王都からは気が遠くなるくらいに離れた、ドがつくほどの辺境の町。それでもまだ町と言える体裁を保っていられるのは、ひとえに豊かな温泉のおかげだ――温泉は良いものだ。とてもとても、良いものだ。
さて、そんな町で唯一の大きな温泉旅館の食堂にて、俺は格闘していた。分厚いステーキと、だ。義務的に焼かれた牛の肉は、筋張っていてひたすら、ひたすらに硬い。右手に握ったナイフはともかく、左手に持ったフォークがひんまがりそうなくらいに硬い。とりあえず一口大に切ってみるが、味も塩コショウ風味が形ばかり。仕方がないので俺は用意されていたなんとかっていうソースを遠慮なくぶっかけた。それでようやく、人間の食い物になってくれた気がしないでもない。ただ、顎が疲れる。焦げたパンすら、ふんわりソフトな口当たりのように感じてしまうくらいだった。
そんな俺の戦闘BGMとして、歌があった。食堂に備え付けられた小さなステージで、数名の演奏家を従えて、黒いドレスの女が歌っていた。彼女の歌がなければ、俺はもう食事を諦めていたかもしれない。とにかく、猛烈な顎関節の疲労と引き換えにしても良いだろうというくらいには、彼女は歌がうまかった。それは聴いたことのない歌だったし、その言語も俺の知らないものだったが、BGMにするにはちょうどよかった。酒でも飲みたくなるような気分になったが、色々理由があって今は飲めない。飲んだら危ないのだ。いろいろと、ね。
その時、俺の後ろ側にある出入り口の扉が乱暴に開けられた。かわいそうに、年季の入った木の扉は、蝶番を弾き飛ばされて、派手な音を立てて倒れてしまった。俺は硬い肉を口に放り込んで、状況を静観することにする。少なくとも穏やかならざる事態が起きつつあるのは間違いがない。
――そういうのはもう遠慮したいのだけどなぁ。
なだれ込んできたのは十数名の男たち。当然、歌も演奏も止まってしまう。面倒な連中な上に、俺の(温泉前の)癒やしである歌を止めるとはけしからん。だけどなぁ、諸事情あって、颯爽と格好をつけるわけにもいかないというのが現実だ。
男たちが何やら大声でまくしたてるが、あまりの訛りの酷さに何を言っているかよくわからない。しかし、歌を歌っていた女には通じたようだ。
「だから、引退したって言ってんだろう!」
長い黒髪の女は、前髪を後ろに払いながら啖呵を切る。さっきまで歌を歌ってたのは本当に貴女なのですかと問いかけたくなるような豹変ぶりである。年齢的には多分三十前後――まず間違いなく俺よりは若いだろう。だが、その迫力には歴戦の勇士的なものすら覚えたりもする。年齢以上に、相当な修羅場をくぐり抜けてきたに違いない――要するに、彼女はただの歌うたいではないということだ。
――ほっとこうかな。
俺は風味豊かに焦げ臭いパンをかじりつつ、半眼で状況を観察する。ただ、男たちは手に手にナイフやら棍棒やらを持っている。間違いなく物騒なことが起きる。――ていうか、アレか。
その俺の推測を裏付けるように、男の一人がひどい訛りで怒鳴った。
「引退したって、魔女は魔女だろう!」
やっぱり。魔女狩りだ。ついにこんな辺境でも、魔女狩りが始まったということか。そんなことを思いつつ、俺はまだ立ち上がらない。立つのはまだいいのだが、一度立ってしまうと今度は座るのが一苦労なのだ。次に立つのは温泉に向かう時、座るのは温泉に入る時――食事前に俺はそんな決意をしていた。
「魔女魔女言うけどね、こちとら占いの一つもやっちゃいないよ! 場末の酒場を回りながら歌って日銭を稼いでるしがない女さね。あんたらにグダグダ言われる筋合いなんて、これっぽっちもないさね!」
「うるせぇ、ババァ! 黙って――」
「ああ、そうさ! こちとら三十も過ぎたババァさね!」
すげぇ、この女。俺はパンをもぐもぐやりながら観察を続ける。ちなみに食堂内には他にも十名以上の客がいたのだが、いつの間にかいなくなっている。つまり、客は俺一人だ。
夢見が悪いことはしないで欲しいんだがなぁ。これ以上の悪夢はもう見たくはないんだ、俺は。
俺は懐にある短剣に触れつつ、後ろの壁に立て掛けてある長剣を横目で確認した。
「あんたら、これでもアタシは女さ。ババァと言ってくれたからには、それなりの覚悟はあるんだろうね!」
ほう。
俺は未だしばらく状況を見ていることに決める。男たちが動いたとしても、この女は簡単には捕まらない。ていうか、楽器演奏していたおっさんたちはどこ行ったんだ?
「魔女め、潔く審問を受けろ!」
「審問かい。こんなド田舎でそんな高尚な単語を聞くとは思わなかったねぇ!」
相変わらずのテンションで反撃し続ける女。
「魔女でなければ神の加護がある! 抵抗するというのならこの場で魔女認定だぞ! わかってんだろうな!」
「捕まって拷問されて魔女であることを自白させられるんだ。そのくらいアタシだって知ってるさ!」
おそらくその通りだろう。水に沈められて三日間放置し、生きていたら魔女、死んでいたら魔女ではなかったと認定する――というようなことも起きていると聞く。そのスジの連中に目をつけられたら、即ち死だ。
今まさにその「死」が女に迫っている。だが、俺にはどうにもそれは希薄なように思えた。
「さて、あんたらもそう言ったからには神の加護とやらがあるんだろうねぇ!」
「何を言ってる!」
「そっくりそのまま返してやるっつってんだ。悪魔の囁きに簡単に流されやがって!」
女の啖呵は聴いてて清々しいほど切れ味が良い。俺のステーキを切り分けて欲しいくらいだ。
女の言葉に呼応して、男たちがやいやいと見苦しく騒ぐ。
「疫病も旱魃も、悪魔の仕業だ! 魔女が悪魔を呼ぶ! 神の逆鱗に――」
神だの悪魔だのを錦の御旗にする連中は腐るほど見てきた。地位の高低を問わず、そういう連中にまともな奴らはいない。確かに魔女は存在する。かつて、大虐殺をやらかした大魔女もいるらしい。だが、それは過去の話だ。そんな御伽噺に惑わされる人々――いや、俺にも馬鹿にする資格はないか。
「どっこいしょ……っと」
意を決した俺は、剣を杖にして立ち上がった。俺が唯一の客だったから、この行動は目立ったはずだ。
「なんだおめぇは!」
「よそもんは引っ込んでろ!」
「うちの町の問題だ!」
要約するとこんなことを言われる俺。だが、誰も俺の目を見ない。棍棒やら短剣やらを持っている男たちも、明らかに腰も引けている。実戦経験がまったくない……のではないだろうか。珍しい話でもない。
「お前らが何人の魔女を狩ったのかは訊かない」
訊いても胸糞悪くなるだけだからだ。
「だが、お前らの言い分を借りれば、神の加護があれば死なないってことで良いんだな?」
剣は抜かない。いろいろと面倒だからだ。
「や、やるのか、てめぇ!」
「この数相手に一人で喧嘩できると思ってんのか!」
うーん。どうだろう。二十年前なら明らかに余裕だったろう。……だがなぁ。
「勝つか負けるか、という話になるなら、俺も剣を抜くぞ?」
俺は剣の柄を握る。男たちが明らかにたじろぐ。
「五人は死ぬと思うが、その五人には誰がなる?」
たいていコレでなんとかなる。存外ハッタリでもない。だが正直に言うと、あんまりやりたくない。人道的な理由からではない。俺の身体的な理由だ。
しかし俺のこの言葉は、男たちを怯ませるのには十分だった。男たちに押されて、リーダー格の男が前に出てくる。
「なんだよ、一騎打ちかよ」
俺は剣を杖にしたまま肩を竦める。そして、鞘尻で床をドンと突いた。男たちは一斉に肩をビクつかせ、ジリジリと下がっていく。その中でリーダーだけは踏みとどまっていたのだから、まぁ、褒めてつかわす。
「くっ、くそ! 魔女の手先め! 無事でいられると思うな!」
リーダーがナイフを手に突っ込んできた。身体の軸もぶれていれば、切っ先も定まらない。俺には男の行動が完全に読めている。だが、俺の身体はそう簡単に動いてはくれない。
――一撃が限界だ。
思った以上にアレがアレで、長剣がいつもの三倍は重たいような……。硬いステーキに体力を削られたか。顎も疲れてるし。
俺は剣を抜かずに、鞘の先でリーダーの右膝の皿の上を正確に突いた。自分の突進と俺のささやかな突きを食らった男は変な声を上げて前転を三回くらいして壁に激突して止まった。その間、男のナイフはなぜか後方に飛んでいって、女の足元に落下した。女は「ニッ」と笑うとつま先でナイフを蹴り上げ、キャッチしてから三度ほどくるくると回した。
「そらそらぁ。神の加護とやらはどっちにあるのかねぇ」
「おい、魔女。挑発すんな」
「魔女は引退したっつってんだろ」
俺の言葉に律儀に応じ、女はナイフを見事な手付きで弄ぶ。タダモノではない感がすごい。
「魔女だろうが元魔女だろうがどっちでも良いんだが」
「良かぁないだろ、剣士さん」
「その話は後でもいいか、魔女」
「引退したっつってんだろ!」
……怒らせちゃダメなタイプだということは十分わかった。そんなやり取りをしているうちに、男たちは姿を消していた。まさに「ほうほうのてい」である。そこまでビビらなくても良いと思うのだけどなぁ。そんな俺の目の前までやってきて、女は「ふぅん」と俺を見上げた。
「気に入ったよ、剣士さん」
「剣士は引退した」
「ははは!」
女は軽快に笑う。豪快な笑顔がいっそ清々しい。
「その年でご隠居かい」
「もう十分だからな。うまい飯と寝心地の良いベッド、あとは温泉さえあれば生きていける」
「なるほどねぇ」
女は少し悩ましい目をした。黒褐色の瞳が俺をまっすぐに見ている。
「アタシはスリージャヴァルタナ・ヒュキュラヒノフス。どうせ覚えられないだろうから、タナさんでいいよ」
「俺は……って名乗らなくても良くね?」
「なんだい、女に名乗らせといて自分は名乗らないつもりかい」
「勝手に名乗ったんだろ?」
「どうせあんたもアタシもこの町を追われるんだよ。一緒に逃避行するハメになっちまったんだよ」
……うーん。別に一緒に行かなくても良い気はするのだけどなぁ。一人の方が何かと気楽だし?
いや、それ以上に、もう温泉に入れないことのショックの方が大きい。苦労してこんなド辺境くんだりまでやってきたのに。
「温泉が名残惜しいって顔してるねぇ?」
「そりゃそうだ。そのために来たんだ」
「ふぅん」
女――タナさんは顎に手をやった。その仕草に少しドキッとした。
「あんたさぁ」
タナさんは俺の耳元に口を寄せた。
「腰、悪いだろ?」
「そそそそ、そんなことはない、ぞ?」
「さっきので精一杯だったんだろう?」
「ななな、なんの話だ? 腰なんてほら、ぜんぜ――」
「今なら!」
タナさんは右手の人差し指を立てた。
「マッサージ付きさね! 自信はあるよ」
「よし、乗った」
文字通りの二つ返事が、俺の思考に先んじて口から出た。
マッサージなんて何年ぶりだろうか!? ――俺の期待は否応なしに高まっていく。
そうと決まったら、早速この町を出よう。夜も良い時間ではあるが、そこは仕方ない。ここで寝るのは寝込みを襲ってくれと言ってるようなものだからだ。
「良い判断さね」
「それはそうと、俺はエリソン。詳しいことは移動しながらだ」
「了解だよ、エリさん」
「エリソン」
「エリさんでいいだろ?」
うーん……。エリさん……。微妙。
だが、そんなことでタナさんの機嫌を損ねるのは悪手だ。
「エリさんタナさん二人旅の始まりさねぇ」
タナさんは鼻歌を歌いながら、俺の腰に手を回してきた。あ、楽――。
「さ、善は急げさ。お互い部屋に帰って荷物をまとめようじゃないさ」
「はいはい」
俺はタナさんに(こっそり)支えられつつ、自分の部屋まで戻ったのだった。
あー、腰が痛ぇ……。まったく、無茶させやがって。
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