って笑う甲斐田さんは、話題こそ際どくなったけれども、やっぱり彼女だった。

「さて、話もまとまったことだし。あとは牧内氏にうまくやってもらおうか」

 時計を見ると十七時半を回っていた。間もなく業務終了の時間だ。

「今夜はお楽しみと行こうじゃないか」

 甲斐田さんはそう囁いた。

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