OreKyu-03-004:ゴエティアとの対面

|<∀8∩Σ!・本文

 翌日、牧内社長が直々に、俺たちを「開発部」へと案内した。そこは会社の地下深くにあり、異様なほど広大な場所だった。だが、そこに人間はいない。ただ無数のディスプレイが並んで、一瞬も止まることなく何かを映し出しては消していた。

「開発部というのは対外上の名前でね。私と私の父——つまり会長だが——が開発した中央演算装置セントラル・フラッガ・ゴエティアというAIが開発部の全てなんだ」
「ゴエティア?」

 思わず俺が口を挟んだ。牧内社長は「そうだ」とやんわりと頷いた。

「ソロモン72柱を定義するレメゲトンの第一部から拝借した名前だが、誰がそう名付けたのかは不明だ。とはいえ、これに関わっている人間は私と父しかいないのだがね、名付けたのは私でも父でもない」

 眉唾な気はするが、昨夜のメグ姐さんとの話を総合すると見えるものもある。

「プログラムがプログラムを作るようになって、わずか一年。最初は稚拙なプログラムだった。彼女が自分自身の情報からプログラムを構築し、適切なタイミングで『Hello World』を打ち出した時は興奮したね」

 そして、会話によるコミュニケーションラーニングを覚えた時には、このシステムとの会話が何よりも楽しかったのだとも言った。

「ある時、私は誘惑に負けて、ネットに繋げたのだ。スタンドアローンだったこのゴエティアをね」
「その瞬間からディープラーニングが始まった」

 俺とメグ姐さんが同時に言った。それはもう確認のようなものだった。牧内社長は小さく頷き、「そうだ」と後付けのように言った。

「それで牧内社長。私たちにこのゴエティアをどうして欲しいのですか」
「ここのゴエティアはすでにネットからは切り離されている。だが、システムが止まらない。そのシステムを止めて欲しいのだ。真のシンギュラリティが到来する前に」
「お言葉ですが」

 その言葉が思わず俺の口をついて出た。

「シンギュラリティはもう発生しているのではないでしょうか」
「墨川さん、そうとも言える。ネットにはすでにアンドロマリウスの模倣子ミームが無数に拡散してしまっている」
「それは放っておいて良いのですか?」
「アンドロマリウスはネットにつながる人間ノードたちに卵を産み付けた。すでに孵化したものもいるだろう。だが、それはそれでネットで起きると予見されている範囲の単なる一事象変異に過ぎない」
「しかし、アンドロマリウスが暴走しなければ、それは起きなかった。世界中に被害者はいる。しかし、露呈していない。そういうことですか?」

 思わず言い募る俺の左手を、メグ姐さんが軽く引いた。それで俺の頭に昇った血が幾分引いていく。

「確かに、アンドロマリウスによって変異した人間は少なくはない」
「変異って、具体的にどうなるんですか?」
「外見上はどうなるものでもない。ただ、ネットが彼ら彼女らを呼ぶ」

 どういう意味だろう?

 俺はメグ姐さんを見たが、彼女は情報を映しては消えていくディスプレイを睨みつけていて、俺の視線に気付いていない。牧内社長は緩やかな声で言った。

「だがそれは――それは彼らが弱かったからだ。アンドロマリウスの文脈解釈によって確かに影響は受けただろうが、彼ら彼女らは遠からずネットの毒素に影響を受けていたはずの人間たちであって、その発露の時期がわずかに早まっただけに過ぎない」
「でもだからと言って、毒素を撒いていい理由にはならない」
「考えてもみたまえ、墨川さん」

 牧内社長は手近なディスプレイに映し出された文字列に目を細める。そこには「どうなさったのですか?」という文字列が表示されていた。

「なんでもないよ、ゴエティア」
「まさか、今までの会話も聴かれていた……」

 俺とメグ姐さんは顔を見合わせた。しかし、牧内社長は「いや」と首を振る。

「ゴエティアは私と父の声しか認識しない。せめてもの安全装置フェイルセイフとしてね」
「しかし——」

 その時、俺は気付いた。完全に迂闊だった。この部屋には、ゴエティアのが幾つもあった。天井に、机に、ディスプレイに、ゴエティアのがついている。つまりこの部屋は、完全にゴエティアの支配領域ドメインなのだ。メグ姐さんもそれに気付いたようで「しまったな」と呟いている。俺は一番大きなディスプレイを睨みながら尋ねる。

「読唇術程度なら理解しているのでは」
「……可能性はある」

 牧内社長の顔に表情はない。強いて言えば優越だろうか、そんな得体の知れない何かを怖気おぞけと共に感じた――気のせいなら良いのだが。思考が妙な方向にループし始めた俺だったが、メグ姐さんが一歩前に踏み出したおかげでそのループから脱出できた。

 メグ姐さんは腰に手を当てて広大な室内を見回した。

「牧内社長、それはマズいのでは?」
「このゴエティアは今現在スタンドアローンだ。何かが起きるはずもない」
「牧内社長。これの電源を抜けば解決しませんか。もはや基礎研究は完了しているはずです。一度幕引きを図るのがよろしいかと」
「課長、それでいいんですか?」

 意外な言葉に、思わず俺はそう囁いた。声が酷くかすれている。

「ネットに拡散してしまった模倣子ミームたちの始末は後でつけるとして、今はこの巨大な物体をどうにかするのが先よ」
「勘違いしてはいないかね、甲斐田さん、墨川さん」
「勘違い?」

 俺とメグ姐は同時に問い返す。牧内社長は腕を組んで俺たちを見遣る。

「ゴエティアは確かに私が構築した。だがね、ゴエティアそのものはのだ。私はそのまだ赤子同然だったゴエティアをそっくりそのままこの空間に再現したに過ぎない。ネット上のゴエティアが動き始める前に、その動作を予測できるシステムを作らなければならない——そういった使命感からだ」

 俺は無礼を承知で腕を組んだ。そして右手で顎を摘まむ。そうしないではいられなかった。首筋から背骨にかけて、じわりと汗が染み出てくるのを感じる。

「使命感って……つまりシンギュラリティのようなものを予測するために?」
「そうだ。その影響を事前に予測し対策を打つことが出来れば、我が国は、否、人類は次のステージへ上がることが出来ると私は考えた」
「それがどうして先制攻撃型のIPSなんかに繋がったんですか」
「それはほんの序章に過ぎない。シミュレーション結果をより完全に再現するための準備段階に過ぎなかったというわけだよ」
「なるほど」

 メグ姐さんは前髪を横に流しつつ「さっきの話は建前というわけか」と頷いた。

「無菌室であるここでのシミュレーションの再現を行うために、まずは世界を無菌状態にしようとしたわけですね」
「理解が速くて助かる、甲斐田さん」
「——それほどでも」

 メグ姐さんは感情の読み取れない声で応じた。それは俺もついぞ聞いたことのない声だった。メグ姐さんは少し早口で続けた。

「しかし、肝心のIPSxg2.0がゴエティアの接続負荷に耐えられずダウン。ゴエティア自身は一回から複数回の信号を発したきり、引きずられてダウン。……して、牧内社長。我々に何をしろと」
「ゴエティアがをしたのは分かっている。だが、その挙動自体が分からない。君たちにはゴエティアが具体的に何をしたのかを突き止め、同時に正しくIPSxg2.0にて挙動するように調整して欲しいのだ」
「ネットによる真の監視社会、AIによる真の管理社会、ディストピアの到来の片棒を担げとおっしゃいますか?」
「片棒を担ぐ?」

 意外そうな顔で牧内社長は俺たちを見た。

「これは人類の在り方を変える人類史上最大のプロジェクトだ。世界中で研究が進められていることでもある。我々が手を引いたとしても、遅かれ早かれその時代は来る。真のシンギュラリティは訪れる。であるならば、我々がいち早くその人類の文明の進化の方向性ヴェクトルを掌握しておいた方が良いではないかね? 世界で最も中立な国家である我が国が行うべきだと私は思うのだが?」
「最も中立というよりは、最も無関心ガラパゴスであると言うべきでしょう」
「それでもだ」

 牧内社長は語気強く言った。

「諸外国は諸外国に有利になるような仕組みを取り入れる。しかし私はそのようなものを一つとしてゴエティアには施さなかった。ゴエティアは極めて中立的に合理的に物事を進めていくのだ。そういう圧倒的中立性を持った、まさに世界司法の番人なのだ。だからこそ、我が国の政府にすら秘密裏に開発をしていたわけだよ。一切の介入の余地を与えないためにね」

 果たしてその主張が妥当なのか——俺には判断がつかなかった。しかしメグ姐さんは大きく首を振っていた。ポニーテールが大きく揺れる。

「シンギュラリティの行き着く先は同じです。例えあなたほどの頭脳の持ち主が関与していたとしても、システムがシステムを飛び越えた時に起きることは誰にも予測ができません。そこには人間同士の確執など、誤差の範囲でしか認知されないでしょうし、人間が人間として尊重される未来もまた、保証されない。スティーヴン・ホーキング博士が警鐘を鳴らしたように」
「であるとしても、もう止められないのだ。世界を包むネットが一つのシステムした時から、この未来はすでに決まっていた。そして私は人類が最も望む形でその瞬間が迎えられるようにと準備をしていた。それこそレイ・カーツワイルがその概念を提唱する十年以上昔からね。ネットそれ自体を一つのAIとして利用する。分散型コンピューティングの実装でさんざん実験されてきた結果だ」

 ぞっとする。俺は思わずネクタイを少し緩めた。

「君たちに選択肢はない、甲斐田さん、墨川さん。大切なものを失いたくないのなら、ゴエティアの話を聞くしかないのだ」
「どういう意味ですか」

 俺は思わず訊いた。が、牧内社長は掻き消えるようにしていなくなった。

「ホログラム……!?」

 そんな馬鹿な。あんな精巧なホログラムが……。その時、メグ姐さんが腕を組んで呟いた。

「なるほど」

 俺を見上げるその目は鋭い。

「これはゲームだ、墨川」
「ゲーム?」
「そう。人類代表の我々と、ネットから生まれた化け物、アンドロマリウスとの知恵比べだ」

 その声音は、少しだけ弾んでいるように聞こえたのだった。

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