弊社に於ける給湯室というのは――一般的にはともかく――いわば、女の園だ。それもダメなカレーから立ち上る何か瘴気的なものを感じさせる異空間である――というのが偏見だと言われようが弊社に於いてはそうなんだから仕方なかろう。そんな男子禁制の給湯室に、俺は今、なぜか監禁されている。俺の黒いネクタイを右手で掴み、俺を見上げている年下の先輩女性社員。名前は甲斐田恵美——通称メグ姐さん。艶々の黒髪をポニーテールにしている、一見して美しいアラサー女子なのだが、性格はとてもきつい。俺のネクタイを締めあげて給湯室に監禁するほどに。
監禁と言われても物理的に逃げ出せないわけではない。だが、逃げてもどうにもならない事を俺はイヤというほど知っている。メグ姐さんは蛇のような執念深さで俺をロックオンし、翌日には信じ難い量の仕事を持ってくるのだ。場合によっては見つけなくてもいいバグを見つけては当日中のデバッグ作業を求められたりもする。そんなことになったら正直地獄である。
転職して三年、メグ姐さんの下に配属されて一年と少しが経過した現在、さすがにそのくらいは容易に想像できる。だから……俺は自発的に監禁されているのだ。メグ姐さんに逆らっていてはこの会社で生きてはいけない。メグ姐さんは御年二十八歳にして課長にまで昇進して、部下を五十名近く導いている才媛なのだ。そのプログラムスキルやマネジメント能力の高さについては、もはや誰の目にも明らかであり、天は二物も三物も与えるものだと嘆息せざるを得ない。
俺が女だったら、その美貌と能力に嫉妬していたに違いないのだが、きっと同時に返り討ちにあって泣いていたことだろう。もっとも、男の中にもこれ見よがしに嫌味を言ったりなんだりする奴はいる。だが、そういう奴はメグ姐さんの歯牙にもかけられないまま、いつの間にか自然消滅していたり、どこか遠くの支社に飛ばされていたりする。メグ姐さんを敵に回したら人生を棒に振りかねない――俺を始め賢い社員たちは、誰もがそう認識している。
で、そんな(恐ろしくも)優秀なメグ姐さんが、何でこんなに目を三角にしてお怒りになっておられるのかというと、正直俺にもわけがわからない。ほんの十分前に「墨川、ちょっとつきあえ」と呼ばれてホイホイついてきたら……こんな状況だ。
「それであの、課長、そろそろ手を放してもらえませんかね」
「手を離したら逃げるだろ」
「逃げませんて」
「普通逃げるよな?」
「無駄なことはしませんよ。それに普通逃げるようなことはしないでもらえません?」
俺が両手を上げてそう言うと、不満げな表情を見せながらもようやくネクタイから手を放してくれた。
「ところで課長。なんでそんなに怒ってるんですか? それにここは危険ですって」
「ここが危険? 共有エリアだぞ?」
「共有エリアっつっても、あのですね、給湯室に俺と課長の二人。あやしい噂が——」
「なんだそんなことか」
メグ姐さんはフッと笑って顎を上げる。
「私は別に構わんのだぞ」
「は?」
「私もお前も独身だ。大人の事情の一つくらいあったっていいじゃないか」
「いやいやいやいや!」
せっかく転職して生活も安定してきたというのに、女がらみでトラブルというのは正直笑えない。最も笑えない類のトラブルである。それに俺は確かに独身だが、五年間付き合っている彼女はいる。メグ姐さんもその辺の事情は知らないはずがないのだが——直接教えた、もとい、白状させられたし。
「まぁ、噂というのはどう動くかわからんものだからな、確かに」
「でしょ。で、俺のネクタイを引っ張ってまでして、ここにしょっぴいてきた理由とはいったい?」
「うん、我ながらなかなか格好良かった」
「そうじゃない」
ツッコミを入れずにいられない俺である。メグ姐さんは「つまらんやつだな」と言いながら腰に手を当てた。
「出張だ。謝罪の旅に出ろと部長から命令が出た」
「はぁ!?」
謝罪行脚って、先月のシステムトラブルの件? いや、あれはクライアントの不始末でしょう!?
と、言いかけた俺の唇を人差し指で押さえつけるメグ姐さん。そして「おや?」と呟いた。
「お前の唇、意外と柔らかいな!」
「だからオープンでそういう発言しちゃダメですって!」
今の所目撃はされてないと思うが、会話だけ見たらどう考えてもキスしてるじゃないかっ!
「部長には、自分で行けと言ったんだが……! あのクソ狸野郎はグダグダ理由をこねくり回して結局ノーだ。クソ野郎め! F***!」
「あの、課長! そういう言葉遣いはちょっと!」
「であるからして、私は今不機嫌だ。すごーく不機嫌だ。だから不機嫌な私を表現するためにさっきの一芝居を打ってみたという事だ」
「芝居で人のネクタイ掴まないで下さいよ」
ネクタイを直しながら抗議すると、メグ姐さんは鼻息荒く応えた。
「私の表情差分が見れただけでもお前はラッキーだ」
「……何言ってるんですか。まったく、自己肯定感の塊ですね、課長は」
「ほう? ならばお前は、自己肯定感のない課長についていきたいと思うか?」
「う、それは、いやです」
「だろう?」
なんか煙に巻かれた気もしなくはないが、言ってることは至極正しいような気がしなくもない。こんな具合にいつも相手のペースに飲まれてしまう俺である。
「で、出張はいつからです?」
「明日から土日を挟んで一週間」
「……明日」
「うむ」
「札幌っすか?」
「そういうことだ」
クライアントは札幌に本社を持っている超大規模なシステム開発会社だ。システム開発会社と言っても、その業務のほとんどは俺たちの会社みたいないわゆる「IT系」企業が請け負いで担当している。彼ら自身はマージンを抜いて仕事を振る、いわゆる一次請け企業なのだ。俺たちみたいな二次、三次請け企業にはろくな情報が下りてこないことも少なくないし、今回みたいに一次請け企業の不祥事を押し付けられないこともない。とはいえ、うちの業界はそれが当然みたいなところがあるから、いまさら文句をいったところで体制をどうこうできるというようなものではないだろう。悔しかったら下克上するほかにないが、あの会社に太刀打ちできる企業や個人といったものが現れるかもしれないというのは、なかなかに期待薄だった。
「ていうか課長。札幌で一週間も何するんです? 土下座しっぱなし?」
「土下座なんざ死んでもするか」
メグ姐さんは腕を組んで眉根を寄せる。
「先方が自分でぶち壊した社内システムを直せってさ。端的に言うとそういう事のようだ」
「は、はぁ?」
「構築した社員は退職、引き継いだ社員も雲隠れ、仕様書も見つかっていない」
うわぁ……よくある話。
「それの不具合を解消して仕様書も作ってくれたら、今回の不祥事は大目に見てやる、だって。ふざけんな、だろ、墨川。F***!」
「だからFワードは駄目ですって」
まぁ、言いたい気持ちはわかる。
「……で、だ。そのクソ条件で、あのクソ狸部長は平身低頭して引き受けたってわけだよ、墨川」
「F***!」
「言いたくなるだろ?」
「はい、すっきりしました」
「うむ、よろしい」
メグ姐さんは満足げに何度か頷き、そして給湯室を後にした。俺は慌てて追いかける。メグ姐さんは歩くのも早い。「颯爽」という表現がこれほど似合う人も珍しい。
「で、あの課長? ええと、そんな得体の知れないシステムを直すのに、俺と課長の二人だけで行くんですか?」
「なんだ、墨川。私とのデートは不満か? 不満でもあるのか? ん?」
「いや待って。デートじゃないでしょ」
「いや、デートだ」
「だから俺には彼女が……」
「何を考えてる。セックスするとは一言も言ってないぞ、このスケベ野郎」
ぐっ——。
「それに、私とお前が行って直せなかったというのなら、それはそれで言い訳も立つだろ。この人選はF***ではあるが意外と合理的なのかもしれんよ」
「そうなんですかねぇ……」
以後、俺は黙ってメグ姐さんの後を追った。
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