> Key k = new key()
> pass.suppose(key)
北海道といえば、すなわち、魔境である。今となってはなんぴとたりとも立ち入ることの叶わないと言われるほどに汚染し尽くされた大地だ。そしてGSLの起源の地でもある。長谷岡龍姫博士が物理的拠点としていたとも言われている広大な領域であるが、現時点ではIn3ネットの支配からさえも解き放たれており、また、環地球軍事衛星群を経由しての情報要求にさえ応答がない状態なのだという。
カタギリの力を以てしても見通せない闇が、そこにはあった。
「どうするの? アヴァンダとかベルフォメト級のヤツの相手なんて、一体が限界だよ」
不安げなアキの言葉に、ミキも頷いている。
「それが確認されてるだけで八体? おまけに日本国のももう一匹いるんだろ? 全部で九体とか、本気でどうしたらいいかわからんね」
「到着までの時間差は?」
ヒキは冷静にアサクラを見た。アサクラはスクリーンに情報を展開しつつ、絶望的なことを口にする。
「二時間程度の誤差はあるが、ほぼ同時刻に北海道に上陸する。猶予は一週間」
「猶予って言われても、ねぇ?」
アキはミキと頷き合う。ミキは肩を竦めて首を振った。
「何を準備したら良いのやら」
「だねぇ」
腕を組んで自分の爪先を見るアキ。
「カタギリさん」
『なんだ、アキ』
見上げたアキと、見下ろすカタギリの視線が交錯する。
「カタギリさんはこの状況、あたしたちに何かできると考えている?」
『長谷岡博士を信じるならば、な』
「とすると、博士はあたしたちを招いているとか、そういう具合?」
『……かもしれん』
カタギリにしては歯切れが悪いなと、アキたちは感じた。アサクラは腕を組んで沈黙を守り、ヒキは唸っている。アキとミキは再び顔を見合わせ、首を振る。カタギリは「そうだ」と前置きしてから言った。
『もう一つ重大な事案がある』
「各国が進撃してきたということだろう」
アサクラが端的に言った。スクリーンの中のカタギリが首肯した。
「GSLが自国を脅かさないと知るや否や、か」
「ちょい待ち、アサクラ」
ミキが右手を振った。
「それまで各国で暴れていたGSLは、一体何を目的にしていたってんだい?」
「カタギリ、何かつかめているか?」
『今のところ百パーセントの確証はないが。GSLはIn3ネットの主要中継局を破壊、あるいは機能停止、あるいは強制遮断する方向で動いていたと考えるのが無難だ』
「主要中継局を? それって、日本国も?」
『そうだ』
カタギリは冷静に肯定する。
『最初のは関東一円を落とした。次のは兵庫から東北までのブロードキャストラインをダウンさせた。そして今、ご丁寧にも九州、四国、中国、近畿と徐々にIn3が汚染され始めている。先ほど桐矢に通告はしたが、ベルフォメトによる強制遮断から回復しきっていない現状、これで日本国のネットワークはほぼ全域に渡って脆弱化することが決定した』
「その間隙をついて何かが起きる?」
アキはカタギリを見上げる。瞬きをしないその瞳は、しかしわずかに潤んでいる。
『ネットを汚染する目的は一つ。新たなるプロトコルで上書きすることにある』
「新たなるプロトコル……? Agnや黄金の剣と匹敵するような?」
『その通りだ』
カタギリは幾分満足そうにそう評価した。
『深淵なるもの――ジークフリート』
「ジークフリート?」
『すべてを覆い尽くす闇だ』
「なんでカタギリさんがそれをそうだとわかってるの?」
『論理の帰結だ』
カタギリは冷たい声でそう言い、「アサクラ」とバトンを渡す。
アサクラは椅子の座面を半回転させて、アキたちに向き直る。足を組み、肘掛けに肘を乗せ、指を組む。眼鏡のレンズの反射に飲まれて、その表情はよく見えない。
「GSLの戦闘端末どもとの戦闘からずっと、奴らの局所ネットの汚染について、カタギリと俺とで分析を続けていた。そして先日のベルフォメトとの戦闘データをお前の電脳から得たことにより、それがようやく判然とした」
「あたしのデータ……」
「そうだ。論理層での衝突情報を抜き出させてもらった。その結果得られたのが、奴らのナノマシン制御の母体となっているプロトコルだ」
「それがジークフリートってやつ?」
「そうだ」
アサクラは再度肯定する。いつの間にか、カタギリのアバターはスクリーンから姿を消していた。
「ジークフリートは、全てのシステムを食らいつくすウィルスのようなもので、確かにプロトコルとしての構造はウィルスのそれによく似ている。だが、それは総体として一つの意志を持つであろうことも、カタギリのシミュレーションでわかっている」
「総体としての意志? それって、ネットは無数の意志を持つというのと似てる?」
「似てると言うより、まったく同質のものだな」
アサクラはそう言うと、スクリーンに日本地図を映し出した。黒地に緑の海岸線が引かれている。関東一円、近畿から東北、そして九州から四国・中国と、ブツブツとした紫の円が描かれていた。In3ネットが脆弱化している地域、ということだろう。紙が風化するように、日本国土がぼろぼろになっていく――アキにはそんなふうに見えた。
「じゃぁ、アタシたちにいったいどうしろって言うんだい。迂遠なのは嫌いだよ、アタシ」
ミキがイライラを隠そうともせずに言った。だがアサクラは表情を変えない。
「GSLもお前たちも、そして環地球軍事衛星群も、Agnという至高のプロトコルも、その全てに長谷岡博士が絡んでいる。これが意味するところは一つだ」
「ひとつ……?」
「神に賽を振らせる」
「はぁ?」
アキ、ミキ、そしてヒキの声が重なる。アサクラは眼鏡のブリッジを押し上げる。
「先の大戦から始まるこの一連の事案はな、全て長谷岡龍姫博士のエゴによる。八木博士もまた然りだが」
「神に賽を振らせるってのはどういう意味だい」
「お前たちの産みの親はな、神に至ってしまったんだ」
「何を妄言を」
ミキはカカトで床を弾いた。
「全ては環地球軍事衛星群の深層にあるのだろうが、現時点で判明しているのはここまでだ」
「だからアサクラ、それじゃ――」
「わかった気がする」
食ってかかろうとしたミキを抑え、アキが口を開いた。
「長谷岡博士は、未来を択ばせるつもりだ」
――なれば択ぶがよい。我は双頭の蛇。未来を創るも壊すも、我が能力の内なり。
ベルフォメトとの論理戦闘で出現した双頭の蛇、白髪のアキ。
「GSLは長谷岡博士のライブラリ……」
「だろうな」
意外そうな表情を見せて、アサクラは肯く。アキは恐る恐ると言った口調で訊く。
「つまり、GSL自体が長谷岡博士のメッセージ?」
「おそらくは、お前に向けたものだろう」
そうか。
アキは右手で髪の毛を掻きまわす。眉間に縦皺が寄っている。
「ミキ、理解できる?」
「なんとなくな」
ミキはアキから局所ネット経由で情報を受け取りながら、険しい表情を浮かべていた。二人は今、情報的には全く同期している状態にある。同時に別の視野から同一の情報を観測することで、ノイズを廃した立体的な分析が可能になる。
「だったら……あたし、そいつに会ってくる。深淵なるものとかいう奴に」
「会ってどうする?」
「あのさ、ミキ。まずは会わないとどうにもならなくない?」
「まぁな」
ミキは「ふむ」と自分を納得させようと目を閉じる。
「だが――」
ミキが目を開け、そう言いかけた途端、メインスクリーンがノイズにまみれた。
「アサクラさん、画面が」
「ん……」
アサクラはスクリーンに向き直ると、おもむろに立ち上がった。
「エメレンティアナか」
「しぶといな」
ヒキが思わず口に出す。
「何の用だい、偽物の聖女さん」
『私はもはやこの世界に存在していないでしょう。今、あなたたちに話しかけているのは、私の記憶です。主にそこにいる機械化人間の中にある情報から再生されている、陽炎のようなもの』
「前置きはどうでもいいんだけど」
アキは腕を組み、剣呑な目でその美しいアバターを見上げた。
「何の用?」
『彼らのネットワークへアクセスするための鍵を』
「何であなたが持ってるの、そんなものを」
『私は、ある意味では彼らGSLと同列の存在だからよ』
そうだった――アキは思い出す。エメレンティアナは、ほとんどGSLと化していたのだ。ナノマシンの云々という点以外に於いて。
『ゆえに私もまた、Agnの模倣体を持つものとして、長谷岡博士の意を汲んだ存在と言えます。長谷岡博士は一つ、私の中にのみ――すなわち、Agnの模倣体の中に、鍵を作り置いた。それがコード、ティルヴィング』
「うっ……!?」
スクリーン一面に表示されたコードを見た瞬間、アキは弾かれたようによろめいた。寸での所でミキが支えたからよかったものの、さもなくば床に後頭部を強打しているところだった。
「視覚からプログラムを送り込んだか」
アサクラが唇を歪める。ミキは「アタシは何ともなかったけど」と不信感を露にしながら応じる。
「おそらくAgnプロトコルを経由しなければただの文字情報なのだろう。アキだけはそれを実装しているから、即座にコードとして展開されたということだ」
「でもファイアウォールも機能しなかったけど」
頭を振りながらアキが言う。その声には明らかに棘があった。エメレンティアナは超然たる美貌でアキを見下ろしながら、朗々と言った。
『私が今あなたに送ったコードは、そもそもあなたが持つべきもの。異物として認識されるものではないのですから、防壁が機能するはずがありません。そして、それが長谷岡博士の意志でもあるということの証左です』
「うー……なんか、すごく釈然としないうえに、ものすごい恩着せがましい感じがしてイヤなんだけどさ。つまりこのなんだっけ、ティルヴィング? こいつで奴ら、GSLのネットワークにアクセスできるようになるっていうわけ?」
『そうです』
エメレンティアナは微笑みながら肯いた。その表情に、アキはますます頬を膨らませる。
「でもこれ、罠じゃん? 普通に考えて。だって、今までは奴らがこっちの領域に入ってきて暴れていたわけだけど、この鍵を持っていけってことは、今度はこっちが虎の穴に入れって言われてるってことだよね? なんでそんな不利を承知なことをしなきゃいけないのさ」
『だと言うのならば、使わなければ良いだけの話ではありませんか、アキ。これはあなたにとっては諸刃の剣。私もそれは承知しています。しかし、最後にあなたを救うのは、この鍵なのかもしれませんよ』
それはそうかもしれないけど。
アキは右眉を跳ね上げながらエメレンティアナを睨み、そしてミキを見遣る。
「なんにしても」
ミキはアキの肩を小突いた。
「アタシはアキを援けるだけさ」
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