丘の上の霧は、まだそれでも少しは薄かった。しかしその麓はすっかり白く覆われていて、転がっているはずの夥しい数の死体も全く見えなくなっていた。
「それにしてもディケンズ辺境伯ともあろう方が、いきなり独立宣言なんて」
ケーナは釈然としない様子でファイラスに声をかける。ファイラスは馬車を中心にして円形の陣を組む。何が起きるかわからないからだ。敵の兵士がまだ近くに留まっていないとも限らないし、新たに出現しないとも限らない。
「ファイラス様はどう思います? ディケンズ辺境伯が独立したところで、結局アイレスやメレニに利用されるだけじゃないですか」
「それはそうだろうな」
ファイラスは馬を降りる。ケーナもそれに倣う。
「だが、ディケンズの国は存続するだろう――形式上は。その方がアイレスにもメレニにも都合が良い」
「だったら、ディケンズ辺境伯は何を求めてそんなことを?」
「さぁな」
ファイラスは首を振る。
「だが、今や全土で武装蜂起が起きている有様だ。いくらディケンズ辺境伯が有力者だと言っても、単独でこんな、全土で同時多発的に反乱を起こせるような政治力があるとは思えない」
「ですねぇ」
ケーナは馬にくくりつけてあった水筒を取って口をつける。
「それはそうとして、なんか寒いですね」
「まだ秋には早いが、確かに寒いな」
ファイラスは空を見る。湿った雲がどんよりと空を覆っている。まもなく夕刻に差し掛かる。
「こんなところで野営というのは気が進まないが」
「この霧の中を行軍というのも難しいですね」
ファイラスたちはヴラド・エールの聖神殿より派遣された、いわばエリートだったが、それでもこれだけの惨状を見せつけられて士気を保てるほどの実戦経験はなかった。まして今や埋葬してやることもできない。聖職者たる彼らにとって、それは何よりの苦痛でもあった。
「それにしたって、国家騎士団のいくらかでもつけてくれたって良いのに」
不満を口にするケーナに、ファイラスは苦笑を見せる。
「あくまでこれは、ヴラド・エール聖神殿の自発的援助だからな。本隊と合流するまで、国の助力は得られないさ」
「神殿も、もっと器用にやれないもんですかねぇ」
不満たらたらのケーナである。ファイラスもその言葉には半ば同意だったが、口には出さなかった。彼には彼の立場がある。無表情になったファイラスを見て、ケーナは大袈裟に天を仰ぎ見た。
「中枢って、ファイラス様みたいな人ばっかりなんですかね?」
「どういう意味だ」
「カタブツがずらーり」
「……君は本当に遠慮がないな」
「ファイラス様と出会ってからずっとこうですよ?」
「違いない」
ファイラスは観念して頭を振った。ケーナは悪童のような笑みを見せる。
「それともおしとやかな女の子がお好みで――」
その時不意に、ケーナは目を刃のように細めた。右手が剣の柄にかけられる。ファイラスもほとんど同時に抜剣体勢に入る――まだ抜かない。
「総員、戦闘態勢。馬車を死守しろ」
「この霧です。同士討ちに注意!」
ファイラスに続いて、ケーナが声を張った。霧がますます濃く、深くなっていく。丘の麓から、じりじりと。
「ケーナ、離れるなよ」
「ファイラス様こそ、私から離れないでくださいね」
「ああ。守り易いところにいてくれ」
「はぁい」
ケーナからの間延びした応答を確認してから、ファイラスはゆっくりと剣を抜いた。その刃は仄白く発光していた。
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