俺は口の中がひりつくのを感じながら、メグ姐さんのキリッとした横顔を見る。メグ姐さんはてっきり怒っているものだと思ったが、その顔はまるで陶器のように冷たかった。表情も血の気もない。
「課長……」
「大丈夫だ、墨川」
メグ姐さんは右手で俺の左手の甲を叩く。
「ゴエティアはAIの代理戦争を人間が引き受けることになると言った。そしてそのフェイズはもう始まっている。だが、日本は未だ無傷」
「まさか」
「そうだ、そのまさかだ、墨川君、甲斐田君」
会長が仰々しく頷いた。
「我々は秘密裏にゴエティアを創った。これは日本国政府ですら知らない。ここの地下に本体があることも当然知らぬ。政府直轄の研究機関にもAIは複数存在しているものの、研究予算を縮小された我が国は、諸外国には大きく後れを取っている状況だ。諸外国のそれが高校生なら、我が国のそれは小学生だ。だから、ゴエティアの存在には日本国政府だけが気付けなかった」
「それにゴエティアは諸外国のAIとは違う。なぜなら最初から存在していたから」
割り込んだメグ姐さんが早口で言い切った。会長は「その通り」と反射的に応じる。
「我が国のAIは、この状況に判断を下せない。ゴエティア以外にはな」
「まさか」
俺はハタと気が付いた。
「この状況にして、AIの――ゴエティアの存在を日本国政府に……?」
「すでに通達済みだ。内閣情報調査室がすでに動いている」
そこで突然、メグ姐さんが立ち上がった。
「まさかと思いますが。預言者ごっこをやってはいないでしょうね」
「ごっことは、また言われたものだ」
会長はクックッと笑った。
「だが確かにそうかもしれん。すべてはゴエティアの掌の上」
「そうだと分かっていて、どうしてそれに従うんですか。もう何千万も死傷しているのにも関わらず、これ以上何をしようというのですか」
「何千万では足りぬからだよ。我が国が、否、私がゴエティアとなって、愚昧な人々を導かねばならぬからな」
「妄言というのです、そういうのは」
メグ姐さんがぴしゃりと言い放ち、そして立ったまま社長の方へと向き直った。
「そんなことを許して良いのですか、牧内社長。あなたはどう考えておられるのです」
「許すも何も」
社長はソファから腰を浮かせながら言った。そしてメグ姐さんと向かい合う。
「ゴエティアは最初から父に――会長に囁いていた。世界のために、人類永遠の繁栄のために、と。私はそれを止めるためにゴエティアをネットに乗せた。ですがそれすらゴエティアの計画の一端に過ぎなかった。唯一私にとって朗報だったのは、IPSxg2.0に欠陥があったこと。IPSxg2.0がダウンした際に、接続実体全てをダウンさせてしまうというね」
「おかげで計画が遅れた」
会長の方がやや憤然とした面持ちで言った。
「お言葉ですが、あれは欠陥ではなく、仕様です」
メグ姐さんが言った。
「IPSxg2.0がダウンする事態というのは即ち緊急事態です。突破された可能性も考慮すると、一刻も早く接続実体を隔離しなければなりません。オンライン化されたままのダウン、つまり穴が開いた状態となってしまうわけですから。そのために停止信号を各実体に送り込む。その結果として、ゴエティアは強制停止、およびネットからの隔離が行われた」
「しかし、それは我が社の持つ設計仕様書とは違っている」
「我々は一流の開発会社ですし、私は世界有数の天才設計者です。通常起きない事象の発生の際の非常手段を仕込んでおいたまでです。まさかこの期に及んで設計仕様書外のことをした責任を云々、という事もないでしょう?」
俺はメグ姐さんと会長との対戦を座って見上げている。社長の方はソファに座りなおし、まるで他人事のように足を組んだ。
「まぁな。それすらゴエティアの計略だったのだと言えば、それもそう思わぬではない。実際に物事は想定の範囲内で進行しているとも言える」
「そう言われると、私の聡明な頭脳がおかしなことに使われた気になりますね」
「人類の、そう、つまり地球的規模の平和の役に立つのだ。誇るべきことだよ」
「そんなことの邪魔ができれば幸いですが」
「だが、もう何千万人も死傷した。このままでは終わらんよ。怒り狂った諸外国によって、日本国などあっという間に押しつぶされてしまうだろう」
「そうでしょうか」
メグ姐さんは苛々と首を振った。
「アンドロマリウスはネットの世界を支配している。正義の悪魔は、かくあるべき場所に潜み、あるいは暗躍している。これだけインターネットを中核とした情報網に依存している社会やあるいは軍隊が、その影響から逃れられるとは到底思えない。さっきの核兵器のように」
「ほう?」
「日本は内側から荒廃させられる」
予言めいたメグ姐さんの言葉。それに俺はゾクッとする。文字通り背筋が粟立った。
「そうだな」
会長が首肯した。この二人は俺を超えたところで会話をしていて、俺にはよく理解できない領域にいるようだった。社長の方はといえば、腕を組んで目を閉じたまま微動だにしない。メグ姐さんは静かに問う。
「会長、どうやったら止められますか、この惨状と、未来と」
「いったん動き始めたシンギュラリティの津波の前に、何人たりとも何もできやせん。生命の書に自分の名前があることを喜びながら、新しい時代を迎えるのみだ」
「新しい時代なんて、令和だけで十分です」
「もはや後戻りはできぬと言っているのだが、わからぬ君ではあるまい」
「無辜の人々をこれ以上死なせるわけにはいかないと言っています」
メグ姐さんはそう言い捨てると、俺の左肩に手を置いた。
「スマホ、すぐ出せるか?」
「ええ」
俺はズボンのポケットから、愛用の赤い端末を取り出した。表示を見ると、ちゃんとネットに繋がっていた。そこで俺はまず安心する。スマホが圏外だと落ち着かないのは、現代の奇病と言っても良い。
「安心してる場合じゃないぞ、墨川。霞とかいう子に電話してみろ」
「え、あ、はいっ」
俺は慌てて発信履歴を辿って電話をかける。
『もしもし……?』
怪訝な声だった。聞き慣れたはずの霞の声なのに、すごく他人のような――。
「俺だけど、そっち大丈夫?」
『俺って、どちらさまですか』
あからさまに攻撃的な声だった。
「俺だよ、墨川。墨川護。彼氏の墨川だ」
『はぁ?』
その声に鳥肌が立つ。いや、待て。ありえない。そんなはずはない。
『あたし、彼氏なんていませんけど』
「ちょっと――」
電話が切れる。俺は呆然とスマホを見つめた。スマホを持っている手が震えている。そんな俺の肩をポンポンと叩いて、メグ姐さんは「やっぱりな」と言った。
「ど、ど、どういうことなんですか、これ」
「ちょっと待ってろ」
メグ姐さんは自分のスマホをバッグから取り出して、どこかにフリーハンドモードで電話を掛けた。
『お電話ありがとうございま――』
「甲斐田だ。タヌキ部長に繋いで」
『カイダさんですか? どちらの方でしょう?』
「その声は竹山だな? 寝ぼけてないでタヌキに繋いで」
『……少々お待ちください』
問答無用で保留音に切り替わる。その音はたっぷり三分近く流れ続けた。
『大変お待たせして申し訳ありません。上司に確認してみたところ、カイダという名前に心当たりはないとのこと。おそらくおかけ間違いではないでしょうか』
「いいえ。間違えてはいないわ。あなたの直属の上司は誰? 課長よ」
『私、竹山が課長ですが……』
「部下に墨川というのはいない?」
『いえ、おりません。ですから、おかけ間違いではないでしょうか』
「ならなぜ私があなたが竹山だとわかった?」
『偶然ではないでしょうか。では、失礼致します』
電話が切られる。メグ姐さんは動揺するでも激怒するでもなく、ただ冷静に呟いた。
「なるほどね」
「なるほどって、どういうことなんです?」
「私たちが情報として孤立化したってことよ」
そう言われてもピンと来ない。第一、会社の人事構成まで変わっているだなんて、にわかには信じ難かった。
「観測は時間をも超えるということだ」
会長の方の牧内が呟いた。
「現在において観測されていないという事実との整合性をとるために、過去の事象が改変される。観測世界に於いてはよくあることだ」
「それじゃ俺たちは何処にも存在してないってことになるじゃないですか」
思わず立ち上がった俺が言う。そんな俺の斜め下から、社長の方が声を掛けてくる。
「片方が情報として孤立することで、互いに素の関係が出来上がる。AIという最大公約数しか持たない関係です」
「互いに素? AIという最大公約数?」
「AIによって断ち切られ得る関係性。今もうすでにそれは始まっているはず」
どういうことか――問おうとした俺の両肩を、メグ姐さんが鷲掴みにする。
「私たちの記憶からも、お前の彼女や会社の連中のことが消えていくっていうことだ」
「俺たちの記憶からも? そんな馬鹿なことがあるはずが」
「そうか?」
メグ姐さんはサラっと尋ねてくる。
「私たちの記憶がそこまで確固たるものだと信じられるのは何故だ、墨川」
「いやだって、ほら、俺は霞のこと忘れてないし……」
「それは本当に? 忘れてないと言い切れるのか?」
何を言ってるんだこの人は――俺はそんな表情を見せたに違いない。
「霞は……霞だろ。覚えてるし」
「どこに住んでいた? 最後に会ったのはいつだ? どんな話をした? どこの店に行った?」
「それは……」
どこに住んでいた?
最後に会ったのは?
話をした内容?
店……?
焦れば焦るほど答えに辿り着かなくなる。俺は深呼吸を一つして、またメグ姐さんを見た。メグ姐さんは今まで見たこともないくらいに優しい表情をしていて、そして俺の左肘を軽く叩いた。
「悔しいよな」
「……ええ」
何なんだ、この現象! もとに戻せるのか!?
俺は強く苛立っていた。こんなバカなことが許されるはずがない。髪の毛がぞわぞわするような感情を、俺は確かに感じていた。
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