夜も夜、こんな良い時間に駅馬車が巡回しているはずなどない。そもそもここが辺境と言われる所以は、交通網があってなきが如しだからだ。だが、腰痛に効くという温泉の効能を聞きつけた俺は、無理を押して、商人の一隊にここまで連れてきてもらったという経緯がある。帰り道は帰る時に考えようと思っていた。どうせ目的地のない旅だ。
しかし、こんな夜中の逃避行になるとまではさすがに予測してはいなかった。ましてや、まさか徒歩で移動することになるとは全くの誤算だった。温泉にも入れず、徒歩で腰を酷使する。良いことがない。まるでない。そして俺は馬にも乗れない――言うまでもない、腰に来るからだ。幸いといえば、季節が初夏だということだろう。暑くもなく寒くもない。そして時々吹き抜ける夜風は、一種の清涼感さえ伴っていた。
だがしかし、腰が痛い。道も悪いし、転びでもしたら一大事だ。
「なぁ、タナさん。魔法で光とか出せないのか?」
「魔女は引退したっつってんだろ」
「使えるなら使ってくれよ、おっかなくてしょうがない」
「夜道に男女がカンテラで逃避行ってのが乙なんじゃないのさ」
タナさんはカンテラを軽く持ち上げた。……頼りない灯りだ。
「乙とかどうでもいいんだけどさ、温泉入りたかったなぁ」
「ふふ、温泉ねぇ。確かに名残惜しいけどねぇ」
タナさんは俺の隣に歩いてきて、そっと囁いた。
「でも、そんなものよりずっと天国を見せてやるさ」
「……楽しみだ」
楽しみではある。少し頑張ればマッサージというご褒美をゲットできるはず。それだけを希望に俺は歩く。腰が痛い。でもがんばろう。
タナさんは、さっき襲ってきた男の家に押しかけるなり、ものすごい剣幕であれこれ怒鳴りつけた挙げ句、馬を一頭強奪していた。その馬はタナさんの大きなカバンと俺の背負い袋を乗せられて、のんびりと歩いている。荷物を持たなくて良いというだけで、俺の腰へのダメージは大きく軽減されていた。タナさんさすがである。それに、手綱と灯りは旅装束に着替えたタナさんが持ってくれていた。俺はといえば、長剣を杖にしてチンタラ歩くだけでいい。
そういえば、この十数年というもの、この剣は杖以外の用途で使ったことがない。ある日突然腰をやらかしてからは、長剣を振り回すことが事実上不可能になってしまったからだ。その頃はもう剣士としての現役を退くつもりでいたし、案外丁度いいかななんて思っていた。だが、そこに来てこの魔女狩りだ。二十年前のように、世の中が大きく荒んで来ているのを肌で感じる。面倒事に巻き込まれることもそこそこに増えてきた。
しかし、そんな時にはこの長剣が役に立った。どんな人間でも、長剣を身につけている剣士に喧嘩なんか売ろうとしない。負けたら死ぬことになると知っているからだ。もっとも、俺には腰の都合があるから剣を抜くわけにはいかない。だから、虚勢が見破られたら、一転ピンチに陥ることは明白だった。
「しかしエリさんはさ、元はと言えばどこぞの有名な騎士だろ」
「……何を根拠に?」
「育ちの良さが出てるのさ。金髪碧眼とか、いったいナニサマのつもりだい」
「それを言われても困る」
「ははっ、冗談さ。見映えそのものははたいしたことないしねぇ」
うっ、気にしてることを。
「で、アタシが気になったのは、その長剣さね。そこらの流浪の剣士や盗賊風情じゃ、到底手に入れられない剣だよ、それは。鎧を着てないから騙されるけど、防具なしなのは腰の問題だろ?」
「……なかなか目利きじゃないか」
「褒めてもキスくらいしか出ないよ」
「……キスは出るのか?」
「減るもんじゃなし」
「そ、そうきますか」
俺はおぼつかない足元を注視しつつ、ふらふらと歩く。豪胆な女性だなと思う。
「ああ、でも、誰でも彼でもキスをするわけじゃないさね。アタシにだってポリシーはあるさ」
「だろうね」
俺は苦笑しつつ、足を止めた。時々腰を労ってやらないと、数日寝込むことになる。こんな原野のど真ん中で身動きが取れなくなるという事態だけは、なんとしても避けたい。狸に食われるのは御免だ。
「ところでさ、タナさん」
「うん?」
「なんで魔女を引退したんだい」
フクロウの声が遠くに聞こえる。タナさんは俺を振り返る。
「魔法は、肩が凝る」
「は?」
「アタシさ、重度の肩凝りでねぇ。ただでさえガッチガチなんだ。魔法なんて使おうものなら三日は動けない。ついでに頭痛も酷いしねぇ。だからもう引退したんだ。カード占いも水晶占いも封印。とにかくあらゆる魔法を封印したのさ」
「よくそれで一人で――」
「アタシだってあの町の温泉にゃ、期待してたのさ」
タナさんは首を振った。左手を首に当てて「んー」と空を見上げている。俺はため息をついた。
「お互い災難なこって」
「まったくさね」
ゴキゴキゴキっとすごい音が鳴る。発生源はタナさんの首だ。
「すげ」
「だろ? いっくらでも鳴るよ。肩甲骨のあたりなんて、外してもみ洗いしたいくらいさ」
「わかる。俺も骨盤を取り外したいくらいだ」
「わかるわー」
タナさんは豪快に同意しつつカラカラと笑った。なんだかすごく気持ちのいい女だなと、俺は思った。
「でさ、タナさん。ところでどこまで一緒に?」
「あんたが嫌じゃなけりゃぁだけど、カルヴィン伯爵領にでも行こうじゃないか」
「カ、カルヴィン伯爵!?」
素っ頓狂な声が夜に響いた。発信源は俺の口だ。
「カルヴィンのところから魔女狩りは始まったんだぞ。疫病も何も、あそこからだって話、知ってるだろ?」
「だからこそさ」
タナさんはカンテラを小さく揺らした。
「だからさ、なんでこんなことになっちまったのか。その原因とやらを見てみたいのさ」
「今、王国で一番危険な場所だぞ?」
「いまさらさね」
タナさんは鼻歌を歌い始めて、また歩き始める。仕方なく俺もついていく。タナさん、馬、俺の順番にのんびりとだ。
「タナさん、日が昇ったら少し休憩しようぜ。腰がつらい」
「あのさ、あんたさ」
タナさんはまた足を止める。
「ん?」
「アタシが怖かないのかい?」
「なんで? タナさんが魔女だから、か?」
「元、さ。それを信じるも信じないもあるし、そもそもあんたが寝てる間にその剣を盗んで売っぱらっちまうかもしれないよ?」
「ああ、そういうことか」
俺は頷く。
「ないな」
「なんでさ?」
「顔を見りゃわかるよ、タナさん。そんなセコいことをするような顔じゃない」
「あっははは! なるほど年の功さね」
「無駄に年食っちゃいねぇし」
「まぁ、それを言うならアタシだって負けちゃいないけどね」
なんの勝負だよ――俺は一瞬思ったりした。
タナさんは今年で三十二歳になるらしい。俺とは五歳違うということだ。もっとも、その喋り方や肩凝りはともかくとして、見た目だけなら二十代半ばで十分に通用するのだ。つまり、黙って座っていれば、とてもミステリアスな美女であるということである。酒場で歌って日銭を稼ぐ――彼女にとっては、さほど難しい話ではないだろう。
「その話はそれでいいとしてだよ、タナさん。カルヴィンの野郎の領地に行ってどうするんだ?」
「うん、まぁ、伯爵に会うよね」
「簡単に会える算段でも?」
「たかだか伯爵じゃないのさ。なんてこたないね」
そうかなぁ。色々めんどくさいんだぞ、あの世界――俺は頭を掻く。しかし、なんとなくだが、タナさんなら何とかするんじゃないだろうかという気もしないではない。
「もっとも、怖いのは疫病の方だけど、半年以上前の話さ。そもそもカルヴィン伯爵領に入ったら、人里には近寄る予定はないよ」
「それもそうだが……途中で魔女狩りにあったらどうする? 俺じゃカルヴィンの私兵の相手はできないぞ」
「そうさねぇ。あんたはおまもり程度の役にしか立たないしねぇ」
ぐさっ。コレでも俺にだってプライドはある。面と向かってそれを言われると、けっこう心に来る。しかし、真実ではあるので反論できないのが辛い。
「魔法で切り抜けるとか?」
「引退したっつてんだろ!」
怒られてしまった。俺はため息をつく。
「魔法を使えない魔女と、剣を使えない剣士か」
「アタシは使えないんじゃない、使わないのさ」
「おなじだろ」
「違う」
タナさんは憤然とした様子で断じた。
「あんたの事情とは、まるっと違うのさ」
俺は首を振る。こりゃ勝てないな――そう白旗を上げながら。
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