OreKyu-03-003:悪魔の証明

|<∀8∩Σ!・本文

 俺の言葉に、メグ姐さんはフッと息を吐く。

「実体がある? 本当に? 見たの?」
「いえ、見てないですけど。でも」

 俺は手を休めずに言い募った。

「プログラムってのはソースの集まりです。ソースのないプログラムは存在しない」
「ソースってのはエディタで書く文字列のことを言っている?」
「そうですよ」
「でもあなたはこの世界の全てのプログラムのソースを見たわけではないし、コードの一つ一つを精査したわけでもない」
「そりゃ当たり前です」
「ソースがないプログラムがあることを否定することはできないわけよね?」
「そいつは悪魔の証明ですよ、課長」
「だからじゃないの?」

 メグ姐さんはベッドの上に腰を下ろすや否や、ばたりと後ろに倒れた。パンツスーツじゃなければいろいろと丸見えになっているであろう体勢だ。俺は敢えて目を逸らしてガンタンクに集中しているふりをした。

「何がです、課長?」
「さっき、牧内社長が言っていたでしょ。悪魔と取引した、とね」
「でもそんなことはありえないでしょう? 悪魔とか、どういう時代設定ですかね」

 ソースがないプログラムなんてありえない。それにソースがあるから、そもそも今回のインシデントに繋がって——。

「本当にそう思っている?」

 メグ姐さんはベッドに身を起こすと、まるで俺の心を見透かしたかのように、その色の濃い瞳で見つめてきた。俺は言葉を飲み込んだ。

「墨川くんだって、自分のを実感することなんてないでしょう?」
「そりゃ……でも、こうして課長と話ができてるのは脳の働きでしょう?」
「そうね、そうなのよ。でもあなたが自分の意志だと思っているのは、あなた自身の意志なんかじゃなくて、単なる脳の演算結果なの」
「演算結果……ですか」
「そう。だからあなたは思考プロセスをいちいち頭の中に思い浮かべたりはしない」
「でも、その意識は脳が作り出すもの、ですよね」
「そうかしらね。脳が作っているものもあるかもしれない。でも、外部の刺激によってあなたの意識や意志が作られているとも言える」

 意識は外燃機関みたいなものだってことか?

 ふと俺が思ったことを読み取ったのか、メグ姐さんは頷いた。

「脳は単なる処理装置に過ぎないと言われているわ。意識や意志をいちいち生成するものではなくて、そうなるべく、認識されるように、結果を出力しているだけのっていうね」

 メグ姐さんはフッと息を吐く。

「この世界はありえないことの積み重ねでここまでやってきているの、墨川くん。ここまでの歴史では、一部の天才がその主導イニシアティヴを担ってきたかもしれない。でも、人が作り出してしまった外部記憶や演算装置の性能は、もはや人間の遥か上。そこにネットによる集合知が加わったら、それはもう、一つの新たな、そして継代を経ずに進化し続ける意識体であると言えるんじゃない?」
「それはもうサイエンス・フィクションの世界の話じゃないですか」

 俺が大袈裟に言うと、メグ姐さんは大真面目な表情で頷いた。

「手塚治虫が何十年も前に描いた世界が次々現実化しているんだもの。別におかしなことじゃないじゃない?」
「でもそれじゃまるでネットが意識を持っているってことになるじゃないですか」
「ネットが意識を持ったらおかしい?」

 メグ姐さんは膝に肘をついて、その手で頬杖をついた。ポニーテールはいつの間にかほどかれていて、長い髪がメグ姐さんの輪郭を作っている。

神経細胞ネットもあれば、各種細胞ノードもあれば、記憶装置メディアデバイスもあれば、演算装置CPUもある。その構造体は人間と何も変わりはしないのよ」
「でも身体がない」
「身体?」

 メグ姐さんは口角をついと上げた。

身体構成最小独立要素バクテリアたちに、その構成体ボディの全容を知る権利は与えられていないわ」
「俺たちがバクテリアだっていうことですか」
「そもそも、全地球的に見たら、人間の個それぞれはバクテリアよね?」
「いやまぁ、そうかもしれませんけど。単細胞じゃあないですけど」

 必死に理解しようとする俺と、手慣れた様子で解説を続けるメグ姐さん。これが文系と理系の差かと、俺は思った。メグ姐さんは朗々と語り続ける。

「でね、そのバクテリアの集団をいったん個に分解して、そして一つに統合したのがインターネット。その速度は高速化して、今やタイムラグは地球の裏側に至っても本当に誤差の範囲。宇宙ステーションからだってSNSに投稿できるのだから、もはや一つの情報体としてのインターネットという個体は、地球をすら超越してしまったのよ。人間の圏域ドメインの拡大と同時に、インターネットは形を変え、そして拡大していくでしょうね。インターネットを全地球的神経網と読み替えれば、ネットの意志や意識というものは、地球それ自体のものと言ってもいいのかもしれないわね」
「地球の意志……ですか」
「そ。地球は四十数億歳の一つの物体よ。意識の一つや二つ持っていたっておかしいことはないでしょ」
「うーん、ちょっと俺の想像の範囲外かなぁ」

 俺は素直に言って、話題を切り戻そうとした。

「それで、その全人類の総意的なもの? そんなものが、今回登場してきたアンドロマリウスを作ったっていうことですか?」
「そういうこと。顔の知れない個あるいは集団アノニマスによって持ち掛けられた悪魔の取引。それがアンドロマリウスを生み出そうとしている。いえ、すでに生み出してしまった。彼らはもう待機状態スタンバイよ」
「で、俺たちがその不具合をどうにかしようとしている?」
「そうね」

 片棒を担ぐ、ということになるかしら——メグ姐さんは付け足した。

「でも課長、そのアンドロマリウスは何のために使われるんです?」

 ようやくガンタンクを完成させ、俺は伸びをする。久しぶりに細かいことをやったので肩が凝った。目がしばしばするのは三十代という年齢のせいだろうか。

「もちろん表向きはIPS侵入防止システムの機能の一部よ。非公開モジュールとは思うけど、モジュールの一つではある。ただし、とんでもなく攻撃的アグレッシヴなね。ブラックリストを食い潰していくような仕組みとも言えるし、殴られたら殺すまで殴り返すシステムであるとも言える」
「ブラックリストに記載された対象を抹殺するとでも?」
「ジョークじゃ済まない話だと思うわよ、墨川くん」

 同じ情報を与えられたはずなのに、俺とメグ姐さんとの理解には雲泥の開きがあるようだ。

「今の世の中、人間一人二人の人生や、企業一つの命運なんて、ネットの匙加減一つで決まるのよ。ネットからの抹殺はもちろん、社会的に殺すことだって容易だし、それがこうじれば物理的に致命傷を与えることすら可能だわ。ネットの匙加減——つまり、それが真実であろうとなかろうとね。劇場型犯罪を演出することだって可能だし、人々の暴走を煽ることだってこれっぽっちも難しくはないでしょうね。真実と虚偽に満ちたネットは、そのエントロピーの高さゆえにいずれにせよ受け入れられやすいのよ」
「それをするのが、IPSxg2.0に接続されたアンドロマリウス……」
「そういうこと。アンドロマリウスの末端機能の一つなんだろうけど」

 なんてものに関わっていたんだと思う反面、それを知らずにいたらと思うとそれはそれで怖い。知ったところで現在のようにどうにもならないというのは自明なのだが。そんなこんなで俺は、八方塞がりのような感覚に陥っている。

「あの課長。今更なんですけど、アンドロマリウスって、つまり何なんですか?」
「それはまだ、私にも正確にはわからない。でも、国家や世界を動かすレベルの何かであることは確かよ。それに——」
「それに?」
「気にならなかった? あの会社に開発部隊が存在していること」
「ああ、確かに」

 全てウチみたいな二次請けに投げているだけの会社だと思っていた。あの牧内社長が取り仕切っているのだから、開発部隊を持つことは不可能ではないにしても、そんな噂が聞こえてきたことすらない。完全に秘匿されている部隊ということになるだろう。

「もう一つ」

 メグ姐さんは人差し指を立てた。

「牧内社長は私たちを監禁しなかった。もちろん見張りはついているだろうけど、それは牧内社長の手によるものではないわ、十中八九」
「どうしてわかるんですか」
「私たちがネットに接続しているからよ」
「今も?」
「そう、今も」

 メグ姐さんはベッドサイドデスクの上に置かれたスマートフォンを見た。俺は自分のスマホを取り出して、変なアプリが起動していないかを確かめる。

「スマホの電源は入っているから、位置情報は見えるかもしれませんけど」
「私たちが二人で同じ部屋にいる状況と、私たちがここに来た経緯、さっき聞いた話。そしてこれまでの私たちの社会的活動の足跡。これらを総合すれば、今この部屋で私たちが何を話しているかは、ネットには筒抜け、ということ。ガンタンクを組み立てているであろうことも、ヨドバシカメラのPOS情報を閲覧できれば簡単に推測できるわ。一週間の出張期間に三台も買っているんだし。しかも特別レアでもない商品をね」
「でもそれってただの推測、噂レベルの話ですよね。俺たちのスマホだって別に音声チャネルが開いているわけでもない」
「墨川くん。さっき私、言ったわよね。だって」

 その声と視線に、俺は思わず総毛立った。

「ただの推測で何かされるかもしれないって?」
「でもその推測が限りなく当たっていたら? それでも無実だって言える?」
「それは……でもそれだと、数打てば当たるってことになるじゃないですか。俺たちは無実を訴えていくと同時に、罪科に近付いていくことになる」
「それを物理的に、今の演算装置は可能にしたのよ」

 またメグ姐さんの目が物騒に輝いた。

「噂を一つ一つ検証し、時として当事者・関係者たちの反論を集め、事実に近付けていく。それらの情報が閾値ボーダーに到達したら相手が黒なのか白なのかを判断し、黒ならばアタック。そういう仕組みよ、アンドロマリウスは。きっとね」
「あの社長の話でよくそこまで繋がりましたね……」
「単純な話だったわよ。身体ボディ意識コンシャスネスの話は大学でやっていたから」

 俺は手持ち無沙汰にガンタンクをいじりまわしながら、「んー……」と声を出していた。

「でも、課長。俺には、技術的にそんなものがいきなり出てくるとは思えなくて」
「いきなり出てきたわけじゃないと思うわ」
「というと?」
「1990年代から急速にネットは普及し、2000年代には高速化時代に入ったわ。また、ネット上のメディアもテキストデータから音声、そして動画へと変遷し、その情報量は加速度的に増した。そして2010年代のスマートフォンの普及によって、ネットに接続される人口も、その機会時間も大幅に増えた。直接的にネットに触れていない人でも、ネットに顔写真はいくらでもあるし、その足跡・経歴さえ判明する。自分でオープンにしている人もいるし、迷惑なことに他人の情報まで晒している奴もいる。だから完全な孤人スタンドアローンなんて、ほとんど絶滅危惧種。地球、いえ、一つのインターネットワークが生み出す社会の中に於いては細胞自死アポトーシスへの道を歩まされる存在なのよ、は。だって、観測されなければ存在しないのと同じなのだから。今やネットで観測されていない事象は、 のよ。ということ」

 俺はガンタンクを置くと、腕を組んでソファに背中を預けた。

「でも課長。アマゾンの民族とか、砂漠の人とか、戦争に巻き込まれてバラックに住んでる人は? ネットに接続されてはいないですよね」
「彼らの環境にネットはないかもしれない」

 メグ姐さんは立ち上がると冷蔵庫からビールを二本取り出した。この時間にビールというのはちょっと遠慮したかったが、メグ姐さんの眼力には負けた。受け取った俺に、メグ姐さんは続けた。

「でも、情報として孤人スタンドアローンかというとそんなことはない。ネットを探せばいくらでも関連情報は見つかるわよね? 軍の偵察写真からだっていい。誰かの日記が断片的にでも写り込んでいればいい」
「でもそれは……ブラウザを通した世界に過ぎないじゃないですか」
「私たちの情報だって、五感を通じて得られたものに過ぎないでしょ?」

 確かにそうなんだけど……。俺は何とも反論の糸口がつかめない。

「墨川くん。私たち個人の中にある情報なんて、手の届くところにある情報を統合してまるでそこに存在しているのだと錯覚しているに過ぎないし、好きな情報を選択的に取得しているにもかかわらず、一つのを手に入れたと満足しているに過ぎないわ。だから情報流入経路や処理系の問題ではないのよ、意識の創発エマージェンスは」

 それから俺たちは黙ってビールの缶を開けた。

 俺の思考回路は、現時刻を以て営業終了のようだった。

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