DC-08-04:癒やしの手

治癒師と魔剣・本文

 それから夕暮れ時までかけて、ファイラスは取り憑かれたかのように掃除をした。この部屋は長らく使われていなかったが、それでも酷い汚れだった。ベッドの下や部屋の隅の埃の中には、鼠や虫や何かわからない動物の腐り果てた死骸さえ落ちていた。

「修行のおかげだな」

 ファイラスはそれらを見ても顔色ひとつ変えずに処理していく。

「あとは箱にぶちこんで捨てれば完了」

 ファイラスは腰を伸ばして額を拭う。全身汗だくで、今すぐでも一風呂浴びたい気分だった。

「風呂といえば」

 そこでファイラスは少女が目を覚ましているのに気が付く。

「君も身体を拭くくらいはしたほうがいいな」

 ファイラスは少し思案する。建物を出てすぐのところに井戸があったはずだ。

「そんなことより、お腹すいた」

 少女は横になったまま呟いた。

「お腹すいたとか、久しぶりに思った」
「そうか。食事は毎日届くのか?」
「毎日じゃ、ない。届く日も、届かない日も、ある」
「ひどいな」

 一日一度の食事すらないとは。そしてこの不衛生な環境。死ねと言っているようなものじゃないか。

「君はどのくらいここに?」
「わかんない。でも一年とか、ニ年とか、じゃ、ないよ。もっと」
「そんなに!?」

 ファイラスは驚く。少女はごろりと横を向く。砕けてしまいそうなほどに華奢な肩が小さく震えている。まだ熱があるのだ。ファイラスはその額に手を当てて、少しだけ痛みを取る。

「不思議」
「ん?」
「どうして、触れる、と、痛みが、消える、の?」
「俺は治癒師だからな」
「ちゆし?」
「癒やす力を持っている人間だということ」
「すごいね」

 少女は少し苦しげな声を出す。

「喋ったの、ひさしぶり、で、ちょっと疲れた」

 その時、建物の外に馬車か何かがやってきた。馬の声がする。明り取りを見上げると、夕方の頃合いらしかった。

「ファイラス様、ですね」

 建物に入ってきた神官補が部屋を覗き込んで呼びかけてくる。恐らくクォーテルか誰かに、ファイラスがここにいることを聞いていたのだろう。ファイラスの灯りの魔法が見えていたこともあって、さして驚いた様子もなかった。

「食事の配給か?」
「はい。こちらを」

 ファイラスに手渡されたのは硬くなったパンとコップ一杯の水だった。

「ファイラス様は後ほどで……」
「それは構わないが。この子たちの食事は毎回こんな?」

 ファイラスが眉根を寄せる。少女は後ろで頷いている。

「だいたいこんな感じです。寄付がない日は食事もありません」
「酷い話じゃないか」
「僕に言われても……」

 若い神官補は首を振る。ファイラスも「そうだな」と頷いた。

「食事はいつも君が?」
「僕とあと二人が持ち回りで。とんだ貧乏くじですよ」

 正直にそういう神官補だったが、ファイラスは無表情だ。

「この子の病気のことは?」
「魔力がどうのって聞いています。おっかないです。感染うつったら僕もここの住人だ。ファイラス様は怖くはないのですか」
感染うつらないと思うぞ。クォーテル聖司祭が自らここに案内してくれたからな。そんな危険があるのだとしたら、自らは踏み入らないだろう」
「そ、そうなんですか」

 それに、クォーテル聖司祭はと。ということは、クォーテル聖司祭は、この少女と少なからず接点を持っていたことになる。

「暗くなる前に食事、配ってきます」

 神官補はそう言うと、カートを引いて奥へと行ってしまった。一刻も早く立ち去りたい気持ちは、ファイラスにも理解できた。悪臭は全く薄れていないのだ。

「ファイラス」

 少女が名前を呼んだ。驚くファイラスに、少女は微笑む。

「ファイラスは、有名?」
「そこそこな」
「すごい、ね」

 少女はそう言うと、水を飲んでからパンに齧りついた。ひとくちが小さく、食べるのに非常に時間がかかる。ファイラスは「待ってろ」と言って、管理室に行き、桶を持って井戸に向かった。

 黄昏の空は赤く、決して良い気分になれそうにない風景だった。

 水を組んで部屋に戻ると、少女はまだパンを食べていた。ファイラスは空いたカップに水を汲んで、少女に手渡す。

「美味しい」
「普通の井戸水なんだがなぁ」

 ファイラスも少女のカップを借りて水を飲む。乾いた身体が生き返る。

「ファイラス、また来る?」
「君を治療しろと言われているからな」
「ケーナ」
「ん?」
「あたし、ケーナ……だったかな? そうだった、気がする」
「なら、ケーナと呼ぶ」

 ファイラスはケーナのくすんだ金髪に触れた。ケーナは目でそれを追った。

「ファイラスの手、痛みが減る」
「今は治癒魔法は使ってないぞ?」
「知らない」

 ケーナは小さく首を振る。

「魔法とか、知らない。でも楽に、なる」
「そうか」

 ファイラスはその髪を撫でてから、背中に手を触れる。

「明日も来る」
「ファイラスの、おかげ、で、すごく楽に、なれた。今の、魔法?」
「ああ」

 ファイラスは立ち上がると、桶にまだ水がたっぷり残っているのを確認してから、荷物をまとめて部屋を出ようとする。

「鍵かけないの?」

 ケーナは枕元に置かれたままの鍵を見て尋ねた。ファイラスは肩をすくめてみせる。

「囚人じゃあるまいし」
「不思議な人、だね」
「よく言われる」

 ファイラスは扉を開ける。

「ファイラス、またね」
「ああ、またな」

 ファイラスが出ていくと部屋はほとんど真っ暗になる。

 ケーナは膝を抱えて項垂うなだれる。

「よけいに、苦しいな……」

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