ヴィーはカヤリの中に流れ込む魔力の流れがわずかに停滞したその間隙をついて、カヤリを椅子から引きずり下ろした。その瞬間、まるで雷に打たれでもしたかのような衝撃が、ヴィーの全ての神経を同時に刺し貫いた。
バチンと音を立てて弾き飛ばされたヴィーは、背中を壁に強打する。肺の中の空気が全て押し出されたヴィーは、身動きが取れなくなるほどのダメージを受けた。
「カヤリ……!」
それでも懸命に目を開けて、椅子の下に転がったカヤリに手を伸ばす。二人の間には数メートルの距離しかなかったが、それでも今のヴィーには果てしなく遠かった。
「くっ……そっ……!」
肋骨がいくらか折れたに違いなかった。耐え難い激痛が胸や背中を何度も何度も貫いていく。
「に、逃げるぞ、カヤリ!」
まずはこの地下研究室から脱出して、それからエクタ・プラムの街中を抜けて、結界を突破して……。道中の魔導師ではヴィーの相手にはならない。たとえヴィーが満身創痍であったとしてもだ。カヤリを追っていった銀の刃連隊の騎士たちも、戻ってくるには転移魔法を駆使したとしても数分はかかるだろう。上手くいけば長距離転移で巻くことができるかもしれない。
そんな計算をしつつ、力を振り絞ってカヤリを抱き起こす。脇腹が激しく痛み、思わず呻く。激痛に意識が朦朧としてしまい、思った以上に力が入らない。
「耐えろ、あたし……! 大丈夫だ、まだ……!」
痺れ、激痛、吐き気、眩暈、耳鳴り……それら良くないものが一斉にヴィーを襲う。
「負けるな、あたしぃぃぃっ!」
絶叫して扉を開き、カヤリを背負って部屋を出る。脂汗が額を、頬を、首筋を伝う。
扉の向こうには研究員の魔導師たちが待ち構えていた。
「どきな! ぶっ殺すよ!」
荒い息を吐きながら、ヴィーは怒鳴る。研究員たちは明らかに気圧されはしたものの、道を開ける気配はなかった。ヴィーが手負いだということもまた、彼らを踏みとどまらせていた。
「力づくででも通らせてもらうよ」
ヴィーの目が金色に輝き、赤毛がうねった。その時――。
「どこに行くつもりだ、ヴィー」
魔導師の壁の向こうから現れたのはハインツだった。
「接続を強引に解除するとは、本当に無謀なことをしたものだ」
ハインツは平坦なトーンでそう言う。
「だが、どのみちお前たちのその身体では、ここから出ることさえできんだろう?」
「意地でも、意地でもあたしは逃げる!」
「気概はけっこう。されど、どうかな。ここで大立ち回りを、しかもそのカヤリを連れて演じることなどできるものかな?」
ハインツの抑揚のない威圧に押され、ヴィーは思わず笑った。笑えてきてしまったのだ。
早くも万策尽きた――ヴィーはそう悟ったのだ。
「ヴィーよ。お前を救い、ここまで育ててやった恩を忘れたとでも言うのか?」
「それは……感謝しています」
ヴィーはハインツから目を逸らす。
「しかし、それとこれとは話が別です、ハインツ様。今のあたしには善悪の区別があります。分別だって――」
「その血染めの手を見てもそれが言えるというのか、ヴィー」
「そ、それは……」
ヴィーは自らの右手を睨む。ハインツは冷たい微笑を見せる。
「何百と殺してきたその血染めの手の持ち主が、善悪の区別だと? それでお前が犯してきた罪が消えるとでも?」
「そんなことは思ってません」
ヴィーはすっかり萎縮してしまっている身体を叱咤する。肋骨の痛みが気付け薬になった。嫌でも奥歯を噛みしめることになる。
「人を殺した罪が消えるなんて、思ってもいません。願ったこともありません、ハインツ様」
ヴィーの視界がぼやけ始める。苦痛に負けつつあった。
「だけど、でも、あたしの手がいくら血で汚れすぎているって言っても、この子は、カヤリは無垢なんです。何も知らない。何の罪もない」
「もうすでに三桁以上の命を奪っておきながら、罪はないだと? もっとも、私はそれを高く評価しているのだが?」
「ですからそれは――!」
「絆されおって」
ハインツの黒い瞳が一層深く暗くなった。ヴィーは必死に目を逸らす。何か酷く恐ろしいもの――そんな何かが、ハインツの目の中に浮かんでいた。
「カヤリ! その身の力を解き放て!」
「うっ……」
ヴィーの背中で、カヤリが痙攣し始める。ヴィーはたまらずカヤリを下ろし、ビクビクと震えるカヤリの頬を両手で押さえた。カヤリのまぶたがゆっくりと開く。その隙間から水色の輝きが溢れ出てくる。
「ハインツ様、何を!?」
「あるべき姿への道を拓いてやったのだ」
ハインツは錆びついた笑みを浮かべた。
その途端。
カヤリの全身から、魔力が吹き出した。爆発した、と言っても過言ではなかった。
「カヤリ……!」
ヴィーは薄れゆく意識の中で、必死にカヤリの名を叫ぶ――。
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