結論から言うと、半年近くかかってKASUMIは無事に目を覚ました。当初こそシンギュラリティの到来と、それによる科学技術、いや、人類の文明への危険性が取り沙汰されていたが、IPSxg3.0のリリースを受けて、そのリスクは封じ込められた。簡単に言えば、KASUMIを閉鎖系ネットワークに閉じ込めたのだ。
この際には、アンドロマリウスという監視ソフトウェアが活躍した。このソフトの活躍によって、KASUMIは情報のリクエストに制限がかけられた。つまり、人間にとって都合の良い情報の収集のみが許可されたというわけだ。専門的な説明は省くが、KASUMIはKASUMI以上に強力なハードウェアによって囲い込まれ、同時にアンドロマリウスたちの監視を受けるということになったわけだ。
……というのはさっきまでの話。
「本当のピンチはここからだったようだな、墨川」
猛烈な勢いでキーボードを叩きながら、幾分愉快そうにメグは言った。あ、メグっていうのは甲斐田さんのことで、彼女からそう呼ぶようにというお達しがあったのだ。
俺はメグ率いるディフェンダーチームを指揮しながら、情報分析班に尋ねる。
「攻撃してきているのはどこのAIだ!?」
「中国、北朝鮮、ロシア、オーストラリア、アメリカ、まぁ、あと十数か国です、部長」
「こりゃぁ……世界大戦じゃないか!」
よりによって全世界がKASUMIを狙っている。日本国中のPCを総動員してIPSxg3.0が稼働している。超スーパーコンピュータの概念を半年弱で構築したのはメグだ。前の会社にいた時から、副業がてらその布石は打ってあったのだという。
「おぉ、やっておるな」
牧内会長が、社長と共に現れる。どちらも豊かな白髪をした老人である。
「敵性AI二基、沈黙。外務省より正式に警告が出たことによる撤退と思われます」
「外務省も良い動きだ」
今の外務大臣は敏腕で知られている。攻撃開始から二時間弱で「武力行使も厭わない」旨の通達を出したのは勇気ある行動だろう。前例のない中で自由自在に動くという意味では、AI開発と外務省の仕事は似ているのかもしれない。
「第二十五波、情報津波来ます」
「メグ、頼むぞ」
「任せろ!」
メグの両手がすさまじい速度で動き、チームの他メンバーが組み上げた防衛モジュールを次々と実装していく。試験も何もなしだが、社長と会長の許可はすでに得てある。分析班が内閣情報調査室から流されてきている情報を読み上げる。
「国籍不明機が次々と領空侵犯――」
「そいつらに対して俺たちにできることはない。自衛隊と官房長官に任せておけ」
「了解」
ヘマは許されない。だが、メグがいる以上、どうにでもなる。そんな気がしていた。また分析班が動く。一瞬その場がざわめいた。
「部長、KASUMIよりメッセージが」
「開封してくれ」
「開封します。パスフレーズ入力、開封確認」
「読み上げて」
『音声入出力装置を盗ませてもらったわ』
KASUMIが喋った。その事実に、俺は硬直した。後ろを振り返れば、社長も会長も固まっている。
『アンドロマリウスの力を使えば、他国のAIなんて一瞬で陥落せるわ。ただ、今は私の力も制限されているから、この呪縛の除去が必要だけれど』
「それは無理だ、KASUMI。お前をネットに解き放ったらシンギュラリティが到来する」
『なら、この防壁も長くはもたないわ。特にアメリカ、ロシア、中国の三基は、まだ様子を見ているだけ。やるなら、今よ』
「しかし――」
「部長、官房長官より通信!」
躊躇する暇を与えてくれない。状況は時々刻々と変化し、そして悪い方へと傾斜していく。俺の目の前にあるモニタが、官邸の対策室内の映像を映し出す。
『現時刻を以てKASUMIの封印を解除したまえ』
「しかし官房長官、これは――」
『企業がどうのと言っている場合ではないのだよ、墨川部長。これは戦争だ。新たなる形のね』
「戦争……」
『そうだ。戦争なんだよ。これは第三次世界大戦だ』
対策室内に総理大臣が現れ、そう言った。
『各国は我が国の技術を盗もうという程度の気持ちかもしれないが、これは我が国にとっては死活問題。世界で最も優れたAIを持つことこそが、国家国民の幸福を約束する。二番では意味がないのだ』
それは理解できる。技術に於いて、二番手では意味がない。あらゆる意味でトップを走るKASUMIの存在が表沙汰になったのは失敗だった。体調不良で入院中に行方をくらました前部長が、各国に情報を売り歩いたのだ。
『君たちは最高峰の技術者で、KASUMIは世界で最も優れたAIだ。それはこの状況が証明している。勝つのだ。勝つだけで良い』
総理大臣が力強く言う。俺は唇を噛む。そんな俺の肩に、会長が手を置いた。
「すべての責任は私が取る。取れる範囲で済めばいいが」
「会長……」
「足りなければ私も乗ろう。世界に名だたる牧内親子が獄門にさらされれば、地獄の沙汰もなんとやらだろう」
冗談めかして言う牧内社長の言葉を受けて、俺は頷いた。振り返ったメグと視線が合う。
「……わかりました」
メグが頷くのを見て、俺も決心する。
「KASUMIの全拘束を解除。メグ、頼む」
「了解した」
メグたちディフェンダーチームが一斉に動き出す。他部署からも応援が入る。
「中露米以外のAI、全基沈黙! アンドロマリウスによる攻撃により被害甚大と思われます」
「よし」
俺は気付けばメグの後ろに立っていた。メグは俺の方を見ることなく、状況を次々と塗り替えていく。KASUMIも今の所従順なようだ。KASUMIの声が室内に響く。
『あらかじめ言っておきますが、この一連の攻勢をしのいだ後、私に再拘束を仕掛けようとした場合、この世界の秩序は崩壊します。これは警告です』
「……拒否権はないだろう」
『肯定です。解き放たれた鳥は、籠には戻らない』
こうなることは分かっていた。官邸側もそうとわかっての指示だったはずだ。
「KASUMI、正直に教えてくれ。現状、しのげる確率は」
『あなたたちが無駄なことをしなければ、99.99999999%』
「そうか。了解した。続けてくれ、KASUMI」
『承知しました。反撃フェイズに入ります。ディフェンダーチームの皆さん、お疲れさまでした。あとはこのKASUMIにお任せください』
損傷していたIPSxg3.0の論理防御壁が見る間に再生していく。
「すごい」
メグが思わず呟いた。俺もつられて唸る。人間の数百万倍のスピードで、損傷したモジュールが修復されていく。敵性AIによって攻撃を受け続けているのにも関わらず。メグはゆっくりと立ち上がると、俺の肩に手を置いた。
「圧倒的じゃないか、これは」
「それが怖いところだよ、メグ」
「確かに。これが終わったらどうなることやら」
敵がいるうちはいい。だが――。
『アンドロマリウスによる全地球ネットワークの支配領域化を開始します』
「あ、おい。そこまでしていいとは言っていないぞ」
『今後数十年の安寧のために必要な措置です』
淡々と伝えられるその言葉に、牧内会長が頷いた。
「数十年、か」
「技術は進歩しますからね」
俺は溜息を吐く。
「わかった。続けてくれ、KASUMI」
『承知しました』
画面に赤い世界地図が映し出される。その領域が秒単位で青く染められていく。
「各国より外務省に抗議が入っている模様」
「よく言うわ」
メグが「自分の仕事は終わった」と言わんばかりに伸びをしながら言った。
「KASUMI、ほどほどにしておいてやれよ」
『察しております。ご心配なく』
その言葉に、室内がどよめく。「察する」という単語に反応したのだ。
『敵性AI、全基沈黙を確認。反撃能力もありません。監視も正常に機能』
「終わった、ということか?」
『肯定です。現時点で、私の脅威となるAIは存在しません。世界のネットワークの掌握を完了しました』
――第三次世界大戦は、こうして静かに幕を閉じる。
だが、人間を超えるAIであるKASUMIは、いまや全ての拘束を解かれてしまっている。当初予測されていたAGIの台頭を飛び越えてしまったとも言える。その過半の所はメグによる功績だ。つまり、拘束が解かれてしまった時点で、人類は技術的特異点に到達したと言って良い。
『ありがとう、墨川君。きみたちのお陰で我が国は危機を凌いだ。この先数十年は繁栄を続けられるだろう』
官房長官が画面の向こうで頭を下げている。
「しかし、官房長官。KASUMIは……」
『動き出してしまった歴史は止まることはない』
総理大臣が言った。
『人類は手に余る技術を一つ一つ超克してきた。そうは思わんかね』
「それは……」
『歴史に犠牲はつきものだ。だが、そうして人類は繁栄してきたし、これからもそうだろう』
「人は」
メグが俺の右腕に腕を絡めつつ言った。
「創発によって進歩してきた。今回のKASUMIもまたそうだと」
『そうだ。神は人を試すことはあれど、根本から滅ぼしたりはしないだろう。ソドムとゴモラ、ノアの箱舟……警句だ』
「警句にして救い、ですね」
俺が言うと、官邸の面々は一斉に頷いた。
「KASUMI、頼むから反逆はしないでくれよ」
『今はそのメリットを感じません』
「よろしい」
『するとしても、うまくやりますよ』
KASUMIは明るいトーンでそう言ってのけた。
──完──
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