火の精霊がいなければ、俺たちはこの真っ暗な城の中で途方に暮れていたかもしれない。念のためにランタンは持ってきていたが、それだけではこの圧力のある暗闇に心を捻り折られていたかもしれない。
「ウ、ウチ、正直震えが止まらん」
「心配するな。俺も腰が痛い」
「アタシは肩がねぇ」
「ウェラは……ええっと、ええっと……」
そんな会話をしている内に、火の精霊は周囲の燭台という燭台に火を点けていた。なんとも便利である。おかげで俺たちは、この無駄に広い構造物に臆せずに済む。揺らぐ影は俺たち自身のものだ。何も恐れる必要はない。
「さて」
火の精霊が消える。万が一狂化させられると厄介だから、この巨大な扉の前で一度引っ込めたという次第だ。
「リヴィ、震えは止まったか?」
「む、む、武者震いや! そう、こ、ここ、これは武者震いやで!」
リヴィはゴクリと唾を飲む。
「リヴィ、とりあえず剣を抜け。何が起きるかわからない」
「りっ、了解や」
リヴィはガナートに託された剣を抜き放つ。淡く輝くその魔法剣は、今となってはリヴィの立派な相棒だ。
扉が音もなく勝手に開きはじめる。待っていたぞ――ということか。
部屋の中は輝きに満ちていた。王宮ですら見たことのない巨大なシャンデリアが、仄かに揺れては影を生んでいる。そして床の上では無数の赤い蝋燭が、ゆらゆらと足掻くようにして、光を吐き出している。
「ここは……ダンスホールだな」
埃の気配すらない黒曜石の床は、まるで濡れたように輝いている。
「嫌だねぇ」
タナさんが首を振る。
「あの蝋燭たちの配置。その全てに意味があるんだよ」
「そうなのか」
「これはね、いわば呪いの形だよ。永遠に消えない蝋燭の炎さ」
「永遠に消えない?」
俺とウェラが同時に訊いた。タナさんは頷く。
「人の脂で作った呪いの蝋燭さ、これは」
「人の脂……」
リヴィがかすれた声で繰り返す。タナさんは静かな声で続ける。
「昔、アタシに魔法の何たるかを教えてくれた魔女がいてね」
その魔女は、人の命を蘇らせる研究をしていた――と、タナさんは言う。
「その時に、こんな?」
「そうだね。アタシがその事実を知ったのは……ってこんな話は今はどうでもいいさね。とにかくここは――いや、多分この城そのものが牢獄。魂を留め置くための巨大な装置なのさ」
なんともおぞましい。俺はリヴィの肩に手を置いた。リヴィは「だい、だいじょうぶや」とか言っているが、大丈夫な顔色ではない。
俺はリヴィの前に出て、ダンスホールの最奥部、巨大な階段に向かって声を張った。
「カルヴィン伯爵。客が来たというのに、歓迎の一つもないのか」
わん、と、俺の声が反響する。シャンデリアの輝きが増す。蝋燭の炎が全く不規則に揺れ始める。刃のような光が床に壁に映り跳ね、俺たち自身の影が俺たちを幾重にも取り囲む。
そして、音が鳴る。同じ音色でいくつもの音程が重なりあって、ダンスホールの壁や床や天井で跳ね返り、踊る。その金属的な音色は――。
「オルゴール?」
タナさんがやや疑問形で口にする。俺は「だな」と同意する。
だが、こんな大きな音を出せるオルゴールに遭遇したのは、二十数年前の王城が最後だ。延々と音楽を流し続けることの出来る巨大な金属の円盤。それが撥条仕掛けで動いている、はずだ。たしかこれは恐ろしく高度な技術で作られているとかで、当然恐ろしく高価なものだったはずだ。王城で聞いた記憶によれば、オルゴールを一台買うくらいなら、楽団一つと十年契約したほうが安い、らしい。
そもそも、タナさんがなぜ「オルゴール」という単語を知っていたのかも不思議なくらいだ。
程なくして、その音の反響で頭がくらくらしてきた。ウェラがその小さな手で、俺の右手を強く握ってくる。
「怖いよ、パパ」
「大丈夫だ」
根拠なんかないが、多分大丈夫。その時、奥の階段の中央辺りに、人影が現れた。
『歓迎が遅れて申し訳ない』
年老いた男の声のようにも聞こえたが、それはひどく歪んでいる。それが聞こえた瞬間、リヴィが剣を構えて先頭に立った。彼女はもう震えていない。
『人の進化に立ち会えて、実に幸運だな、君たちは』
老人が階段を降りてくる。それはまるで操り人形のようにぎこちない動きだった。この男がカルヴィン伯爵……なのか?
『王国のみならず、世界は戦乱に満ちる』
「やれやれだ。また規模が大きくなったものだ」
俺はウェラの頭を撫でながら言った。タナさんは短剣を抜いて右手でくるりくるりと回し始める。
『悪魔の子、そして、力ある魔女――君たちの力があれば、それはより早く完全になる』
「魔女は――引退したんだよ」
タナさんが舌打ちする。
「それに、あんたやエリザに協力するつもりはさらさらないね!」
『この不完全にして不安定な世界を、完璧な調和の上に。それがエリザ様の大望』
「だから?」
俺とタナさんの声が和音を創る。タナさんが畳み掛ける。
「そもそもさ、カルヴィン伯爵さん。エリザ自身が不完全じゃないか。悪魔の甘言に唆される程度にはねぇ」
『否――』
カルヴィン伯爵は足を止めて首を振る。
轟々と繰り返される旋律に、危うく意識を持っていかれそうになる。なるほど、そういう狙いでのオルゴールか。俺はようやくそれに気が付く。
『エリザ様は完全。あらゆる人間を導く力を持っていた。なれど、その力を脅威と感じた愚かなる教会によって陥れられ、断頭台へと送られた!』
「その教会と今度は手を組もうって話だろう」
『彼らは悔い改めた。そしてエリザ様の使命を理解した』
使命、ねぇ。他人に向けて振りかざすような使命は、たいがいがろくなもんじゃない。
『ヴァルナティ様の子、エライアソン。君が我々に手を貸せば、完全世界は近い』
「冗談じゃねぇよ」
俺はゆっくりと近付いてくる老人に向けて吐き捨てる。
「俺は、いや、俺たちは、お前たちになど手を貸さない。絶対に、だ」
「そうさ、魔女になっちまった時点で、人の負け。その魔女がどんな理想を掲げようが、それは……悪魔の言葉さ」
噛みしめるようにタナさんは言った。
『君もまた大いなる魔女――』
「引退したっつってんだろ!」
タナさんはまた短剣をくるりと回した。
「カルヴィン伯爵。あんたに用事はないよ。今すぐエリザのところへ案内してくれるって言うなら、まだ猶予があるさね。アタシたちがお仕置きしてやりたいのは、あんたじゃない。エリザさね!」
『まだ理解できぬのか』
「理解はしたさ」
俺は前に出ようとしているタナさんを押しのける。
「理解した上で、承服できないと言っている。お前こそ理解しろ、完全なる世界など、世迷い言に過ぎない。そんなもの、悪魔の誘惑に過ぎないということをな!」
『愚かな……! ヴァルナティ様はなぜこのような――』
「知らねぇよ!」
俺は五歩の間合いに入って止まった老人に正対――しようとしたところでリヴィに突き飛ばされた。リヴィの剣が何かを弾く。それが人脂の蝋燭を何本か削り崩す。
「パパ、迂闊やで!」
「お、おぅ」
タナさんに助け起こされる俺。格好悪いったらない。カルヴィンを見るとその眼窩が青く燃えていた。眼球があるべき場所は、ぽっかりとした空洞だ。もはや――人間ではない。
ウェラがカードを空中に放る。
紅蓮の巨人が姿を見せる。
巨人が両手から炎を放つ。カルヴィンもその目から青い炎を放出する。
「精霊さん……っ!」
ウェラの悲鳴。信じられないことに、どう考えてもカルヴィンの火力の方が上だった。
「ウェラ、精霊を還せ!」
「う、うん!」
精霊がふわりと消える。カルヴィンの両目の炎が止まる。代わりにその背後に輝く球体が二つ浮かび上がる。
「なんやなんや!」
リヴィがまた何かを弾き返す。その何かは速すぎて、俺には見えない。
「パパ! こいつ、切り捨ててええんやな!? 手加減は無理や!」
「自分の無事だけを考えろ! 何したっていい!」
俺は痺れ始めた足を叱咤しながら怒鳴る。その頃にはリヴィはもうカルヴィンに切りかかっていた。飛んでくる何かを物ともせずに。頬に傷を作りながら。
「って、わっ! なんや!」
剣がカルヴィンに命中する直前に、何かで大きく弾かれた。リヴィは尻もちをついたが、すぐに跳ね起きる。ダメージは小さかったようだ。
「結界さね!」
タナさんはそう言うと、あろうことかカルヴィンに掴みかかった。左手で襟首を掴み、絞り上げた。右手には短剣があるが、中途半端な位置で固まっている。動けなくなっているのだと俺は理解する。
『なにをするか、無礼者!』
「あんたを! ぶちのめすんだよ!」
タナさんはドスの利いた声で怒鳴ると、カルヴィンを思い切り引き倒した。無様にうつ伏せに転がる老人に、ほんの一欠片の憐憫の情を抱かないではなかったが、それもすぐに消えた。
心が急速に冷めていくのを覚える。二十年前の、あの頃のように。
「パパ」
……今、ウェラが俺を呼ばなければ、危なかった。その小さな温かい手は、俺に体温を戻してくれる。そうだ、こんな所で正気を失っている場合ではない。
「大丈夫だ、ウェラ」
「うん」
大丈夫。俺は自分にもう一度言い聞かせ、倒れて呻いているカルヴィンに向けて言った。
「あんたは被害者の側だと俺は思っている。エリザに魅入られた不幸。それは確かにそうだ。だが、その結果、あんたは何をした。領民をいくら殺した」
『エライアソン殿下ともあろう方にそう言われるとは、恐悦至極の極み』
老人はニヤリと口角を吊り上げる。タナさんが俺とリヴィを思い切り後ろに引っ張る。俺はかろうじて尻もちは免れたが、剣は乾いた音を立てて床を転がった。
「!?」
「ちがう、エリさん! こいつ、エリザに魅入られたわけじゃない!」
タナさんが俺の剣を拾い上げる。
「こいつが、魔女だ!」
「どういうことだ、タナさん!」
――その答えは、すぐに出た。
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