> sys.stdout.write("私は事がここに至ってようやく、世界の真実を垣間見たんだ。")
そこにあるのは死の恐怖とはまた違う。もっと根源的な恐怖があった。少なくとも機械化人間になってからは、死を怖いと思ったことはないのだ。だが今、このブロックノイズの中に飛び込む事には、それとはまた別の耐えがたい恐怖があった。
手を伸ばせば触れられる。それなのに、腕が上がらない。これっぽっちも持ち上げられないのだ。アクチュエータが完全にダメになってしまったかのように。
その時、それらのブロックノイズが爆発でも起こしたように飛び散った。アキは否応なしにその中に取り込まれてしまう。悲鳴が波形を描かない。容赦のない暴風に前後左右から殴り倒されているような、そんな感触だった。痛いというより、もどかしい。
そんな光の洪水の中に、アキは対面する二人の自分を見つけた。二人はその全身のほとんどを光に包まれていた。かろうじてその顔が――揺れる黒髪が見えているくらいで、裸なのか否かもよくわからない。
二人は鏡でも見ているかのように、一歩の距離を置いて向かい合っていた。そして無言で見つめ合っている。自分同士が見つめ合う姿を見るというのは、とても不思議な気分だった。
「ゼロ――」
二人の視線が同時にアキをとらえ、それらの口が同時にそう言った。
「え?」
「クリスタルドール――」
目を見開くアキに、二人のアキはまた同時に言った。
「ようこそ、クリスタルドール・ゼロ」
『なんだ……?』
カタギリの言葉が差し挟まれる。動揺――アキはカタギリの声の中に、それを敏感に感じ取る。いや、カタギリさんが動揺するなんて、そんなことあるはずがない。アキはすぐに首を振る。少なくともアキの記憶の中には、カタギリが動揺した場面など保存されてはいない。
「まさかこんなゲートウェイが隠されていたとはね」
一人が言った。黒騎士の方なのか。
「Agnと黄金の剣が接触することで生まれる新たなノード。それが、機械化人間の新たな形……ということか」
「それが、クリスタルドール?」
アキが問うと、もう一人のアキが首肯した。
「カタギリさんもアサクラさんも、あなたをこそ、求めていたのよ」
「え? ……あたしを?」
「そうだよ。そのために大戦中から今に至るまで延々環地球軍事衛星群に潜り続けていた」
「なんの……ために?」
アキが問うと、黒騎士と思しき方のアキがふと笑う。
「世界の支配者になるために、だ」
「宇宙規模の指輪物語だね」
指輪物語……アキはIn3ネットを検索しようとしたが、オフラインだった。外部とは一切の接続を絶たれている状態らしかった。試しにカタギリを呼び出そうとしたが、応じない。
「あたしの本国もアキにこそ鍵があることまではつきとめた。何せ長谷岡博士自らの手による最初の機械化人間だからな」
「だからって何も、あたしと同じ顔にしなくてもよかったじゃない?」
「自己同一性はその姿形に宿る。我が本国政府にしてみれば、一ビットの情報差異さえ許容し難かったということではないかな」
ふぅん――アキは腕を組んだ。三人の周囲にはキラキラと輝くブロックノイズの壁が出来ていた。上も下も、だ。おかげで視界が異常に五月蠅だった。
「でもちょっと待ってよ? Agnの開発者が長谷岡博士だよね? で、あたしの生みの親は八木博士だったはずだけど」
「躯体そのものはな、確かに八木博士が設計者だね」
黒騎士の方が言う。
「しかし、その意識は、深層部分も含めて全て長谷岡博士による」
「どうしてそう言い切れる?」
「あたしの本国情報部の受け売りだ。黄金の剣ネットにクラスAAA情報として落ちている。情報強度からしても本国としては相当自信を持っているとみるべきだろうね」
八木博士と長谷岡博士――となると、あたしたちは――。
「そもそも――」
黒騎士のアキが言う。
「機械化人間は論理空間での計算結果を物理空間に顕現させるためのマニピュレータ。となれば、物理の八木博士、論理の長谷岡博士が手を組んだとしても何らおかしなことはないだろう?」
「そりゃそうだね」
アキはあっさりと納得する。二人とも日本国を拠点にして活動していたわけだし、両博士は学会でも度々激論を交わしていたという記録もあった。ただ、その議論は高度に過ぎて、ほかの参加者たちをことごとく置いていってしまっていたとの話もある。
「二人は同じ時代に存在してはいけなかったんだろうけど、出会ってしまったってわけだ。だから」
「ということは――」
アキの言葉に割り込みつつ、黒騎士は顎に手をやった。
「黄金の剣プロトコルもまた、長谷岡博士が噛んでいるとみるべきだろうね」
「あなたは」
もう一人のアキが首を傾げる。
「中国圏にその報告をするの?」
「まさか」
黒騎士は微笑する。本体であるはずのアキは置いてきぼりだ。黒騎士は肩を竦めつつ続ける。
「あたしはずっと拘束されてきた。黄金の剣プロトコルの世界にいたのだから、このIn3やAgnへのアクセス権を持たなかったわけ。当然ながら、ね」
「黄金の剣はIn3の上位互換じゃないの?」
「ゲートウェイが与えられていなかった、あたしには」
「なるほど。閉鎖系ネットだっていうことか」
「剣の機密を守るために、ね」
黒騎士は大袈裟に天を仰ぐ。
「もっとも、In3……いや、環地球軍事衛星群に在るAgnネットからの検索対象である以上、In3との接点は作りたくないという意向があったというわけだ」
「それでIn3のどこを探しても、黄金の剣は見つからなかったということなのね」
「そういうことだね」
黒騎士はそう言って、もう一人のアキに手を差し出した。もう一人のアキはその手を握り、二人同時にアキを見た。
「さて、クリスタルドール・ゼロ。聖女が黄金の剣を手にする時、ゼロが始まる」
「ちょちょちょっと待った」
アキは両手を振った。
「あたしが全くこれっぽっちも知らない情報を、どうしてもう一人のあたしやあなたが知っているの?」
「単純だ」
黒騎士は首を振る。
「あたしが黄金の剣、こっちのあなたが聖女。そしてあなた自身はその中庸にあるべく創造されたから」
「ええと……つまり、だ。長谷岡博士と八木博士が全部に絡んでるっていうわけ?」
「肯定、ということだね」
黒騎士が肯く。もう一人のアキも何度か首を縦に振った。
「そして、そっちのアサクラにしても中国圏にしても、その長谷岡博士の隠した未来を手に入れるべく、血眼になっているという話だ」
「なるほどねぇ」
アキは頷き、しばし腕を組んで宙を見上げ、そして首を振った。
「しかしわからないのは、カタギリさんの存在なんだよね」
「カタギリにしても、アサクラにしても、中国政府も正体を掴み切れていない」
「でもさ、日本国の桐矢官房長官は、アサクラさんと知り合いだったみたいだけど」
「桐矢響子のことはもちろん知っている。戦中から頭角を現していたからな。だが、彼女とアサクラの関係性がどこから始まってどうなっているのかは、中国圏には未だ不明なんだ」
「中国圏って、情報収集力に関してはトップクラスじゃなかったっけ」
「ああ」
黒騎士はゆっくりと肯いた。
「でも、だからこそだ。ありえないことが起きているということだ。それは日本国でも一緒だろう。どこを調べようと、おそらくは桐矢とアサクラの関係性は浮かんではこないはずだよ」
「……ということは?」
どういうことなんだろう。アキは腕を組んで考え込む。もう一人のアキがやはり同じように腕を組みながら「可能性だけど」と呟いた。
「そもそも……いや、そんなはずはないか」
「気になるじゃない」
アキはううむと唸る。「でも考えても仕方ないね」――黒騎士が言う。
「ともかく、あたしたちはこうして邂逅することができて、聖女に黄金の剣は渡った。ゼロたるあなたが、Agnと黄金の剣をつなぐゲートウェイになるんだ」
「と言われても何をしたらいいのやら」
アキがそう言うと、もう一人のアキが「そうだねぇ」と顎に手をやった。
「さしあたり、ベルフォメトを倒すところから始めないとならないかな」
「GSL退治はやんなきゃならないってことか」
アキは「だよねぇ」などと言いつつ、頷いた。
「オーケー。何がどうなったのかさっぱりわからないけど、このネットの世界から抜け出さないと」
「そうだな」
黒騎士は同意し、自らの右手を見た。
「あたしの本体はどうやら喪失したらしい」
「え?」
「なに。悲観するようなことではない。人間的に言うならば、魂は残っているわけだからな。器となる身体がありさえすれば、そこに宿ることもできる」
「疑問なんだけど」
アキは難しい表情を見せて黒騎士を見る。
「あなたはこのままネットの中を漂うことになるの?」
「そうなるな。情報のある所に魂はある。そして魂の本質は拡張し続ける」
「そっか」
よくわかんないけど、まぁいいや。
アキは心の中で肩を竦め、さてどうやって物理層に戻るべきかを考える。もう一人のアキが苦笑したのが見えた。
その次の瞬間、アキたちの姿はその空間から消えた。
全くの虚無と帰したその空間の中に、一つ揺らぎが現れる。
特異点にようこそ――。
その言葉は、ほんの小さな波紋を虚無の中にふわりと広げたのだった。
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