そんな幸せな時間は長くは続かなかった。
腰が――死んだのだ。
食事を終えて部屋に戻った瞬間に、そりゃもう俺自身がビックリするほどの激痛が奔り、全身の力が抜けた。リヴィと腕を組んでなければ顔面強打間違いなしだった。
「よいしょっと」
リヴィはそう言って俺を横抱きにして、何食わぬ顔で四つあるベッドの一つに寝かせた。大の男が年頃の娘に横抱きにされる図。なかなか……つらいものがある。
「ほな、ママ」
「ああ、ちょいと待ってな」
タナさんが着替えている音が聞こえる。俺は痛くて顔を上げられず、ただうつぶせで唸っているだけだ。
「エリさんに三日間ぶっ通しの馬車移動はきつかったかねぇ。ウェラ、いつもの、頼むよ」
タナさんは俺のシャツを脱がせる。それから少しして、背中に艾が置かれた――つまりお灸である。ウェラの気配が近づいてきたかと思うと、すぐに背中が暖かくなってきた。
タナさんが俺のベッドの端に腰を下ろしたのが見えた。
「無茶は承知だよ、タナさん」
「でも動けないのは事実さね」
「騎士は、気合と根性でなんとかするのさ」
「バカだね」
タナさんは笑う。
「今日は良い月が見えそうだよ」
「まだ山の影やなー」
リヴィが言う。窓から入ってくるやる気のない秋風が、部屋をゆるゆると冷ましていく。
「なぁなぁ、パパ、ママ」
「ん?」
俺たちの声が揃う。
「あのな、ウチとウェラ、別の部屋にしてもらおか?」
「どうしてだい?」
タナさんが訊く。
「あのな、その、二人きりの時間って、今まで全然なかったやろ? それでな、この街が最後かもしれへんやろ? ゆっくりできるのは。……せやから、ウチとウェラ、さっき相談したんよ。ウチら、何もできん。できんけど、パパとママに、二人きりの時間を贈りたいんよ」
「リヴィ、あんた、変なこと期待してないかい?」
「しとる」
リヴィの「にひひっ」という笑いが聞こえる。
「そりゃ、ウチかて思春期の女子やで。するに決まってるやん?」
「ししゅんきってなに? リヴィ」
「それはな――」
「リヴィ」
説明しようとするリヴィを、タナさんが制圧する。そして笑う。
「あんたたちの配慮はわかった。隊長たちに言ってきな」
「抜かりないで。もう手配済みや」
「あんたねぇ……」
そして蚊帳の外の俺。お灸を据えられているのでまるで身動きができない。
女性陣がなんでもないような話題で盛り上がってるのを聞いている内に灸の時間が終わる。
「さてと、起き上がれるかい?」
「んー、大丈夫っぽい」
俺は起き上がって、用意されていたガウンを羽織る。
「リヴィとウェラはさ」
俺はベッドに腰掛けている二人を見る。二人は同時に振り返った。
「この旅が終わったら、どうしたい?」
「あのな」
リヴィは天井を――ランプの灯りに踊る影を見ている。
「ウチはもう決めてるんよ。旅に出る。ジェノスさんにも会いに行かなならんし。それに、竜族の里を探したいんや。おかんが絶対に秘密を破らなかった――ウチにも教えんかった、その里を見てみたいんよ」
「そうか」
「あ、でもな! でもでもな! これにはな、続きがあるんよ。ウチ、旅に出る。それは決まりや。せやけどな、ウチ、帰ってくる場所が欲しいんよ。ウチの家ちゃう。あんな誰もいてない家やなくて、パパがいて、ママがいて、でな」
リヴィは少し早口になっている。
「ウチ帰ってきたときにな、おかえり、リヴィって。そうやって迎えてほしいんよ。頼めるやろか……?」
「ダメなはずがあるか。俺とタナさんが、世界が割れるような喧嘩でもしない限り、大丈夫だ」
「それなら安心や! パパは腰が悪いから、喧嘩にならへん!」
「ならへんなー!」
ウェラが笑っている。色々物申したい気持ちにはなったが、二人の笑顔を見ていたらどうでもよくなった。
「ウェラはね、パパとママといっしょにいたいな。だめ?」
「だめなはずない」
俺とタナさんが同時に答える。
「あんたたちはアタシたちの娘さね。家族ごっこと言われようと、アタシたちは家族さ。リヴィがいい男を連れて帰ってくるのを今か今かと待つのもいいじゃないさ。ウェラが少しずつ成長していくのを見ているのも楽しいじゃないさ」
「だな。そのためには」
俺はタナさんを見た。タナさんは頷く。
「エリザを反省会に呼び出さないとな」
「そうだねぇ。と言ってる間に」
ウェラが俺にしがみついて眠っていた。リヴィは「しゃーないおねーちゃんやなー」と棒読みしつつ、俺からウェラを引き剥がす。
「ほな、ウチら、隣の部屋におるから。王国騎士さんたちもおるし、心配ないやろ」
「あ、ああ……」
リヴィの手際の良さにすっかり飲まれてしまう俺。
「ウチがパパとママをほんまに、本気で、大好きなのは間違いないんよ。世界で一番好きな男の人がパパ。世界で一番好きな女の人がママ。うちな、それしか言えへんけど。おおきにな」
リヴィはそう言うと、ウェラを抱えたまますごい速さで部屋を出て行った。
「……やれやれ」
タナさんはそう言うと、いそいそと俺のベッドに上がってきた。
「リヴィお嬢様のせっかくのご厚意だけど、あんた、どうしたい?」
「なんか逆にぎこちなくなっちまうな」
「ちがいないねぇ」
タナさんは喉の奥で笑った。
「腰でも揉みながら考えようかね」
「なぁ、タナさん」
俺のガウンを脱がせようとするタナさんを抱きしめる。タナさんは小さく息を吐く。
「俺たち、半月後には死んでるかもしれないんだろ。だから、その」
「時間を無駄にしたくない」
タナさんは俺の言いたいことを先回りする。そして俺の太ももを枕に、俺を見上げた。
「アタシは、一人の時は時間なんて考えたこともなかったよ」
「俺もさ。冬がなければ年を数えることもなかっただろうね」
「つくづく似た者同士だね、アタシたち」
本当にな、と、俺はタナさんの髪を撫でる。艶のある美しい髪だった。
「なんとなく終わるんだろうなって、俺は思ってた。けど、宿敵だったハイラッド公爵によってまんまと生かされてるんだってわかって、正直悔しいやら……」
「ハイラッド公爵とやらは、あんたとどういう関係が?」
「王家で居場所のなかった俺を世話してくれた人さ。王家はそれを利用した。いよいよ戦線が維持できなくなって、王家はハイラッド公爵に俺の首を取れと命じた」
そして、ベレム砦の戦いに至る。
彼は命を賭して俺を助け、同時に公爵家の名誉も護った。俺が足を向けて寝られる相手ではなかった。
「俺の剣の師匠でもあったよ。もっとも、それはもう使えないけどな」
「いいのさ。きっと、必要ない」
タナさんは俺の頬に手を伸ばす。
「アタシはあんたのおかげで、今のアタシも、過去の――あのアタシも認めてやれた。だからそうさね、アタシはそのハイラッド公爵にも感謝しなきゃならないね」
タナさんはそう言うと、身を起こして俺をゆっくりと押し倒した。そんな俺に、タナさんが覆いかぶさってくる。
「タナさ――」
俺の口をタナさんの柔らかい唇が塞ぐ。
「エリさん、いやかい?」
「まさか」
だけど。
「その前に、言わせてほしいことがある」
「うん?」
俺の首にキスを降らせながら、タナさんは俺を見上げる。
「俺が言うのも変なんだけどさ。その、正式に、結婚して欲しい」
「結婚?」
タナさんはキスを止めて、目を見開いた。ランプの炎が、タナさんの瞳の中で揺蕩っている。俺は頷いて、タナさんを見つめる。タナさんの唇が震えている。
「おかしいね……。一生一緒にいるって決めてたし、そういうものだって知ってたし。だけど、いざそれを聞くとさ、なんか、こう、胸が苦しい」
「こんなの、ただの傷の舐め合いかもしれない。だけど」
「あったかいね、エリさん」
タナさんは俺の胸に頬をつけて、そう言った。
「だけど、心臓が今にも走り出しそうなくらい、だよ?」
「そりゃあね」
俺はタナさんを抱き寄せる。
「ねぇ、エリさん。アタシは」
「タナさん。この言葉は一生覚えていてほしいんだけど」
「ん……?」
「一生、一緒にいて欲しい」
「……奇遇だね」
タナさんは俺の耳に囁いた。
「アタシもそう思ってる」
タナさんはそう言って服を脱ぎ捨てた。
「あんたみたいな、顔以外はカンペキな男をさ、手放すはずがないさね」
「一言余計」
「欠点の一つもない男になんて、魅力はないのさ」
まったく、この人は。
俺は苦笑する。その時、俺の頬が濡れた。
「ううっ……」
「タナさん?」
「涙が、止まらない」
「奇遇だな」
――俺もだ。
そうか、これが、愛、か。
俺はようやく、この感情を理解できたのかもしれなかった。
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