翌朝早く、俺たちは大袈裟な雨音で叩き起こされた。氷雨が幌をしつこく刺している。
「いやぁ、濡れますなぁ」
外套を纏ったタガート隊長が、うんざりした口調で挨拶にやって来る。
「さすがの我々もこの季節の雨は苦手ですなぁ」
「だろうね、得意なやつがいるとは思えないよ」
俺は身震いを一つして、毛布を手繰り寄せる。俺とタナさんの間では、ウェラが丸くなって微睡んでいる。リヴィは反対側に一人で片膝を立てて座っていた。
「では、そろそろ出発します。食事は馬車の中でお願いします」
「わかった」
俺は頷いてから、ふと外を見た。タナさんも同じ方向を向いている。
「すごい空だな……」
夜空は暗黒一色だったから気付けなかったが、今こうしてみると、おどろおどろしいばかりに濡れた黒い雲が、不自然に渦を巻いていた。タナさんは右手を後頭部に当てて呻く。
「この空のせいかねぇ。肩凝りがいつにも増して酷いし、頭もガンガンするよ」
「だいじょうぶか?」
「まぁ、あんたの腰よりはマシさ」
「なら安心――ってわけでもないじゃないか」
俺が言うと、リヴィがククッと笑った。
「夫婦漫才やなぁ。ええなぁ」
そう言いつつ、リヴィは俺にすり寄ってくる。猫か?
「実はめっちゃ寒かったんや。ママ、パパ借りてええ?」
「好きにしな」
「おおきにやで!」
俺は……毛布か何かの仲間なのだろうか?
そうこうしている内に馬車は動き始める。それからすぐに、会話すら困難なほど雨音が強くなった。まるで嫌がらせだ。案外、本当にエリザの仕業かもしれない。
それからは俺たちは終始無言だった。今日の夕方を前に、俺たちは目的地に辿り着く。そうしたら――エリザとのご対面が待っている。
昼の休憩もスキップして、俺たちは進み続ける。寒さと振動が腰に大きなダメージを与えてくるが、ここで弱音を吐くのも格好がつかない。一方で、タナさんはすっかり肩凝りにやられてしまったようで、俺に寄りかかったまま呻いている。頭痛も酷いのだろう。
「ごめんね、エリさん。湿布を代えてやりたいところなんだけどさ、昨日ので材料が――」
「まだ効いてるから大丈夫だ」
「うそつき」
タナさんはそう言って笑い、直後「あいたたた……」と頭を抱え込んだ。タナさんがこうまで苦しむということは、相当な痛みがあるということだ。ウェラは俺たちの間でやっぱりウトウトし続け、リヴィは俺の肩に寄りかかって完全に眠っていた。この状況で完全に眠れるというメンタリティが、リヴィの強さの秘訣かもしれない。
「雨、少しおさまったかな」
俺はいい仕事をしている幌を見上げて呟く。確かに互いの声は聞こえる程度にまで、雨は落ち着いたように感じる。
「まったく、忌々しい。でも、頭痛は少しだけマシになったかねぇ」
「それはよかった」
外はどんよりと暗い。そして、刺すような寒さが俺たちを抱いている。
雨が霧雨に変わった頃、馬車が動きを止めた。すぐにタガート隊長がやってくる。誰かの馬が、どこか不満げに嘶いた。
「どうした?」
「カルヴィン伯爵の城下町に入ります」
「……わかった」
俺は短く応え、東の空を見た。暗雲もあいまって、もうすっかり暗い。風景はことごとく闇に溶けていた。否応なしに不吉な気配を感じさせられる。御者の肩越しに西の空を見れば、血のように赤い空が、黒雲の間隙から覗いている。
「なんや……」
目を覚ましたリヴィが御者の方へ歩いていって呟いた。タナさんもその後を追う。
「これは……」
俺は立って歩くのも辛いので、馬車の後ろからそれを見た。
転がっていた。数多くの白骨が。
ふと視線を巡らせると、建物の上に無数のカラスが佇んで、俺たちを凝視していた。その黒い姿は空に溶け、影に溶け、しかし確実に俺たちを観察していた。
「白骨死体がそこら中に転がっとるで……」
「争いが起きた風でもない。病気だったら外でなんて死なない」
三人を振り返りながら、俺は言った。タナさんは険しい表情で頷いた。
「エリザの奴の仕業さね。どうやったかまでは知らないけど、エリザになら何だってできるだろう」
「あのな、ママ。疑問やってんけど」
「なんだい?」
「エリザがな、こないなことをやれるっちゅうなら、どうしてウチらはひとり残らず無事なん? 盗賊とかけしかける必要もないやんか」
「そうさねぇ」
タナさんは腕を組む。馬車が速度を落とし始める――目的地が近いのだ。
「たぶん、この期に及んでアタシとエリさんを味方にしたいんだろうねぇ。アタシたち相手に、下手を打てば、自分の積み上げてきた髑髏の数が大幅に減っちまうってことかもしれないねぇ」
「でもな、この前の爆発したやつは、ママを狙ってたように見えるんねやけど」
「多分、アタシを狙えとしか言われてなかったんだろうねぇ。そしてエリザはアタシやエリさんが簡単にはやられないと思っていたとか、ね」
「なるほどねぇ……」
リヴィはそう言うと、外套を纏った。いよいよ馬車が止まったからだ。俺たちもそれぞれに衣装を整える。仮にも最終決戦だ。身だしなみにも気を使う。
リヴィを先頭に俺たちは馬車から降り、そして揃って空を――城の尖塔を見上げていた。
「雲が……生まれとる……」
上空では猛烈な速度で雲が流れ、その轟々とした衝撃音が俺たちにも伝わってくる。暗雲の生まれる場所――エリザの待つ場所としては、この上ない舞台装置だった。
「さて、と」
俺は馬から降りたタガート隊長を振り返る。
「みんなにはここに残ってもらう」
「それは――」
「いや、帰れって言ってるわけじゃない」
俺はタナさんを見た。タナさんはニヤリと口角を上げた。
「馬車を守って欲しいのさ、あんたたちには」
タナさんは上を指差した。黒い立方体がいくつも浮かんでいる。見間違うはずもない。狂った精霊だ。それが、見えるだけでも十数体いる。
「すごい数……」
ウェラがその見た目に似つかわしくない鋭い表情を見せている。タガート隊長は空を見て「なるほど」と頷いた。
「馬車と御者殿は我々が死守しますよ、エリさん。こいつがなければ、エリさんだけここに放置されてしまいますからな!」
「そればかりは本気で勘弁してほしい」
俺は剣を杖にしつつ苦笑する。腰は……正直、激しく痛む。だがここに来てのんびりマッサージを受けるというわけにも行かないし、狂った精霊たちがそうはさせてはくれまい。
「もし、アタシたちが失敗したら、その時はあんたたちの出番さ。あんたたちにはあんたたちの目的もあるだろうけど、それはアタシたちが敗れた後に頼むよ」
「我々の目的は、この馬車を護ることですが?」
タガート隊長は白い歯を見せて笑い、「他にあったかな?」と部下たちに問いかける。部下たちは揃って「さぁ?」と肩を竦める。
「……ということです。ご安心を」
笑いながら、兜の面頬をガシャリと下ろした。他の王国騎士たちもそれに倣う。
「あんたたち、最高にかっこいいよ」
タナさんは髪を靡かせながらそう言った。タガート隊長は兜をコンコンと叩く。
「町の子どもたち以外から言われたのは初めてです」
「三十も過ぎたババアからじゃ不満かい?」
「とんでもない。我々にとっては最高の報酬ですよ」
そう言って、タガート隊長は「抜剣!」と怒鳴った。抜かれた六本の剣が、赤と黒の空の色を反射する。上空の黒い立方体たちの動きが不規則なものから整然とした円運動に変わる。
「さ、エリさん。リヴィ。ウェラ」
タナさんが言うと同時に、城の正玄関の扉が音を立てて開いた。タナさんの目がすぅっと細められる。
「あちらさんが呼んでる。行ってやろうじゃないか」
轟くような風の中、タナさんは言う。俺は「そうだ」と王国騎士たちを振り返る。
「全部終わったら、事務仕事は頼むよ」
苦手なんだ、ああいうの。
俺は右手を上げて別れを告げ、タナさんとともに城内へと入った。
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