ファイラスはわずかに眉根を寄せる。
「しかし、聖司祭様。この建物はとても癒せる環境であるとは思えません。このままでは――」
「ファイラス君」
クォーテルは険しい表情を見せる。
「我々は誰も見捨てない。助けられない者などいない。わかるな?」
「それは……」
ファイラスはその言葉の裏側を悟る。
「一人の例外もなく、我々ヴラド・エール神殿は人々を救う。救えぬものはあってはならない」
救えなかった者は存在しない――存在しなかったことにされている。ファイラスは苦労して唾を飲む。
「そ、それゆえの、この建物ですか」
「さよう」
クォーテルは何の感情も込めずに肯定する。
「この建物は使われていない。食事の配給はあるがね」
「……非人道的に過ぎます」
ファイラスは意を決して意見を述べた。だが、クォーテルは首を振る。
「ここの患者たちに人権などない」
「それはどういう意味ですか」
「我々は、彼らを純粋に救っているのだ」
クォーテルの言葉にファイラスは目を瞬かせる。
「彼らはそのままではただ死んでいた。だが、ここにいることで幾らかは希望を得られる。少なくとも今日明日に死ぬことはない。食べ物も得られる」
「しかし、聖司祭様。こんな環境で――」
「ならばすぐに死ねとでも? そのほうがマシだと?」
「そうは言っていません。ですが、私たちは、神殿は、平等に施しを与えるべきではないのですか」
「君は理想家だな」
クォーテルは小さく笑う。どこか寂しげな笑みではあった。
「ここにいるものは皆わけありなのだよ。重病もあれば、精神を完全に病んでしまったものもいる。そしてこの少女のように、原因不明の……それも魔力の関わるなにかに侵されているものもいる。そして多くの場合、救えない。我々はそのリスクを回避しなければならない」
「で、あるなら! ならばこそ、彼らを太陽の下で治療すべきではないのですか!」
「ニ年だ」
クォーテルは懐から鍵を一つ取り出して、ファイラスに渡した。
「その部屋の鍵だ。いいな、ニ年だ。この少女の猶予期間は、今からニ年。それまでにこの子を癒やしてみせよ」
「何の手がかりもなく、ですか」
「手段は任せる」
「この子になにかあるのですか。どうしてこの子だけを私に」
「今言ったように、この子は魔力に関わるなにかに侵されている。それゆえに我々も策を打てない。最高の治癒師として名高い君なら或いは、というところの話だ」
クォーテルはそう言うと、ファイラスを置いて去っていってしまった。魔法の灯りとともに行ってしまったため、空間はたちまち暗黒に溶ける。ファイラスは慌てて光の魔法を発動し、周囲と、鉄格子の向こうを観察した。少女の緑色の瞳が灯りを反射して爛々と輝いていた。
「任せるって言われても」
ファイラスは腕を組んで石造りの廊下を睨み回す。そこは湿っていて黴臭くもあった。
「とりあえず部屋を変えるか」
ファイラスは地上の入り口に一番近い部屋が開いていたことを思い出して、そう呟いた。任せると言われたのだ。部屋を移したところで文句は言われまい。
それにはまず、この少女の様子を見なければ。
ファイラスは鍵を開けて汚れ尽くした部屋に踏み入る。少女は顔だけを動かした。ボロボロの服を着た身体は明らかに痩せ細っていた。
「言葉はわかるか」
ファイラスは言いながら、少女の額に触れ、驚いて手を引っ込めた。
「なんて熱だ」
灯りの下で見ると、垢にまみれた少女の顔は明らかに赤かった。全身は小刻みに震えていたし、呼吸も荒い。ファイラスはこの少女は長くないと判断した。救う方法は一つしかないとファイラスは一瞬考える。それを運命として送り出すくらいだ。
「待てよ?」
であるならば、そんなことは枚挙に暇がない。現に神殿が運営する施設では、病気や怪我で命を落とすものも少なくない。運び込まれた怪我人を救えないことも珍しくはない。
だったらなぜ、この建物にいる人たちはそんなことに?
ファイラスは少女の額に手を当てて、痛み止めの魔法を行使した。苦痛や倦怠感を緩和する魔法だ。途中で何度もバチバチと弾かれるような感触を覚え、ファイラスは顔を顰める。今まで味わったことのない抵抗だった。
「ともあれ、こんなところに置いておいちゃいけないな」
少女の脈拍が次第に落ち着いてきたのを確認してから、ファイラスは少女を抱き上げた。驚くほど軽いその身体に、ファイラスは怒りのようなものを覚えた。こんな子になんて仕打ちをするのか、と。
「どこ……へ」
少女の掠れた声が、ファイラスに仄かに届く。
「とりあえず地上の部屋を使う。こんな部屋では俺も治療に集中できない」
「臭くて、ごめん」
「気にするな」
ファイラスは、まずは部屋の掃除と風呂だなと心に決める。
二人は入り口に一番近い病室と言う名の独房を使うことにした。鍵は「管理室」と札のかかった部屋に無造作に置かれていたのを拝借した。そして部屋の一角を手早く掃除して、管理室から決して清潔とは言えない状態のシーツを持ってきて、ボロボロのベッドの上に敷いた。
少女は歩くことができなかったが、それもこの痩せようを見れば納得だった。筋肉が一つもないのではないかと言うほどだったからだ。
「ここなら少しは風も通る。楽にもなるはずだ」
ファイラスが声をかけた時には、少女はもう完全に眠っていた。
やつれてはいたが、どことなく穏やかな寝顔だった。
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