エリさん、と、タナさんが呼ぶ。その左手は俺の腰に添えられている。
「一応確認するけどさ」
「確認無用さ、タナさん。俺は、こいつをただじゃおかない」
俺は頷いた。そして一歩前に出る。
「ドミニア。おとなしく眠りにつくならば良し。さもなくば」
『魔女の子だからといって、わたしに勝てるとでも?』
「おっと、ドミニア」
タナさんは俺の肩越しに声を放つ。
「あんたほどの魔女が気付いてないとは思わないんだけどさ。エリさん――ってのは、アタシの旦那だけどね。この男は悪魔の子でもあるんだよ。魔女と悪魔の間にできた子だよ」
『そんなことが――』
「おやおや。二百年も封印されてて鈍っちまったかい? ねぇ、エリさん」
「ああ」
俺はようやく観念した。いや、観念できた。
「今となっちゃ真偽の程は確かめる手段はない。が、ね。俺は物心ついたときから悪魔の子と呼ばれていたよ」
『それは――』
「エリさんがちょいと腰痛を我慢して、その呪いの剣を引き抜けば。あんたの存在なんて簡単に消えちまうだろうさ。だったら、その大望を抱えて百年くらいはおとなしくしてた方が良いと思うのだけれどねぇ?」
タナさんは静かな口調で言う。が――。
この魔女に罪の概念はないか。
俺は肩を竦める。そんな俺の隣に再びタナさんが並ぶ。やはり隣にいてくれると心強さが違うなと思った。
「奇遇だね」
タナさんは微笑む。
「アタシもそう思うよ、エリさん」
「心を読んだな?」
「読まれて困る?」
「いや」
俺は首を振る。敵わないなと。
『――貴様らの考えはよくわかった』
ドミニアはそう言うと姿を消した――わけではなかった。広場を覆っていた炎が寄り集まり、また、街を焼いていた炎も集結していた。結果、俺たちの目の前には、ちょっとした風車のような大きさの光の球が生まれていた。それはドクンドクンと規則的な拍動を繰り返していた。
だが、そんなことより――。
「パパ、ママ! 無事かいな!?」
駆け寄ってくる二つの影。リヴィとウェラだ。二人とも走れるくらいには元気なようで安心した。だが、顔は煤け、服は一部が焦げている。
「こっちは今のところは無事だ。異端審問官や騎士は?」
「人々の避難誘導中や。パパとママが見えなくなってる間に、都市はえらいことになってたんや。町の半分が焼けてしもうた」
「そんなに?」
その時、タナさんが俺の剣に触れた。
「おしゃべりは後さね……!」
タナさんが長剣を抜くのと、光の球が弾けたのは同時だったと思う。ガルンシュバーグの刀身は艶めかしいほど濡れていた。それが光の奔流を受けて輝いている。
「間一髪!」
タナさんは俺たちの先頭に立っていた。ガルンシュバーグを中心とした半球系の中に俺たちはいる。光が俺たちを避けている。
「てか、この剣にそんな力が?」
「この剣は、魔女への怨嗟でできているのさ。まったく、予想通りで助かったよ」
呪いの力が、魔女の力を退けた? なんか不毛な気がしないではないが、結果オーライではある。
「パ、パパ、あのな……」
リヴィが俺の背中をつつく。
「竜が……おるで……」
光の隙間に目を凝らすと、確かにそれはいた。竜を直接見たことはないが、書物に記されていたものとそっくりだった。そしてそれは、想像以上に巨大だった。その指の一つが俺とほぼ同じ大きさである。
「竜族ってみんなあんなに大きいのか?」
「ウチも純血の竜族は見たことがないんねやけど、せいぜい小さな家くらいやって聞いとる」
「大きさはともかく、ドミニアは……竜族だったってことか」
二百年前の魔女。そして竜族。ただでさえ高い魔力を有する竜族が魔女になった様は、さぞや恐ろしかっただろう。道理で、葬った場所が隠匿されていたわけだ。
「やれやれ、大物さね」
タナさんはガルンシュバーグを大きく振るった。それは例の光の津波を引き裂き、押し戻していく。
「タナさん! 無茶するな!」
巨大な竜を前にするタナさん。俺たちは身動きが取れない。まして俺は、武器もない。懐の短剣でどうにかなる相手じゃない。
光の竜が口から青い光を吐く。
「タナさん!」
「あんたたちは自分を護りな!」
タナさんはその槍のような光を器用に避けつつ、竜に肉薄する。だが、竜――ドミニアもじっとしているわけではない。鉤爪や牙で、タナさんに襲いかかる。
「無茶だ、タナさん!」
「ドレスがほつれたくらいなんだってのさ!」
タナさんはそう言うと、ドレスの膝から下を、剣で強引に破り捨てた。ほつれたというレベルではない。
「お気に入りだったんだけどねぇ」
タナさんの動きは、神がかっていた。まるで竜を狩るためだけに訓練を重ねてきた騎士のように、ドミニアの動きを完全に読み切っている。それもこの場に漂う濃密な魔力の補助によるものなのだろうか。
「エリさん」
前を向いたままタナさんがハッキリと俺を呼ぶ。
「な、なんだ?」
「アタシの人生、悪くなかったよね」
「死ぬ気じゃないだろうな?」
「質問に質問で返すな……っ!」
タナさんは静かに言うと、ガルンシュバーグをくるりと回した。そして一閃する。竜の吐く光のブレスに勝るとも劣らない閃光が剣から放たれる。
『ぐっ……!?』
ドミニアの呻き。小さくないダメージが入ったようだ。
「エリさん。あんた、アタシの過去を聞いた時、運命だって言ったよね。アタシも今すごく実感してる。この運命、この縁。それが悪くない――いや、とんでもなく素晴らしいものだってことをね。アタシは幸せさ。いつ最期を迎えたってかまやしない。そう思ってる」
「タナさん……!」
「だからあんたは、アタシを支えて、そして、見届けておくれ」
タナさんの剣が打ち下ろされる、それは竜の右腕を切り落としていた。バランスを失った竜は、たまらず地面に転がる。
「死ぬか、生きるか。アタシはずっとその選択を繰り返してきた。どっちでもいいやって思いながら、なんとなく生きてきた。だけど、今は違う!」
タナさんは再度剣を振り上げる。ドミニアの輝きを受けて、刀身が光り輝く。
「アタシは、生きる! それを邪魔しようというのなら! 死んでしまえ!」
竜の顎が開く。その奥には青白い光が見えた。超高熱の火炎が――。
「ママ!」
リヴィが飛び出そうとするのを押さえたのはウェラだった。驚いたリヴィの足が止まる。
「う、ウェラ?」
「だいじょうぶ」
ウェラは短くそう言った。
「ママは、絶対に負けない」
「せやかて!」
「信じろ」
俺はリヴィの肩に手を置いた。
「せやかて!」
青い炎がタナさんを包んだ。その余波は俺たちを下がらせる。熱すぎて近付けない。
「ママ!」
リヴィが叫ぶ。ウェラはただじっと炎の中心を見ていた。俺は……何かできただろうか。だが、不思議なことに、俺はほんのわずかも取り乱していない。この冷静さには俺も驚いた。
炎は唐突に消えた。
「哀れな魔女さね」
煙を上げる地面に佇んでいたのはタナさんだ。その剣の先には、人間の髑髏が刺さっている。文脈からして、ドミニアの髑髏だ。そして空は急速に青さを取り戻し、後には焼け焦げた都市が残る。
「終わったのか?」
「いや」
タナさんは首を振る。そして、剣に刺さった髑髏を地面に叩きつけて粉砕した。鳥肌を禁じ得ない悲鳴のようなものが聞こえたが、気のせいだと思いこむことにする。
「まだだよ、エリさん」
「ドミニアは?」
「あいつは倒した」
タナさんはそう言うと、ガルンシュバーグを俺の持っていた鞘に戻した。
「つくづく禍々しい剣だよ」
「パパの剣っていわくあるん?」
リヴィが訊いてきたが、俺は何も言えない。タナさんはそんなリヴィの炎のような赤毛を軽く撫でる。
「エリさんもアタシもね、とんでもない罪人なのさ」
「そ、そうなん?」
リヴィは目を丸くする。
「パパなんて、こないに腰が悪いのに?」
「悪くなかった時期もあるんだよ」
俺は思わず言った。リヴィは「そうか」と頷いて俺を凝視する。青い瞳が俺を射抜く。
「ま、ええわ。興味がない言うたら嘘やけど、気ぃ向いたら話してや」
「ウェラもリヴィと同じだよ。でも、だいじょうぶ」
ウェラは小さく、またあのエルフ語の祈りを唱えた。
「精霊さんが認めたパパとママだもん。世界に必要とされてる人たちだもん。それに――」
「ウチらが必要としてるからな! ウチら、まだ巣立ってやらんで」
リヴィはウェラの髪をくしゃくしゃにしながら言った。ウェラは不満げな顔をしつつも、すこしだけ微笑んでいた。
「さて、ウェラ、リヴィ。来てもらったところで悪いんだけど、王国騎士と合流して待ってな」
腕を組んだタナさんが言う。
「え、せやけど、ウチらも」
「うん、気持ちは受け取るよ、リヴィ。でもね、残念なことに、このパーティは大人以外立ち入り禁止なのさ」
タナさんの言葉に、リヴィはしばらく迷ってから頷いた。
「せやけど、ママ。約束や。必ず――」
「意味のない約束さね」
リヴィの言葉を切って捨てるタナさん。リヴィは硬直している。
「でも、一つだけ言っておいてあげようじゃないさ、リヴィ」
「……?」
「アタシには絶対に叶えたい願いがある」
タナさんはハッキリとそう言った。願掛けの事だろうか。
「だからね、そもそもこんなところで死んじゃいられないんだよ」
「……りょーかいしたわ」
リヴィは「しゃーないなー」と何故か俺を見てニヤリとした。そして隣の幼女に声を掛けて、広場を脱出していった。
「さぁ」
タナさんが一つ深呼吸をした。
「魔力がいよいよ濃くなってきた。おでましさ」
「何が来るんだ? また魔女か?」
「いいや」
タナさんは首を振る。
「本体――悪魔が来る。ドミニアという憑代を失った化け物がね。魔女と共に滅ばないとは、こいつは相当さ」
「……どうするつもりだ、タナさん」
「殴ったところで泣いて逃げ帰ってくれる手合じゃあないさね」
この期に及んで悠然たる姿勢を崩さないタナさんは、やはりタダモノではない。
「何か策は?」
「ないよ?」
「ないのかい」
苦笑してしまう。まぁ、ないとは思っていた。
「なぁ、タナさん。こういうのを訊くのもどうかなって思うんだけどさ。俺、何してたら良い?」
「そこの噴水のトコに座ってさ。話でもしようよ」
タナさんの指差す先、つまり俺の後ろでは、空気を読めない噴水がたらたらと水を流していた。俺と腕を組んで、タナさんはその噴水の縁に移動する。
「空がまた暗くなってきた」
「濃いねぇ。こんなのは初体験さ」
魔力が濃い、という意味だろう。俺たちは噴水の縁石に腰を下ろし、のんびりと空が闇に染まっていくのを眺める。
「真っ暗だな」
「悪魔の色は、闇より暗い」
タナさんは歌うように言う。そこに危機感はまるでない。俺もどこか調子を崩されて、緊張する間合いを見失ってしまった。
「これだけ暗いのに、タナさんや噴水はよく見える。町はまるで見えないけど」
「認識の問題さ。アタシには町の様子が全部見えてる。……ひどいもんさ」
「この町のことはクラインたちの仕事だな」
彼は無事だろうか。いや、クラインのことだ。どうやったって死ぬことはない。カディル審問官や王国騎士も気になる。
「王国騎士たちはいい仕事をしているよ。町の兵士を束ねて救助活動中だ。誰も彼らには抵抗しないねぇ」
「そりゃ天下の王国騎士だからな。一緒に仕事したなんて言ったら、三代先まで語り草だ」
あの浅黒い肌の隊長、顔も知らない五人の騎士。王国騎士の地位は、それぞれが血を吐くような日々を経て掴んだ栄光だ。そのくらい評価したってバチは当たるまい。そしてこんなところで彼らを失うわけにはいかない。
俺たちの後ろでは水の音が聞こえている。なんとなしの癒やしだ。
「カディルも生きてるか?」
「いい汗流してるね」
「それはなにより」
悪魔ってどんなやつだろうなと思いながら、俺たちは待つ。
「ほら、きたよ」
タナさんは静かに上を指差した。
「あれって……悪魔なのか?」
神々しい――舞い降りてくるそれの姿への第一印象はこれだった。よく見るまでもなくグロテスクなのに。
光の柱を下ってくる、四枚の銀翼。両手、そして両足には黒い枷。白一色の身体には、黒銀の襤褸を纏っている。両目には剣や槍がコレでもかと突き刺さっていて、猿轡まで噛まされていた。
身の丈はさっきの竜にも匹敵する。俺が十人縦に並んだくらいはあるだろうか?
とにかく全てが醜悪で不調和だった――その四枚の銀翼以外は。
「タナさん、この剣を」
「いや、エリさんが持ってたほうが良い」
タナさんは俺の差し出した剣を掌で押し返す。
「しかし、それじゃ」
「役に立たない事を祈ってなよ、エリさん」
「……捨てたほうが良いかな?」
「バカ言ってんじゃないよ」
タナさんはそう言うと、白い悪魔を前に、俺の頬に口付けた。
コメント