それ以降、特にこれといった襲撃もなく、俺たちは進んだ。小さな村を三つばかり通過したのだが、人影も人の気配も感じられなかった。皆、家の中で息を潜めているのか、あるいは――。
幸いにして食料や水の余裕はまだまだあったから、俺たちは宿も取らずに村々を通過したのだった。
「もう冬が来るのに、食料の蓄えもなさそうだな」
どこを見渡しても、土地は乾き、荒れ果てていた。所々に見えるのは黄色い雑草ばかり。畑のようなものも馬車から見ることはできたが、何かが実った後のようには見えなかった。飢饉の際にはその土地の領主が蓄えを放出するのが普通だが、このカルヴィン伯爵領ではそれすら滞っているようだった。
ぱら、ぱら、と、幌に雨が落ちてくる。それを聞きつけて、タナさんが息を吐く。
「雨も久しぶりだろうに。それが氷雨とは、また、死者に鞭打つような行為さね」
「この雨は何を意味するんだろうな」
「なにも。せいぜい、涸れ井戸を湿らせるだけさ」
タナさんは吐き捨て、首を振る。
「作物は実らず、疫病に怯え、絶望的な気分になった所で魔女狩り。飢えと病魔と疑心暗鬼の三点セット。それは負のサイクルを作り出すのさ。エリザをどうこうしたって、これはしばらくは続くだろうねぇ」
「……エリザ、何企んどるんやろね。戦争起こしたりするかもしれへんのやろ?」
「そうだねぇ」
「そんだけ人の命を奪うようなことして、何したいんねやろ?」
リヴィの疑問はもっともだ。
「ドミニアは人の進化がどうとか言ってたなぁ」
「人の進化……そないなことのために、人を殺しまくるんか」
「選別――」
タナさんが短く言った。俺たちの視線がタナさんに集まる。
「命の選別かもしれないねぇ」
「命の選別……?」
俺とリヴィの声が重なる。タナさんは「うん」と頷く。
「エリザやドミニアの言う進化の、最初の段階くらいはもう終わりかけているのかもしれないねぇ」
「たくさん死んでる――」
ウェラが前触れもなく呟く。
「人がたくさん死んでる」
「どうした……?」
「精霊さんが、おかしくなってる」
狂った精霊――あの黒い姿が意識をよぎる。ウェラは震えながら頷く。
「精霊さんが人を殺してる」
「精霊が……」
タナさんが舌打ちしそうな表情を見せている。
「精霊か……確かにエリザなら、精霊を狂わせることなんて造作もないさね」
「でも、止められないよ」
ウェラが泣きそうな顔をしている。
「パパ、ママ! 狂った精霊さんがみんな助けを求めてる。言葉はわからないけど、わかる。みんな泣いてる……」
「ウェラ」
はっと気が付いたように、タナさんが硬い声を発する。
「その声に耳を貸すんじゃないよ」
「えっ……?」
「それは、精霊の声なんかじゃない」
タナさんの断定に、ウェラは目を丸くする。
「どうして? でも」
「アタシたちは今までに二回、狂った精霊に遭遇してる。その時はウェラにも何言ってるかわからなかったよね?」
「う、うん」
「なんで今になってそれがわかるんだい。それに、どうして世界中の精霊の声が突然聞こえるようになった?」
「それは――えっと……」
「しかもどうして狂った精霊だけがあんたに助けを求める?」
矢継ぎ早のタナさんの言葉に、ウェラは小さくなっていく。
「いいかい、ウェラ。アタシは一応これでも、アタシがなんと言おうが、本質は魔女だ。魔女は万能感を知っている。だから言えるのさ。一方的な情報だけが入ってくるなんて、ありえないってことをね。あんたの友達の火の精霊はなんて言っている? 水の精霊は? 風は? 地は?」
「……聞こえない」
「そんなことが今までにあったかい?」
「ない」
明快な回答。タナさんはゆっくり頷いた。
「いよいよ、エリザの射程距離に入ってきたっていうことさね。いいかい、ウェラ。その声は自分の内なる悪魔の囁きみたいなもの。今はとにかく、よくないものに耳を貸しちゃいけない」
「わ、わかった」
ウェラは頷く。リヴィがウェラの肩を抱きながら鋭い視線を飛ばしてくる。
「エリザには、ウチらのこと見えてるんやろな」
「とっくに、だろうな」
「ウチは負けへんで」
「頼りにしてる」
「まかしとき」
リヴィは頷いた。だが、そこにいつもの笑顔はない。それはもはや戦士の顔だった。そのリヴィを押しのけるようにして、ウェラが俺たちに近付いてきた。
「ウェラも、もうだいじょうぶ」
「良い子だ」
俺はその緑がかった金髪を撫でる。ウェラはニッと笑う。
「エリザにお仕置きしたら、今度はパパとママのお世話をしなきゃならないからね!」
「お世話……」
思わず真顔になる俺。タナさんが「おやおや」と笑っている。
「介護の話はまだしばらく先の話だよ、ウェラ」
「かいご?」
ウェラが首を傾げる。そこにリヴィが口を挟む。
「せやけど、パパの世話はママがするんやろ?」
「世話とか――」
俺は真顔のまま言い返そうとしたが、「世話だってさ」というタナさんの声に何も言えなくなる。それでウェラはパッと顔を輝かせた。――いや、ちょっと待ってもらっていいかな?
「そっか! パパは腰が痛いもんね。うん、そうだ。腰痛剣士だ」
「ひでぇ。ひどい称号だぞ、それ」
言いながら、思わず笑ってしまう。剣を抜けない剣士。魔女と悪魔の子――そもそも人間ですらない。俺という存在はいったい何なんだろうなと改めて思う。
「腰痛剣士、ええやん。ほなら、ウェラ、ママはなんやろか?」
「えーっとねぇ……うーん。そうだ! 肩凝り魔女!」
「魔女は引退したよ、アタシは」
「でも……ママは魔女より強いよ?」
ウェラは真剣そのものの表情でタナさんを見ている。タナさんも思案顔でウェラを見ている。少し緊張感が漂っているように感じる。十かそのくらい数えた頃になって、タナさんは肩を竦めた。
「まぁ、いいさね。しっかし、腰痛剣士と肩凝り魔女、か。頼りになるのは娘たちだけってのがなんか良いね」
「むぐ」
タナさんの舌鋒が俺に突き刺さる。
そうこうしている内に俺の腰が悲鳴を上げ始めた。不本意ながら、俺の腰痛が我慢ならなくなる寸前が、野営準備開始の頃合いとなっている。そしてたいてい、俺の異変にはタナさんが最初に気付く。そしてなぜか、その頃になると決まってタガート隊長が馬車の後ろにつけている。
「タガート隊長、時間っぽいよ」
「了解しました」
タナさんの言葉を受けて、馬車が止まる。俺はリヴィに支えられてトボトボと馬車から降り、後は地面に転がされている。野営準備が終わったら灸、マッサージ、そして湿布の三点セットが待っている。
「明日の夕刻前にはカルヴィン伯爵の城に到着します」
タガート隊長が、転がっている俺の前にかがみ込みながら言った。しかしこの男、全身甲冑を着ていながら、本当に音を立てない。どういう技なのか知りたい気もしたが、そもそも俺は鎧なんて一生着ることはできないだろうということで、その疑問は飲み下した。
「しかし、ウェラもリヴィも頼りになりますなぁ」
「リヴィは王国騎士に誘ってやってくれよ」
「試験については話したんですよ、ついさっき」
「で?」
「あっさりフラれましたよ。ウチは旅に出たいんやって」
すごいな、リヴィ。王国騎士から誘われてそれを蹴るとか。まぁ、リヴィらしいか。そんな事を思っていると、タガート隊長は立ち上がりながらボソリと言った。
「私も子どもに会いたいですなぁ」
「生まれたばっかりだっけ?」
「ええ。実は生まれてから三日しか一緒に過ごせてないんですよ」
「そうなのか……」
「ええ。まぁ、仕事柄仕方ないところもありますし。私もそろそろ実働部隊から身を引く予定ですから、きっといい感じに落ち着くでしょう」
「大隊長に?」
「無事に帰れれば、ですが」
そう言ってまた白い歯を見せて笑う。タガート隊長の向こう側では焚き火が大きな炎を上げていた。ウェラが力加減を誤ったらしい。王国騎士たちは最初こそ「うわっ」とか声を上げていたが、すぐに我に返って、しょげるウェラを励ましていた。子守もできるとか、すごいな王国騎士。
「訊いていいかい、タガート隊長」
「なんなりと」
「これから向かう先は地獄だ。できれば俺たちだけで先に――」
「ダメです」
俺の言葉を拒絶するタガート隊長。
「王国騎士を侮られては困りますなぁ、エリさん。なに、心配ありません、我々は誰一人死にませんから。我々には皆、守るべきものがある。死んでられるほど暇じゃないですからね」
「……やり遂げても、何も得られないんだぞ?」
「そもそも、名誉は他人から与えられるものじゃありませんよ」
タガート隊長は首を振る。
「自分たちの矜持に従った行動ができたか否か。自分自身が自分を誇りに思うか否か。我々の価値判断はそこにしかありません。そして我々六名は、今回の任務を全て承知した上で、今でも行動を共にしている。たとえあなたやタナさんが帰れと言っても、我々は帰りませんよ」
「……わかった」
俺は転がったままそう言った。イマイチ格好がつかないが仕方がない。
「男同士の話は終わったかい?」
タナさんとウェラが、俺のところへやってくる。ようやくのお灸タイムだ。タガート隊長は「良い夜ですな」と笑いながら、焚き火の方へ歩いていった。相変わらず音もなく。
「ああ……空を見てごらん、エリさん。地獄の入口みたいじゃないか」
タナさんは俺のシャツをまくりあげながら苦笑する。空には暗雲が満ちていて、星も月もあったもんじゃなかった。
「ウェラ、火を。今度は火加減間違えないでおくれよ」
「うん、今度はだいじょうぶ……と、思う」
おいおい――途轍もない不安に襲われる俺である。灸に着火していく度に、俺は緊張した。それは見ていて分かるほどのものだったらしく、タナさんが豪快に笑っていた。ちくしょう、他人事だと思って。
「俺の背中は無事か?」
「残念ながらキレイなもんさ」
タナさんはそう言っているが、焚き火の逆光で、どんな表情をしているかはわからない。その隣にはウェラもいて、なんだかもじもじしていた。
「どうした?」
俺が訊くと、ウェラは意を決したように口を開いた。
「あのね……。ハーフエルフって、何歳まで生きるの?」
「そうさねぇ」
タナさんは少し考える。
「人間の三倍とも五倍とも言われているねぇ。正確なところはわからないらしいけど」
「……そっかぁ」
ウェラは俯いている。その表情はすっかり影になっていて見えない。ウェラはぽそりと言った。
「みんな、先に死んじゃうんだね」
「そういうふうに出来ているのさ」
タナさんが応えた。ウェラは俯いたまま言う。
「どうしてウェラは人間じゃないんだろう」
その言葉を受けて、俺は訊く。
「それを嘆く意味はあるのかい、ウェラ」
「意味?」
「そう。ウェラはエルフと人間の間に生まれた。俺が魔女と悪魔の間にできた子であるようにね。だけど、それを嘆いた所で、何が変わるわけでもないよ」
「でも……寂しい」
みんなウェラより先に死ぬ。それは必然だ。それを思って寂寞の思いに駆られるのも分かる。だが、なんと言えばいいかわからない。
「ウェラ」
タナさんがウェラの肩に手を置いたのが見えた。
「パパとママは好きかい?」
「うん、大好き」
「だったらね、思い出をたくさん作ろう。寂しさに負けないくらいたくさんね」
タナさんの静かな言葉。柔らかくて温かい声だった。
「残念だけど、パパもママも、どんなにがんばったってウェラより先に死ぬさ。でも、それが正しいのさ。それまでの間にウェラだって成長するだろう? その時までには、ウェラは一人で生きていけるようになっているはずさ。思い出がウェラを助けてくれるようになるのさ。だから、エリザの奴をやっつけたらさ、みんなでたくさん思い出を作ろう」
「でも、そのね……。思い出って、作れば作るほど……寂しくならない?」
「思い出はね……」
タナさんは歌うように言った。
「不味い薬みたいなものさ。思い出したら苦くなる。でもね、飲み下せば苦さなんてすぐに忘れられる。そして心の調子も良くなるものなんだよ。だからね、思い出っていうのはね、寂しさという病気を癒すための薬なのさ」
「でもママ、ウェラは寂しくなりたくないよ!」
「寂しさはね、強さなのさ」
諭すように、ゆっくりと。金色の炎を背負って、タナさんは囁く。
「寂しさを知っている人ほど、強くなれるんだ。それはかりそめの強さに過ぎないかもしれない。けどね、苦い薬を飲み下すための勇気の足しにはなるよ」
「パパとママみたいに、強くなる?」
「なれるよ」
タナさんはゆっくりと肯定する。
「時間はたっぷりあるだろう? だからゆっくりとね」
アタシたちみたいに大怪我する必要はないさ、と、タナさんは付け足した。
ウェラがリヴィのところへ行くのを見届けてから、タナさんが俺のすぐ側に片膝をついた。
「さて、エリさん。マッサージの時間だよ」
「なぁ……タナさん」
「うん?」
俺の背中を拭きながら、タナさんが応じてくる。
「月が綺麗だな」
「月?」
タナさんはそう言うと、しばらく間を置いてから笑い出した。
「エリさん」
「ん?」
「あんたの月は、どんな月だい?」
「そりゃ、満月さ」
「奇遇だね」
タナさんはクックックと喉で笑う。
「アタシのも、いつでも満月さ」
まったく、敵わないな――俺は心の中で頭を掻いた。
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