老人は白い炎を上げて燃えた。
哄笑を遺して、その身体は瞬く間に灰になる。タナさんはガルンシュバーグを抜きかける。だが、それをリヴィが止めた。
「ママ、こいつはエリザとはちゃうってことでええんやな?」
消えた老人と入れ替わるようにして俺達の前に現れたのは、上半身は不自然に腕が長い白蝋のような人間、下半身は人の何倍もの大きさのあるスズメバチの尾部のような、歪な姿だった。下半身の金と黒のコントラストが禍々しいことこの上ない。羽は無いが、どういうわけか人一人分ほどの高さに浮かんでいた。
鳴り止まないオルゴールの音が、一層強度を上げていく。
「悪魔化かよ……」
「油断したよ。間に合わなかった……!」
タナさんが唇を噛んでいる。リヴィが外套をはためかせながら前に出る。
「こいつはウチがなんとかする。ママとパパはエリザをしばいてきて」
「無茶言うなよ、こいつは――」
「ウェラもリヴィを助ける。リヴィのおねえちゃんだからね!」
「はいはい、ねーちゃんねーちゃん」
そう言いながらも、カルヴィンだったものの吐き出す光の槍を次々と弾き返していくリヴィ。ウェラはカードを手に、タイミングを伺っている。いつの間にか、この子も戦士の顔をするようになっていたことに気付く。
タナさんが叫ぶ。
「あんたたちを置いてなんて行けないよ!」
「心配せんでええ。いざとなれば逃げ回るだけや!」
リヴィの言葉に、タナさんは足を踏み出そうとする。が、俺はそれを止める。
「行くぞ、タナさん。ウェラもリヴィも立派に戦える」
「何言ってるんだい、二人は……大事な娘だよ」
「だからこそだ」
「エリさん……!」
タナさんは数秒間の逡巡を見せたが、やがて頷く。
「わかったよ、エリさん」
タナさんは短剣で何かを弾く。リヴィに被弾が増えてきた。あの鎧がなければ危なかったであろう被弾もある。外套もだいぶダメージを負っている。
「リヴィ、ウェラ、絶対に死ぬんじゃないよ」
「もちろん、や!」
リヴィはハチの悪魔から降り注ぐ光の槍をかろうじて躱し、一発を悪魔に向けて弾き返す。命中には至らなかったが、そこに大きな間隙が生まれた。
「タナさん、抜けるぞ」
「……わかった」
「ほな、行くで!」
リヴィがバランスを失ったハチの悪魔に斬りかかる。ハチの悪魔はその両手を振り回して、リヴィを打ち倒そうとする。間一髪、そこにウェラが呼び出した火の精霊の火炎が炸裂する。
『――!?』
俺たちはハチの悪魔の下を滑るようにしてくぐり抜ける。腰はタナさんのおかげでギリギリ無事だ。走れはしないが、普通程度には歩ける。
「この戦いが終わったらな、ウチは自由気ままな旅に出るんや!」
リヴィの怒声が聞こえる。悪魔の咆哮が俺たちから遠ざかる。
「精霊さんっ!」
ウェラの声がオルゴールの爆音を引き裂く。
「おともだち全部呼んで! カード全部あげるからぁっ!」
『承知!』
俺たちの前にも青や緑の巨人が姿を見せた。ハチの悪魔は巨大だったが、精霊たちもまた強烈だった。
「パパ、ママ、はやく! いまのうち!」
ウェラの声が俺たちに届く。もしかすると風の精霊の技かもしれない。
俺たちは階段を駆け上がる。後ろを振り返る余裕はない。一刻も早く片付けなければ、リヴィたちが危ない。
「アタシ、迷ってる」
タナさんが俺の手を引きながら言う。
「本当にこれでいいのか、迷ってる」
「俺は迷ってない」
俺はハッキリと言い切った。
「俺たちは俺たちの戦いをすればいい」
「ははっ!」
タナさんはまた前を向いて走り出す。俺の剣を左手に。俺の手を右手でつかまえて。
階段を上がりきった先の扉。その先の廊下。その更に奥の扉。タナさんは何かに引っ張られるようにして進んでいく。俺はタナさんがいなければ前に進めもしない。タナさんにも焦る気持ちがあるのが伝わってくる。だが、タナさんは、俺の手を離そうとはしなかった。
「行くよ、エリさん」
巨大な観音開きの扉を前に、タナさんは俺を振り返る。俺は「ああ」と頷いた。
それを待っていたかのように、扉が重たい擦過音と共に開いていく。
その巨大な広間の最奥部の椅子に、白いドレスを纏った若い女性が座っていた。この世ならざる美しい金髪に真紅の瞳。その佇まいは、まるで玉座にいる女王であるかのようだった。彼女がエリザ女公爵。そしてあれがおそらくは、在りし日の姿なのだろう。なるほど、異様なまでに蠱惑的だ。
俺はタナさんの左手にある長剣をちらりと確認してから、タナさんの前に出た。
「悪いが、さっさと決着をつけさせてもらうぞ、魔女エリザ」
『我は――』
エリザはゆっくりと立ち上がる。その声は若い娘のものだ。
『貴様と争うのは本意ではない』
「御託はもうたくさんだ。一刻も早く、お前をあの世に送り返したい」
『ははははは!』
笑う魔女。
『ヴァルナティの子にして、悪魔の顕現者――血のエライアソン。我は貴様の行為、その全てを知っている』
「だからどうした。それを過去のことと片付けるつもりは毛頭ない」
俺が言うと、タナさんがすぐ隣に並んだ。視線が合う。エリザは朗々と語る。
『貴様の起こした戦は、されど、謂れなき差別が発端であろう。ヴァルナティの子の再来と呼ばれた貴様がそのまま生きられたのならば、貴様の裡に在った悪魔は、目覚めることはなかっただろう』
「その仮定に意味はあるのか」
『どうだ、悪魔の子、そして我らが子、エライアソン。世界の半分の魂――それで過去、いや、玄黄天地森羅万象を変えられる。我の蘇りよりも遥かに重い対価ではあるが、それも可能なのだ』
「だから?」
俺はタナさんの右手を握り直す。タナさんも握り返してくる。
「俺の罪は俺のものだ。過去を変えるだのなんだの、とんでもない話だ。俺はどうにかこうにか生かされてきた。どういうわけか死ななかった。そして今がある。過去の罪は重い。後悔は鋭く深い。けどな、エリザ。俺は現在を捨てる気は一切ない!」
「死が二人を分かつまで――」
タナさんが言う。
「アタシはこの人とずっと一緒。たとえ死んでも、行く先は地獄。すぐに会える」
『ははは! 死んでいったい何になる? それよりも生きて我の助けとなれ。さすらば、我はより完全になる』
「はん!」
タナさんが鼻で笑う。
「それはあんたが不完全だということの自白ってことでいいのかい?」
「タナさん、時間がない」
俺が言うのと同時に、エリザが「交渉決裂、か」と、両手を広げた。
『なれば、貴様の裡なる悪魔を呼び起こせ! 我と貴様の裡に眠る悪魔。どちらが世界の覇者に相応し――』
「いやだね」
俺はタナさんから剣を取り返そうとしたが、タナさんに手の甲を叩かれた。
「これは、あんたが抜くべきものじゃない」
タナさんは右手で短剣を抜いた。そしてくるりと回して前に出る。
「タナさん、何をするつもりだ」
「アタシはね、やっぱり魔女なのさ」
「どういう――」
「魔女を殺せるのは、魔女。アタシは本物の魔女に戻る。エリさん、後は――」
タナさんは駆け出した。「冗談じゃない」と後を追おうとするも、身動きが出来ない。足が動かない。
「タナさん!」
床から足を引き剥がす。魔法か何かの、得体のしれない力だ。一瞬で詰められるはずの距離が、今の俺には途轍もなく遠い。
タナさんの全身を何かが殴打していた。衝撃波が青く抜けている。
「タナさん!」
「エリさん、来るな!」
タナさんはエリザに短剣で斬りつける。だが、何かの力場でことごとく弾かれている。
「エリさん、アタシがなんとかするから、さが――」
「いやだね!」
俺はようやくタナさんの隣に並んだ。タナさんの左手にある長剣に手をのばす。
「それを、俺に」
一撃で片を付ける。俺は柄に手をかける。
『その剣は我のものなり。返してもらう』
「いいともさ」
タナさんは短剣を投げ捨て、俺の手を払い除けて、ガルンシュバーグを抜いた。剣から放たれた叫び声のようなものが、幾重にも反響する。幾重、いや、そんな生ぬるいものじゃない。空間全体を絶叫と狂笑が満たしている。
『それは我と我が悪魔の契約の剣。さぁ、我が下へ!』
エリザの背後に、あの白い悪魔が現れた。上半身しか見えていないが、それでも圧倒的に巨大だった。手の拘束具はなく、目に刺さっていた剣や槍もない。眼窩は暗く、白い炎が燃えている。猿轡もない。
タナさんはエリザに向かって剣先を向ける。俺は剣を握るタナさんの手を握った。
「エリさん?」
「これは、俺が抜いたことにはならないんじゃないか?」
「ははっ」
タナさんは笑う。
「それはとんだ詭弁さね」
「かな?」
「でも、嫌いじゃない」
「だろ?」
耐えろよ、俺の身体。一撃でいい……!
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