02-004「意志を産むマトリクス」

Aki.2093・本文

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 アサクラは状況を確認した後、ゆっくりと眼鏡を外した。輝きのないその瞳は、まるでアヴァンダの虚ろな眼窩がんかのようだった。

「さて、官房長官」
『キリヤでいい』

 アサクラの脳内に直接響いてくるその声は、少し苛立っているようだった。

『民間人の死者行方不明者だけでざっと四十五万。負傷者数はもう一桁積み増しだ。もう少し何とかならなかったか』
「最善は尽くした」
『派遣したのは機械化人間ワイスドール二体。それで最善だと? それがお前の組織した特殊部隊の実力か、アサクラ』
「特殊部隊ね」

 アサクラは眼光鋭くモニタを見る。かけなおされた眼鏡のレンズがギラリと輝く。

「俺は政府の飼い犬にはならん。そもそもが――」
『知っている。長谷岡龍姫たつき博士の研究データの収集と再生。それのみを目的として人材を集めて組織を作った』
「そうだ」

 アサクラは頷く。モニタには今まさに収集され、再構築されていっている長谷岡博士のデータが表示されていた。データそれ自体は暗号化されていて、また更にここから解析作業をしなければならないのだが。二十一世紀初頭には、解析には何億年という月日が必要とされていた暗号化方法ではあるが、大戦を生き延びた数基の量子コンピュータを制圧しているアサクラにとってみれば、それはさしたる問題ではなかった。

『そして、アサクラ。長谷岡文書とも呼ぶべきそれが完全に解明された時……お前は何をしでかすつもりだ。そして今の段階で、お前は何を知っている』
「手札を明かすつもりはない」

 アサクラは冷然と切って捨てる。キリヤの溜息がアサクラの脳内に直接響き、アサクラはわずかに眉根を寄せた。

「キリヤ。GSLが三体……現時点で残存二体というのは正しいのだろうな」
『私の口からは何とも言えぬし、言うに足るレベルの確証もない』
「なるほど」

 アサクラは腕を組んで高い天井を見上げる。広大な室内を照らすには頼りない明かりが、申し訳程度についている。

「俺たちがGSLだと聞かされていたものは、GSLの戦闘端末ボーパルマリオネットに過ぎなかったわけだ。だからお前たち政府は信用ならない。ましてキリヤ、お前が官房長官なんぞに居座れるような政府はな」
『それは心外。老害連中よりも、私が数百歩レベルで優れていただけの話。大戦を生き延びた国民たちは、実に正しい選択をしたと思っているよ』
「お前が次期内閣総理大臣か」
『このままいけば、そうなるな。私にとっては、カヤベももはやかいらいに過ぎん。私が戦前の遺物どもを一掃するためのな』
「相変わらずだな」
『その程度の仕事はさせてやるということだ。それに、私は変わらんさ』

 キリヤは「ははは」と声を立てる。アサクラは目を閉じてそれをやり過ごし、眼鏡のブリッジに手をやった。

「利害が一致する限りは、俺たち――レヴェレイタはお前に従うだろう。だが、忠誠を誓うわけではない。勘違いするなよ、キリヤ」
『昔からお前はそういう男だ。心得ているさ』

 そう言って余韻のひとつも残さずに通信が切れた。それと同時に、エレベータの扉が開いてヒキが入ってきた。

「アサクラ、戻ったぞ」
「早かったな。機械化人間ワイスドールたちは?」
「アヤコに任せてきた」

 アヤコというのは、機械化人間ワイスドール開発者である八木博士の研究室に所属していた人物で、十歳で研究室入りした日本国に於ける超エリートの一人である。大戦中に活躍した研究者の一人でもありながら、現在まだ二十五歳という若さである。今はヒキの下でナノマシン研究を行っている。

「で、だ。あのバケモン、アヴァンダだっけ。ありゃなんだい。結末はえらくあっけなかったが」
「ネットワークの世界……論理ロジカルレイヤに主体を置く幻影ゴーストのようなものだ」
「ゴースト?」
「そう。論理層と物理フィジカルレイヤは表裏だ」
「いやいや、ネットの世界とリアルな世界を混同したらダメだろ」

 ヒキの言葉に、アサクラは腕と足を組んだ。

「物理層と論理層はナノマシンという媒体によって相補的に作用し得る」
「論理層経由でナノマシンは操作できるっていうか、そうやってしか操作できないのはアヤコから聞いている。だが、論理層に意志はないだろ。あくまで物理層の、俺たち人間からの指示で動かしているに過ぎない」
「はは」

 アサクラにしては珍しく、声を上げて笑う。

「論理層に意志がない?」
「あるわけないだろ、B級映画じゃあるまいし。あれはただの情報ネットワークの集合体に過ぎない」
「ならば人間の脳にも意志は宿らないことになるだろう」
「いや、人間は思考している」
「誰がそれを証明する? 神は賽を振らないのだぞ、ヒキ」
「それを否定したら、俺とお前のこのダイアログすら思考を経てないことになる」
「ならば思考しているのだろう?」
「そうなるな」

 畳みかけるようなアサクラの応酬に、ヒキは腕を組んだ。アサクラは右の口角を上げて、さらに追い打ちをかける。

「ならば論理層に意志があるとも言えるではないか」
「論理層は人の作った情報ネットワークだ」

 ヒキはうなりつつも反論する。

「だから、意志なんてないだろ、アサクラ」
「人が作ったから意志がないと言うのであれば、機械化人間ワイスドールはどうなる」
「あれは脳は人間だろ」
「全部ではない。いやむしろ、生体脳はごくわずかだ。電脳に転写された情報は多いが、そのほとんどすべては人工物だ。だが、アキやミキに思考や意志がないと言うのは暴論ではないか?」

 それは、そうかもしれない。ヒキは顎に手をやって考える。

「でも、だからと言って、例えばIn3ネットが意志を持っているのだと言うのも、そうだな、あまりに暴論な気がする」
「なぜだ。In3ネット、いや、元来のインターネットと呼ばれる類の情報網は、もとより人間の神経ニューラルネットワークを模して造られたもの。であるならば、情報が一定の値――閾値いきちを超えた時、それそのものが意志を持ったとしても何ら不思議ではないではないか」
「その意志はどこからくる」
「意志がどこからくるか、だと?」

 アサクラは喉の奥でクックックと笑った。

「人間の意志はどこからくる……お前の問いはそれに等しい」

 その指摘に、ヒキは両手を挙げた。

「参った参った。もうやめよう。あんたと話すと頭がこんがらかる」
「だが、吹っ掛けてきたのはお前だ」

 アサクラは「聞く気があるのか?」と改めて問うた。ヒキは「そうだなぁ」と言いながら主人のいないデスクチェアを一つ引っ張り出してきて、腰を下ろした。アサクラとの距離は直線距離にしてちょうど三メートル。対話するには遠くもなく近くもない距離だ。

「つまりだ。ネットワークにある意志が、ナノマシンを従えて現実世界に侵攻を開始したとか、そういう理解で良いのかい、アサクラ」
「なんだ、理解しているではないか」

 アサクラは大袈裟に感心してみせる。ヒキは肩を竦めた。

「言ってるのがアサクラ、あんたじゃなかったら、ただの偏執狂モノマニアックだぞ……って、ちょっと待てよ?」

 ヒキはしばし黙り込む。アサクラは頬杖をついて、次の言葉を待つ。

「アキ達が倒したあいつ、アヴァンダ。あれもネットが引き起こしたナノマシンの暴走だっていうのか?」
「さっきお前自身がそう言ったじゃないか」
「だとしたら、あいつら無限に湧いてくるってことになるんじゃ?」
「いや」

 アサクラは明確に否定した。ヒキはその根拠を問う。

「長谷岡文書によれば、GSLは意識体だ。物理的身体を持つタイプもいるにはいるが、それもやはりIn3ネットを基盤マトリクスとする論理主体によって統御コントロールされている」
「なるほど、そこまで長谷岡文書のデータ解析が進んだってことか」
「そういうことだ」

 アサクラは満足げに頷いた。だがその両目に光はない。

「だから、In3にある論理主体を意味消失ロストさせることができれば、そのGSLは二度と出現できなくなる」
「でもよ、アサクラ。あんたの論理だと、GSLはやっぱり無限に湧いてくるってことになるぜ。意志が創発エマージェンスされるとか、そういう次元の話をしてるんだろう?」
「ほう、少しIQが上がったか?」
「もとより165あるけどな」
「電脳化が進んだ現今に於いて、IQなどアテにならんよ」
「まぁね」

 ヒキは関心なさそうな乾いた様子で頷いた。

「現在日本国政府が確認できている国内のGSLは残り二体」
「待ってくれよ、アサクラ。In3ネットに奴らの本体があるっていうなら、国内だの国外だの、関係ないじゃないか」
「お前はいったい俺の話のどこらへんを聞いていたのだ」
「いやいや、ネットに創発するんだろ、GSLは。だとしたら、世界を取り巻くネットのあらゆる所にGSLは出現し得るじゃないか。それこそネットの存在する所……つまり、人間のいる場所ならどこにでも」
「ふむ」

 アサクラは神妙な面持ちで頷いた。

「そうか、確かにこれは俺とカタギリまでしか知らない情報ではあったな」
「つまり?」
環地球軍事衛星群グラディウス・リング

 アサクラはまずその熟語を口にした。ヒキは「ん?」と眉根を寄せる。

「In3ネットワークは現在アレによって監視運用されている」

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