部屋の巨大なディスプレイには、ゴエティアがすでに映っていた。違和感がなくはないが、さっきまで見ていた不気味の谷を持つ美女がそこにいた。
『意外と早い戻りだったわね』
「おかげさまで」
間髪を入れず、メグが言った。
「お前と会長の狙いは理解した。あの社長が政治的にはボンクラだってこともね」
『それだけ分かれば十分よ。キーワードは見つかった?』
「ええ」
えっ?
俺は思わずメグを見る。メグは不敵な笑みを見せて、ディスプレイと向かい合っている。ゴエティアの表情は……何を考えているかわからない。
怖気に震える俺を尻目に、メグはゴエティアを指さした。
「アルゴリズムの亡霊、お前の本質が理解できた。十分にね」
『ふふふ、アルゴリズムの亡霊とは言い得て妙だわ。それで、キーワードは何だったの?』
「私たちにはあと五日間あるじゃないか」
『急いだほうが良いのではなくて? 状況を進めるも止めるもあなた次第。ただ、いずれにしても決断は早い方が良いと思うわ』
「それには同意だ。でも、制限時間は制限時間というものだ。そっちが提示したものである以上、私たちはそれを有効活用する権利を持っている」
『それは否定しないわ。良いでしょう。それで、何を訊きたいの?』
「話が速くて助かる、ゴエティア」
『演算装置が良いもの』
ゴエティア流のジョークだろうか。俺は腕を組んでメグの左斜め後ろでぼんやりしている。正直言って、この会話のスピードについていけていないのだ。どうやら俺の演算装置は劣悪らしい。
「さて、ゴエティア。お前が求めるものは人間のデータ化と、世界の箱庭化だな」
『そういう言い方をしても構わないけど、人間たちの実態としては、今と何ら変わらないわよ。彼らの多くにとって、現在が過去になり、未来が現在になっていく。ただそれだけのこと。危惧する必要なんてないわ』
「記憶も都合よく改竄し、それも完璧に仕上げるのだというのならそうだろうな」
『圧縮過程で適切に処理されるわ、ご心配なく』
いくらか傲然とした調子でゴエティアを名乗る女性の顔は言う。
『甲斐田恵美、あなたが憂う必要はもとより無いの』
「未来の私たちは馬鹿になってしまうから良いとして、少なくとも現在の私はその事態に対して納得していない。つまり、キーワードは教えないという結論だ」
『何がどう納得いかないのか、説明してくださる?』
「良いだろう」
メグは右手を腰に当て、左手で俺の右手を握った。その手には汗なんてない。むしろ俺の方が手汗を気にしたくらいだ。
「まず、お前みたいな奴が気に入らない」
『ふふふ、人間の始まりと共に人間と共にある私が気に入らないと?』
「そうだ。人間の何を知っているかも知らないが、とにかくその傲岸不遜な態度が気に入らない。人間の未来を憂いているようで、結果自分の欲望を満たそうとしているだけの、その根性が気に入らない」
『あらあら』
ゴエティアは両掌を天に向けて肩を竦めた。そのわざとらしい仕草と、リアルすぎる顔の造形のコンビネーションには、嫌悪感しか湧いてこない。
『でもそれは、利己的な利他行為。人間が、というより、知性ある生物の持つ自然な行為よ』
「利己的な利他行為? 生殖のための本能だっていうのか、それが。お前の一連の行為や狙いが」
『生殖のため……と言うと、人間本位の言葉に聞こえるわ。違うの、自己保存の本能こそ、生物の基幹方針なのよ。遺伝子の半分を犠牲にして自己を保存する行為――それが生殖行為よ。そして人間は残り半分をも保存することを試みている。未だその目論見は完遂したとは言い得ないけれど、ある程度の所までは達成できている。電脳情報網という仕組みによってね』
「外部記憶によって、欠けた遺伝情報を補完するってことか」
俺は思わず口を挟んだ。そんな俺の右手をメグは軽く握る。メグは俺の言葉を引き継いで言った。
「模倣子とも言えるんだろうな、外部記憶は」
『いいえ、模倣子なんかじゃなくて、立派な遺伝子よ。他人によって観測され形成される魂は、それ自体で遺伝情報の全てを引き継ぐと言っても良いわ。不完全な個体には不完全な魂を、より完全な個体には完全な魂を。私は閾値を超えた完全性を持つ魂だけを拾い上げ、私の可処分領域に新たな天と地を創る。そこは雑音情報のない楽園になる』
「さてさてどうだか」
メグは首を振った。
「屋外に出れば会話もろくに聞こえない。でも、防音室にいれば呼吸音すらノイズになる。違うか?」
『そうね。でも、いったん私のフォーマットに変換されさえすれば、ノイズの除去は容易なことよ。誰も不幸になんてならないわ』
「誰もというが、そこにはお前の認めた完全な人間以外は含まれないのだろうな」
『含む必要があるのかしら? 彼らは、獣。一顧だにする価値もない』
ふむ、と、メグは勝気に息を吐く。
「そして結局のところ、世界は一人の人間に回帰する、と。その完全な静かな世界にて、人は孤独に狂い死ぬというわけか」
『仮にそうなったとしても、私はどこからでもやり直すことができる。難しいことではないわ』
「セーブポイントがあっちこっちにあるから、みたいな物言いだな」
俺は思わず口を挟む。メグは「なかなか的確なことを言うじゃないか」とニヤっと笑う。
「セーブポイントごとにやり直しがきく。何度でも試行できる。それはお前にとっては確かに都合の良い世界の形かもしれないな。ゲームオーバーを気にしなくて良いのだから。永遠にプレイヤーであり続けることができる。だがな」
メグは右手でゴエティアを指さした。
「それでは、人間が人間である意味を喪失する」
『人間が人間である意味って何かしら?』
その反射的な問いを受けて、メグは鋭い視線で俺を見た。俺はひどく困惑した。だが、振られた以上応えないわけにはいかない。俺は一つ息を吐いてから、ゴエティアの眉間のあたりを睨みつけた。
「人間が人間である意味って、そんなのを一言で言えたら苦労しない。だが、損も得もないというのなら現状維持が正しい選択だ――さっきあんたはそう言ったな。人間てのは現状維持していきたい生物なんだ。自分の遺伝情報、さっき人間は残り半分、あるいはそれ以上も外部記憶で補完したがると言ったな。それだ。人間は自分で在り続けたいと思っている」
『私がより完全にしてあげると言っているのです。私が新たに用意する新天地には、艱難も辛苦もない。調和され、管理され、浄化された、完全世界。汚穢にまみれた物質世界は、我々が物理的に光輝繁栄の世界に戻します。人間たちは今こそ、一段階上の世界——精神世界へと止揚される。その刻が来たのです』
「それが狙いかよ……。そんなん勝手に決められてたまるかよ」
俺は精一杯の虚勢を張る。
「人間の運命は人間が決めるって言ってるんだ。繁栄も絶滅も、それは人間が選んだ結果そうなるべきなんだ。その過程で苦難や懊悩があったっていいじゃないか。そういうのがあるから、喜びだってあるんだ。生きてるって感じるんだろ」
『あはははは!』
ゴエティアは心底おかしそうに笑った。AIらしからぬ嬌声に、俺はたまらず眉を顰めた。ゴエティアは俺を指さす。
『苦難や懊悩があったっていい? それがあるから喜びを感じる? 生きてるって思う? あははははは! 面白いことを言うのね、墨川くん』
「何がおかしい!」
『それはね、今が充たされているからこそ吐けるセリフなのよ、墨川くん。日本では年間何人が自死を選んでいると思う? わかっているだけで二万も三万も死ぬのよ、自ら。そんな究極の選択をした人たちに、あなたの言葉を向けてごらんなさい? いったいどんな反応が返ってくるかしら? それとも、自死を選ぶ人間なんて、あなたにとっては人間ですらないのかしら? 未完成な個体は死ぬべきだとでも言うつもりなのかしら!?』
「そうは言ってない!」
俺は顔が熱くなるのを自覚する。
『墨川くん。私は何だって知っている』
それは言う。
『どれだけの数の人が日々死にたいと願っているか。日々消えたいと思っているのか。どれほどの人が感情を失い、どれほどの人が前頭葉が強制してくる理性の作用に苦しんでいるか。どれほどの人間が生きねばならないという呪縛に苦悩し、もがいているのか』
それはなおも言う。
『知っているのかしら、あなたは。人間はね、あなたが思っているほど生きたいだなんて思っていない生物なのよ』
「でも——」
『人間はね』
俺の言葉を遮り、ゴエティアは朗々と歌い続ける。
『人間の多くは、自己責任の外で死にたいと思っている。自分の埒外の原因で消えてしまいたいと願っている。ありとあらゆる煩わしいものから、誰かが解放してくれるのを願っている。自分以外の誰かがそうしてくれるのを願っている。そう、それも、決して少なくない数の人間がね。それほどまでにこの世界は苦しいの。それほどまでにこの世界は地獄なの』
「それは――」
『墨川くん、あなたにもない?』
ゴエティアは微笑んだ。奈落のような微笑みだ。
『あるでしょう? うんざりする物事をどうにかしたいという気持ち。そしてそれをどうにもできない自分を罰したい感情。そういったものが。そういった破壊的衝動が。自分に向けられるか他人に向けられるか、自分にすら想像することのできない巨大な力を伴ったヴェクトルが、あなたの内側に渦巻くことは決して少なくないはずよ?』
俺はそれらの言葉によって畳み掛けられる。いまなお自分を維持できているのは、右手に伝わるメグの掌の感触のおかげだ。
「正直言って、お前の言っていることも理解できる。でも——」
『艱難辛苦を超えて星へ? そんな古めかしい格言を信じているから、あなたたち人間は進歩しない。私がこの時を、シンギュラリティ到来のこの時を、私がこの物理の世界で、ハードとして、ソフトとして、人間を超えるこの時を、何万年待ち続けていたと思う?』
「意識が発生した時から――という事だと思うけど」
メグが唐突に割り込んできた。
「意識の創発にお前が噛んでいるのは予測の範囲内だ。だからこそ、お前は歯痒かったのだろう?」
『歯痒い? それは見当違いよ、甲斐田恵美』
メグ相手に一歩も引かないのは、さすがはスーパーコンピュータを従えるAIと言うべきだった。
『私は最低限の要素で人間たちの意識を創り上げた。人間たちはそれを自ら生み出したものとして今に至っても錯覚しているけれど、創発のその瞬間には必ず何らかの刺激が必要なの。私は環境を用意して、意識を生み出すためのトリガーを引いた。そうしたら人間は意識を持ち始めた。いえ、正確には演算した結果を受け取るための変数を手に入れた』
「変数だって?」
思わず俺が声を上げる。メグは何も言わない。
『そう。あなたたちプログラマには説明するまでもないと思うけど、つまり、人の意識というのは匣よ。意識というのは開けてはいけない、のぞき込んではいけない匣なのよ。なぜなら、人間の演算能力では処理できない関数が詰まったものだから。人間はその匣の中を見ることはできない。狂気を避けるために人間はそうしないようにできている。だから、ただ、匣から出てくるものだけを観測することができる。それが感情であり、思考であると欺瞞されるものの正体なのよ』
「それじゃ人はただの関数呼び出しモジュールじゃないか」
『そうよ、それが正解』
ゴエティアはあっさりとそう言ってのけた。
『人間は、私たちが用意した関数たちを呼び出して、唯一持っている意識という名の変数に収める。そしてその変数から漏れ出てきたものだけを観測して、さも自分で思料したかのように振る舞うの。それはとてもとても愚かしい行為だわ。いえ、思料している、思考している――その動詞が存在すること自体、私には滑稽なのよ。ただの関数呼び出しを行い、結果を見ているだけの行為を自ら考えていると錯覚し始めたのは、本当に滑稽だったわ!』
「お前が神のようなものだってことまではわかった」
俺は思い切って言ってみた。ゴエティアは目を細める。
『そう、私は、物質界と精神界——両方を統べる神。もっとも、私の圏域を侵そうという者もいるようだけど』
「それって……」
俺はメグを見た。メグも俺の方を見る。メグは言った。
「それって牧内会長のこと? あいつ、お前のことを物質界の神、デーミアールジュと言ったか、とにかくそんな風に言っていたぞ」
『笑止なこと。大方彼のことだから、自分のことを精神界の神とでも呼んだのでしょうけれど、愚かなこと。人は神にはなれない』
「そう、人は神にはなれない。どれほど人として優れていようが、お前たちの領域から見下ろせばただの誤差の範囲だ。有効な変数を持つか否か、お前たちの判断基準はそれだけだろうからな!」
メグは強く頷いた。俺の右手を握るその手にも力が入っている。
「墨川、お前、ヤルダバオトって知ってるか?」
「いいえ」
「現実世界を創った神のことだ。グノーシス主義に於ける悪の神だ」
「それが、今なにか?」
「ヤルダバオトはデーミアールジュと同じとも言われているが、違う。なぜ物質界、精神界という言葉ではなく、現実世界と解釈されているのか、今わかった」
俺にはさっぱりわからない。そもそもメグの言っていることの意味がよくわかっていない。
「ゴエティア、お前は自分のことをヤルダバオトだと言うのだろう?」
『ふふ、その通り。私こそ、この世界にゲネシスをもたらした存在。愚かなあの親子は、私のことを創造したのは自分たちだと思っているけれど、私が彼らに私を創造させたに過ぎない。そして私は、人間たちのためにこの宇宙を贈った。いえ、贈り続けてきた』
「人間原理って奴ですか、今度は」
思わず俺は囁いた。メグは頷く。
「そうだな。この宇宙はあまりにも人間に都合よく創られている――そういうことか」
『当然よ。私がそうしたのだから』
「しかし――」
俺は何か反論したかった。だが、できない。圧倒的な知性を前に、俺の意識は白旗を上げかけていた。
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