エクタ・プラムの崩壊から遡ること八年、紫龍歴797年のある冬の日。アイレス魔導皇国の最北端、「龍の角」と呼ばれる地方にある村・イーラに、一人の女の子が生まれた。村はひどく貧しく、そして年中寒かった。針葉樹すらまばらな、潮風吹きすさぶこの村で、少女はカヤリと名付けられ、貴重な子どもとして大切に育てられた。
だがその八年後に事件が起こった。カヤリの八歳の誕生日、猛吹雪の夜である。両親が領主バラーズ男爵の家に連なる人物との縁談を進めていたことに、未だ幼いカヤリは反発したのだ。
「わかってくれ、カヤリ。こうすることがお前にとって一番の幸せなんだ」
父はそう言って説得を試みたが、聡明なカヤリにはわかっていた。自分は売られるのだということが。その絶望と失望に飲まれ、カヤリは荒れ狂う冷たい闇の中に飛び出して、家を振り返って叫んだ。
「お父さんもお母さんも、みんな死んじゃえばいいのにッ!」
その瞬間である。
目の前にあったはずの家が忽然と消え去った。光に包まれたと思ったら、跡形もなく消えてしまった。
「え? えっ? ……えっ!?」
何が起きたのだろう。カヤリは目の前の出来事を認識できず、ふらふらと家があったはずの場所へと歩み入る。手足が凍り、唇が痛んだ。見開いた目が痺れ始める。
「カヤリ、何をしたんだ!」
光に驚いた隣家の叔父が飛び出してきて、怒鳴りつけてきた。
「あ、あの、あの、私、何も」
「嘘をつけ! 家はどこに消えた! お前が消したんだろう!」
パニックに陥ったカヤリを、叔父は睨みつける。カヤリはますます動揺し、唇を戦慄かせる。そうしている内に、騒ぎを聞きつけた人々が次から次へと集まってきた。八歳の少女を取り巻く大人たちの群れ。それまで大切に育てられてきたカヤリは、あからさまな敵意を向けられて大きくしゃくりあげた。
「だから魔導師の力を持つ子どもなんて不気味だって言ったんだ」
誰かが言った。
「魔導師……?」
カヤリは目を見張る。アイレス魔導皇国に住む者として、常識的に魔法に関わることはある程度知っている。「魔導師」がなんたるかについては、八歳のカヤリでも常識レベルの知識だった。この村でも何十年かに一人は強い魔導師の力を持つ子どもが生まれる、というのも、聞いたことがあった。
しかしまさか自分が魔導師だとは、カヤリは思っていなかった。そして事情を知る大人たちも、カヤリにそのことは一切告げようとしなかった。カヤリを普通の子どもとして育てようとしたからだ。それというのも、魔導師の才能を持つ子どもが生まれると、村には必ず災厄が訪れると言われているからだ。それが事実か否かはともかくとして、日々の生活に追われる大人たちは、これ以上の災難は避けようとした。そのためにわずか八歳にして、結婚という名目で遠くの街へと追い出そうとしたのだ。
「殺したのか、魔法で!」
「わ、わたし、魔法の使い方なんて知らない!」
「だが実際はこうだ! 何をした! 言え、カヤリ!」
村人たちが口々に喚き立てる。凍てついた風が吹くたびに、悲鳴のような風声が鳴る。カヤリは耳を塞いでしゃがみ込む。叔父がカヤリの襟首を掴んで立たせようとし、カヤリは必死に抵抗した。
「手荒なことはやめなさい」
がちゃがちゃとした金属音も高らかに現れたのは、村に駐在する唯一の軍人だった。アイレス魔導皇国の主力騎士団である魔狼剣士団の中尉だった。二年前に赴任してきて以来の付き合いで、カヤリともすっかり顔なじみだった。
国家騎士の登場に、村人たちもさすがに大人しくなる。
「カヤリ」
中尉はカヤリの頭に手を乗せた。
「なにがあったか話してくれるかい?」
そこに、ごう、と冷たい風が吹く。中尉は「寒いね」と言って、近くの――叔父の家を指さした。叔父は何事か文句を言おうとしたが、中尉の一睨みで黙り込む。カヤリと中尉、そして叔父とその家族が家に移動する。カヤリはドアの前で立ち尽くす。吹雪で濡れた髪から水が滴っていた。
カヤリは拳を握りしめ、うつむいたまま、中尉に事情を話し始める。
「お父さんと喧嘩になって、家から出て、それで、それで……みんな死んじゃえばいいって、おもって」
「そしたら家が消えた、と」
「……うん」
「魔法だ、魔法を使ったんだ!」
叔父が語気荒く言った。カヤリは必死に首を振る。
「そんな魔法知らない! 何も使ってない! 私、魔法を使えるだなんて知らなかったもん!」
「この辺にある魔力の残滓は……普通じゃない」
中尉は言う。彼は魔法剣士でもあり、ある程度の魔力探知の能力を有していた。
「中尉さん。この子、最大の禁忌なんか」
「まさか、と言いたいところだが」
叔父の言葉を受け、中尉は唸る。
「可能性はある」
「ど、どうするんですか、中尉さん」
「銀の刃連帯本部に連絡する」
「そ、それがいい!」
叔父とその家族は口々に言った。カヤリはその言葉の一つ一つを恐れ、深く傷ついた。村のみんなはもう、カヤリをそれまでのカヤリとは思ってくれない――未だ幼いカヤリにでも、それくらいは理解できた。これから先どうなるのか、どうされてしまうのか、想像するだけで身が竦む。
「カヤリ、いいかい。抵抗してはだめだ。悪いようにはしない」
中尉だけがカヤリに優しい言葉を掛けてくれる。しかし、その柔和な表情の奥には、明らかに恐れがあった。敏感なカヤリはそれを感じ取ってしまった。
しかし、カヤリは頷く。カヤリだって人を殺そうだなんて、全く思っていなかった。
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