休み休みながらも頑張って夜通し歩いた俺たち。幸いにして追っ手はなかった。俺もおまもり程度の役には立ったということだろうか。……そういうことにしておこう。
朝日がいい感じに顔を見せたくらいのタイミングで、俺たちはちょっとした小川に辿り着いた。少し目をやれば鬱蒼たる森が周囲を囲んでいたが、河原は休憩場所にはもってこないほどに見晴らしが良かった。この距離があれば、森の中から弓矢で襲撃することもできない。
「さ、エリさん、横になって休みな」
「タナさんは?」
「マッサージ付きって約束しただろう? ちゃんと守るよ。約束はね、大事だから」
「いやいや、タナさんも夜通しで疲れただろう? 今はいいよ」
「いいや、揉ませな」
タナさんは威圧的に、芝生の上に敷いた、自分のマントの上に俺を寝かせる。
「揉みたいのか?」
「趣味みたいなもんさ。自分が肩凝り酷いもんだからねぇ」
「……好きにしてくれ」
俺は観念して顔を伏せた。
結論から言うと、タナさんの手技には素晴らしいものがあった。というより――無防備にもほどがあるのだが――あまりの気持ちよさに途中で眠ってしまっていたほどだ。惜しいことをしたと思う反面、目覚めたときの爽快感には筆舌に尽くし難いものがあった。タナさんとの旅を了承した自分に、「大変良い仕事をしたものだ」と言って褒めてやりたい。
「気持ち良かっ……て寝てるのか」
身体を起こすと、俺の隣でタナさんが眠っていた。あんな啖呵や毒舌を切り続けている人物と同じとは思えない、少し幼く見える寝顔だった。それでもやはり圧力を感じる程に美しい容貌で、わずかに開いた赤い唇が艶かしかった。しかし、そのあまりにも無防備な寝姿を前にしても、俺の中にはその手の気持ちは湧いてこなかった。
「ほんと、役立たずだなぁ」
思えば思うほど、自分にがっかりする。荷物が持てないどころか、自分ひとりが移動するのが精一杯。剣士でありながら、剣を抜けない。誰も守れない。そして火を起こしたりすることもできない(体勢的な意味合いで)。早いところ、どこぞの駅馬車にでも切り替えないと、本当に何もできなくなってしまう。おまもりですらなくなってしまっては、俺はただの腰痛のおっさんである。
「エリさん」
「起きてたのか」
「肩くらい揉んでくれやしないかい?」
「い、いいのか?」
「エリさん、あんたがよければ、だけどね」
それには異論はない。女性の肌に触れるのは何年ぶりだろうか、という気持ちが去来した程度だ。
「襲わないのかい?」
「お、おそう?」
「アタシは無力で無防備。その割に魅力的だろう?」
「飢えた男の前には放置しちゃいけない人だというのはわかるよ」
「あんたは飢えてないのかい?」
「俺は菜食主義者なんだ」
「……ふぅん」
タナさんは目を細める。そしてマントの上に座り直して、大きく伸びをした。一陣の風がタナさんの長い髪を弄んで過ぎていく。こうしてみると、タナさんは素晴らしいボディの持ち主だった。バランスの良い身体、肌理の細かい白皙の肌、陽光を跳ね返すその髪が作る輝きはまるで天使の輪のようだった。黒褐色の瞳は理知的で、俺の心の底まで見通しているかのようだ。
「肩以外も揉んでいいよ」
「……余計な誘惑をするな」
「はは、見くびるなってことかい」
「そうとも言う」
俺はタナさんの肩に手を置き、首から背中までを軽く押してみる。
「あたたたっ!」
「す、すまん」
「いや、いいのさ、それでいい。アタシも肩なんて揉んでもらうのはいつぶりか、これっぽっちも覚えてないからねぇ」
「よくこれで腕を動かせるな」
「だろう?」
タナさんは呻いている。
「毎日辛くてねぇ。頭痛だ眩暈だ吐き気だなんだと。温泉にさえゆっくり入らせてもらえないなんてね。だから、カルヴィン伯爵にはきっちり落とし前をつけてもらおうって話さね」
「その点は俺も似たようなもんだなぁ。ただ、カルヴィン伯爵に会える確率は天文学的に低いぞ」
「曖昧な要因と推測で確率を論じるのは結構。しかし、それを行動しない理由の裏付けに使うヤツは、総じて臆病者さね」
「うっ……」
つくづくよく切れるナイフである。
俺はしばし無言でタナさんの肩を揉みほぐしていたが、ふと気が付いた。
「なぁ、タナさん。肩凝り治す魔法とかはないのか?」
「そりゃ治癒魔法の範疇だ。魔女が使える魔法じゃないよ」
「そういう分類があるんだ?」
「分類というより、原理が違うからねぇ。魔女の魔法は――」
その時、俺とタナさんの前に、握りこぶし大の透明な球体が現れた。大きな水滴のようなそれの中央上部あたりに、目のような黒いものがちょんちょんと付いている。
「なんだ、これ?」
俺はタナさんに声をかける。タナさんは「あらら」と肩をすくめつつ首を回した。
「水の精霊さ。見たことないのかい」
「水の精霊? これが?」
俺が指差すと、そのでっかい水滴はぷるぷるっと震えた。肯定したのか。
「でもなんで突然出てきたんだ?」
「そりゃ、精霊使いがそばにいるからさ。天然の精霊は人間の前に、こんな露骨に姿を見せることはないさね」
「せ、精霊使い? 実在するのか」
「エルフとかには未だにいるさ。アタシもそんなによくは知らないけど、とりあえずこのあたりを活動拠点にしている精霊使いがいるのは間違いないねぇ」
「そりゃまずい……のか?」
「……撤収するかねぇ」
タナさんは舌打ちしつつ、荷物をまとめ始めた。
『待って』
水の精霊の方から、女の子の声が聞こえた。少し舌足らずな印象だ。
「アタシたちはすぐここから離れるさね。危害を加えるつもりはないよ」
『だからちょっと待ってってば!』
水の精霊はフワッとジャンプしたかと思うと姿を消した。
「ん?」
森の方から近づいてくる小さな姿。いわば、幼女だ。
「幼女とかぁぁぁぁ! いわないでぇぇぇぇ!」
「まだ言ってないし」
幼女は結構な長い距離を転がるようにして一気に走り抜けてきた。ぶっちゃけ移動力は俺の数百倍だ。そして俺たちの目の前に到着しても、息切れの一つもしていない。これが若さか?
幼女は、緑がかった金髪に緑色の瞳の持ち主で、肌は褐色だが多分日焼けによってそうなっただけだろう。ボロボロの半袖から見える肩は白かったからだ。
「おじさん!」
「……!?」
刺さったよ。意外に刺さったよ?
「おじさん、ぼうけんしゃだよね? ぼうけんしゃってやつだよね!?」
「いや、別に冒険者というわけでは」
「やったぁ、ぼうけんしゃだぁ!」
「聞けよ」
「いっしょに行っていいよね?」
「幼女よ」
俺は剣を杖にして立ちつつ、タナさんを見た。が、タナさんは腕を組んで幼女を見下ろしている。少し口角が上がっているところから見るに、危険な状況ではないらしい。俺はもう一度呼びかけた。
「幼女よ」
「幼女は禁止だよ!」
「おじさんも禁止だ」
「えっ?」
えっ、じゃないだろ!
なんだろう、タナさんといい、この幼女といい、神が遣わした試練か何かの類なのだろうか。
「とりあえず、俺たちは――」
「やったぁ! そこまで言われちゃしょうがないから一緒に行くよ!」
「何一つ言ってないんだけど、それは――」
「あたし、ウェラ! お父さんはエルフのおんなたらし? とかいうので、お母さんは人間だよ! だけど五年くらい前にどこかに消えちゃったんだ!」
「キミ、さりげにすごいこと言ったね。何歳なの?」
「えっとね、じゅうはっさい!」
えへん――胸を張る幼女。いや待て待て。どう見ても、五、六歳にしか見えないんだが。
「ハーフエルフってやつさね」
タナさんが言った。そういえば、お父さんがエルフとか言ってたっけ?
「エリさん、この子、耳が尖ってるだろ。この中途半端な尖り方と精霊使いであることからして、ハーフエルフであるところは疑いようがないさね」
「ハーフエルフは見た目が幼いのか?」
「幼女って言うなぁ!」
「はいはい」
俺は幼女――ウェラの頭をぽんぽんと叩いてやる。ウェラは頬を膨らませて抗議するわけだが、やっぱり六歳くらいにしか見えない。
「エルフもハーフエルフも、成長が遅いのさ。エルフは事実上不老不死。ハーフエルフは人間の三倍くらいは生きるというからねぇ。十八歳だというなら、この見た目も納得さ」
なるほど。タナさんが言うのだから多分そうなんだろうと俺は納得する。
「で、ええと、ウェラだっけ。ウェラはなんで俺たちと一緒に行きたいって?」
「えっとね」
ウェラは頭をポリポリと掻きながら俺を見上げた。
「おじさんとおばさんが――」
「やり直し!」
突如のタナさんのダメ出し。ウェラは一瞬ビクッとなったが、すぐに状況を理解した。
「おじさんとおねえさんがパパとママだったらいいなって思って」
「許す」
タナさんは鷹揚に頷いた。あれ、「おじさん」のところはいいのかな、そのままで……。
「腰痛持ちの中年が、おじさんを回避しようだなんて烏滸がましいさね」
刺さる、刺さるよ、タナさん……。なんだか腰が痛くなってきた。
そんな俺を尻目に、タナさんが訊く。
「ウェラ、いいのかい?」
「なにが?」
「人里に出たら、あんたは――」
「慣れたよぉ」
ウェラはわずかに口角を上げた。見た目の年齢に似合わない、少し寂しそうな微笑だった。思わず俺は口を挟む。
「慣れたって?」
「ハーフエルフはそれだけで差別されるからね~。それに今はほら、なんだっけ、あれ」
「魔女狩り?」
「それそれ!」
ウェラは困ったような表情をしながら頷く。
「それで今ちょっと困ってて。もうここにはいられないなぁって思って。その時にちょうど、おじさんとおねえさんがやって来たの」
「だそうだけど、エリさん」
「ん?」
「この話を聞いておいて、この子を放っておけるかい?」
「タナさんは放っておけるのかい?」
「質問に質問で返すな。やり直しだよ」
「……わかったよ」
俺は肩をすくめた。腰にズキッと痛みが奔る。よろめきそうになったところを、タナさんがさっとサポートしてくれる。タナさんはいくつ目を持っているのか。俺はタナさんの肩を軽く叩きつつ、ウェラを見た。
「でもさ、ウェラ。危ない旅になると思うよ」
「ならばなおだよ! このウェラさまを連れて行ったら便利だよ!」
「といっても、幼女だし……」
「じゅうはっさい!」
ウェラはむっとした顔で俺を見る。むぅ……。そこにタナさんが「はいはい、そこまでそこまで」と、手を叩きながら割って入った。
「エリさん、精霊使いは貴重なのさ。それに何より便利なんだよ」
「便利って?」
「そう。ウェラ、火の精霊は呼べるかい?」
「うん! 火の精霊さんは一番のおともだちなんだ!」
「ならよし」
タナさんは何やら納得した。俺にはさっぱりだ。そんな俺に、タナさんは「想像力を使いなよ」と言ってくる。
「エリさん、火を点けるのは面倒だろう?」
「確かに。腰がつらい」
「この際、あんたの腰はどうでもいいさね。とにかく、面倒だろう? でも、この子なら一瞬で火を発生させられる。だろ?」
「うん! ウェラ、料理も得意だよ!」
「精霊を使って火を点けられるってことか」
「こうやってね」
ウェラは右手の人差指の先に火を灯した。それは結構な火力で、火打ち石の類とは比べ物にならない。
「よし、乗った。いいだろう」
便利さに負ける俺。これは連れて行かねばならないだろう。
「パパとママって呼ぶね!」
……パパ?
思わず俺はタナさんを見たが、タナさんは別に気にしてないようだ。タナさんは腰をかがめて、ウェラの小さな肩に手を置いた。
「ところでウェラ、家はあるんだろう?」
「いちおう、ね。だから荷物を取りに行かなきゃ。ついてきて!」
ウェラは元気にそう言うと、タタタッと走り始めた。あ、ちょっと待って……。
俺はタナさんに助けを求めようとしたが、タナさんはそんな俺をまるっと無視して荷物をまとめていた。
「タナさん、俺がここで荷物整理して待っていようか?」
「いや、エリさんも行かないとダメさね」
「え、なんで?」
「なんか、ひどく胸騒ぎがするのさ」
タナさんは俺を見上げてそう言った。キリッとしたその表情を前にしては、笑い飛ばすこともできない。だけど、また揉め事か? やだなぁ。それになにより、森の中を歩くのが憂鬱だ。足場は安定してないし、石や木の根は多いし。
「痛んだらまたマッサージしてやるさね。四の五の言わずに行くよ」
そうと言われたら行く他にないだろう。あるか? ないな?
そんなふうにもたもたしているうちに、ウェラが視界に戻ってきた。
「パパ、ママ、はやくー!」
「早く行きたいのは山々なんだが」
俺は剣を杖にしつつ、どっこいしょと一歩踏み出した。あれ?
「エリさん、変な顔してどうしたのさ?」
「いや、腰の痛みがちょっと少ないなと」
「アタシのマッサージの効果さね。ちょっと歩く分にはなんとかなるはずさ」
「魔法?」
「引退したっつってんだろ!」
またしても怒られてしまった。つまり、純粋にタナさんのマッサージスキルが高いということなのだろう。
「パパぁ! はやくぅ!」
ウェラの声が耳元で聞こえた。思わず周囲を見回す俺である。タナさんは肩を竦めつつ、馬の顔を撫でた。
「ウェラの風の精霊による伝令さ。あの子が四属性操れるとしたら、相当に頼りになると思うよ」
「へぇ……」
ところで、四属性ってなんだ?
そんなことを思いつつ、俺はタナさんと馬の後ろをトボトボとついていくのだった。ちなみにやっぱり腰は痛い。程度問題としてはマシではあったが、痛いものは痛いのだ。ウェラ、俺はキミの半分も移動速度がないのだよ……。そっとね、そっと歩かないとね……。
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