俺はタナさんと手を重ね、身体を支え合いながら、一歩また一歩とエリザと悪魔に近付いていく。強烈な力場、圧倒的な奔流。津波のようなそれに溺れながら、俺たちは進む。悪魔が大きい。エリザの発する圧力も痛いほど。
「!」
エリザの姿が悪魔に溶け込んでいく。
『我らが子よ、なぜ人間如きにそこまで肩入れをする』
巨大な悪魔がエリザの声を発する。アンバランスに過ぎて頭の処理が追い付かない。
「エリさん、前に、行くよ」
近付かない悪魔。巨大すぎて近付いてる実感がない。けれども、一歩、また一歩と進んでいる――それは事実だ。だが、どういうわけか、近付いている気配がない。
『なぜなのだ、我が子よ……』
「なぜも何も、ない! 俺はっ、人間だ!」
俺が叫ぶと同時に、魔力の津波が俺たちを襲った。全身をくまなく殴打されるような感覚に、俺もタナさんも思わず呻く。だが、タナさんは左手を俺の腰に添えて、また前に押し進んでいく。
『悪魔の子――その事実を否定することで何を得られよう』
「だからなんだってんだ!」
輝く力場が俺たちを阻む。だが突き出されたガルンシュバーグがそれを少しずつ砕いていく。俺一人では到底成し得ない。タナさんの力あってのものだ。
「人間だってな、悪魔になる。自分の内に、誰もが悪魔を飼っている。俺が悪魔の子だろうが、なんだろうが、それ以前に、俺は! 人間だ!」」
『あははははははははは!』
悪魔の哄笑。それは広間をみっしりと満たす。
『罪は不可逆! 烙印は消えぬ! 我らは選ばれし者。ヴァルナティの力を受け継ぎし者、そして、大魔女の力を持つ者――。我らの力があれば、世界はより完全になる!』
「悪魔が生きやすい世の中なんて要らない」
俺は言う。だが、エリザは諦めない。
『我も、殺伐たる世界を望むわけではない。選ばれし者による平穏な世界。完全にして罪なき世界を望む。そのために、我は無数の代償を捧げてきた』
「選ばれし者……その下にはさぞ多くの死者が蠢いていることだろうな」
『それが何だ。淘汰される運命にあるものを淘汰して何が悪いのか。力なき者、智慧なき者――元はと言えば、貴様らとて、そやつらのような低劣卑陋なる者どもがいなければ、悪魔や魔女になどならずに済んだのであろう?』
後半部は否定出来ない。だが、前半部には大反対だった。
「力あるやつの一存で、淘汰するべきされるべき、そんな考えには俺は反対だね。命の選別をする権利など、なんぴとにもない!」
『貴様のその言葉、それが人類の総意だとでも?』
その問いは悪魔の声で放たれた。
「さぁ?」
俺とタナさんの声が揃う。
「人類の総意、そんな大袈裟なものは知らない」
「アタシたちを動かすのはね、アタシたちの傲慢な正義さね!」
『それだけの罪を背負いながら、なお正義を騙るのか』
「悪魔と魔女に言われたかないさね」
タナさんは左手で俺を抱き寄せる。俺も右腕をタナさんの腰に回す。
「あんたは幾度でも蘇る。違うか」
『左様。人類が滅ぶまでは』
眼窩の奥に絢爛たる白炎を煌めかせ、悪魔は答える。
『人類が自らの意思で我らを駆逐するまでは、我らは永遠なり。それは永久に訪れぬ瞬間なれど』
悪魔の声を聞きながら、俺たちはガルンシュバーグで結界を割り破っていく。だが、鉄砲水のような魔力が、俺たちの前進を阻む。タナさんは鋭い声で言い放つ。
「教会と手を組んでりゃ、そりゃ永遠にその時は来ないだろうさ」
『我は――』
エリザの声が聞こえる。
『必然。そして、必定。この汚穢に満ちた世界を浄化し、より完全なる世界を生むために、我は世界に蘇らされた。それはとりもなおさず、世界が我を今、必要としているからに他ならない。我は神に愛されし魔女――』
「魔女が神を語るとね、ろくなことになりゃしないさね!」
『これは我が運命にして、使命。我は全ての夢を実現する義務がある!』
「ならば言わせてもらうぞ、悪魔!」
俺は左手でガルンシュバーグを支える。タナさんの右手と、その手を包む俺の左手が、呪いの剣を握り締めている。
「お前のそれを運命だというのなら! 今ここで俺たちがお前を討ち果たすのも運命! 神様の野郎の思惑だ!」
『神は我が父――永劫なる神性!』
悪魔がエリザの声で咆哮する。光の矢が降り注いでくる。あんなものを避ける術なんて、どこにもない。
バリッ――そんな音が俺の内側で響く。強風で大木が倒されるときのような音だ。俺たちに着弾しようとしていた光の矢は、俺たちを包んだ半透明の輝きで弾き返される。
『――!?』
エリザの動揺が聞こえる。
「エリさん。抑えな。あんたの中の悪魔が――」
「違う」
これは俺のものじゃない。俺の中のあいつが目を覚ましたなら、この忌々しい腰の痛みだってきっと雲散霧消するはずだ。だが、現実問題、腰は痛い。立っているのがやっとだ。
「タナさんの力だよ、これは」
「まさか……」
タナさんは呻く。だが、俺は「間違いない」と繰り返す。
「なるほどね」
頷いたタナさんは、俺の腰に回した手に力を込めた。
「全てに意味がある、そういうわけかい」
「……ということらしいな」
俺たちは二人で突き進む。ガルンシュバーグの呪いが、俺たちを護る。それは呪いの力で生かされている俺たちにとっては、まったく相応しい鎧だった。
『なれば散れ! 我と我らが教会の権能にて、我は貴様らを罰しよう!』
「ヴァルナティがどうのとか!」
そんなものは知らない!
ガルンシュバーグがエリザと悪魔の結界を打ち破っていく。旱魃に罅割れた地面のように、俺たちとエリザの間の空間が割れていく。不均等に、深々と、みっしりと詰まった魔力の世界が割れる。
「なぁ、タナさん。これは魔法?」
俺はタナさんの方に顔を向ける。タナさんは逡巡の末に頷いた。
「……うん」
「でもさ、俺の手を通して出てるよな?」
「……ああ」
「なら、タナさんの魔法とは言えないよな?」
「詭弁さね」
タナさんは俺を見て目を細めた。
「でも――」
音を立てて空間が裂ける。名状も形容もできないエリザの嬌声に、溺れる。
「でも、大好きだよ」
タナさんの囁き。それが空間を粉砕する。
悪魔の放つ聖なる光は、俺たちの呪いによって跳ね返される。
『そんなはずは……!』
悪魔が太い腕を振り下ろす。床が砕け、空気が刃と化す。だが、それはエリザ自身が展開していた魔力の密度によって減衰する。ガルンシュバーグが悪魔の手首に深々と突き刺さる。まるで手応えのない一撃。しかし、悪魔は仰け反った。
『!?』
そこに大きな間隙が出来る。俺たちは前に前にと進んでいく。タナさんの手が俺を前に進めてくれる。俺はタナさんの手を握る左手に、力を込める。
「ガルンシュバーグ! 気合と! 根性を! 見せろ!」
怒鳴っていた。呪いの剣が、悪魔の胸に突き立っていた。俺たちは頷き合い、同時にそれを根本まで押し込む。悪魔の力場が蜘蛛の巣のように罅割れる。強烈な衝撃波が俺たちを襲う。ガルンシュバーグの呪いの力でも、それらを完全には中和できない。
「くそっ、まだか!」
キラキラと煌めく結界の欠片が俺たちの周りに雪のように降り注ぐ。悪魔は――いや、違う。エリザは、絶叫していた。悪魔の裡にあるエリザが呪詛を叫んでいる。
その一方――。
『クククククッ! ハハハハハハハハハ!』
悪魔が笑った。おかしくて仕方がない。そんな哄笑を広間に響かせている。その眼窩の奥の白い炎がギラリと輝いた。
『よかろう! 我は十分に楽しんだ』
「え……?」
俺とタナさんは剣を握り締めたまま顔を見合わせる。
『向こう百年黙っていろ――それが貴様らの望みであったな』
「……そうさ」
タナさんの方が先に立ち直った。
「百年は黙っていておくれ」
『よかろう!』
乱杭歯を見せながら、悪魔は咆哮する。
『我はその時を待とう。なれば、汝らが積み上げてきた対価の数々、全て貰おう』
「悪魔を太らせたくはないぞ!」
俺は言う。タナさんも頷いた。が、悪魔は『否』と首を振る。
『これは、我が百年眠るための対価。……貴様らの言う罪にはあたるまい』
「それで俺の罪がチャラになっただなんて思ったりはしないぞ」
『はははは! それこそ好きにすれば良い。罪は己にて背負う心の楔。それを如何に解釈しようが、我と我らの知ったことではない』
白い悪魔は銀の翼を広げる。輝きが部屋を満たす。
『なれば――』
「待ちな」
タナさんが光と化し始めた悪魔を止める。
「エリザは、あいつはどうする」
『あれは我らに対価を払い終えてはおらぬ。百年の暇つぶしに使わせてもらおう』
「まったく、悪魔的さね」
『如何にも』
悪魔はまた哄笑する。その度に広間が輝きに満ちていく。
「待て、カルヴィンはどうなった!」
『さぁな。自身で確かめるがよかろう』
悪魔は消える。最後の光の欠片がふわりと明滅した。
『さらばだ、人間どもよ』
輝きは消えた。部屋は暗闇に沈む。
「タナさん」
「見てごらん、エリさん」
タナさんが指差したのは遠くに開いた巨大な硝子窓だ。そこから一閃、太陽の残滓が入り込んできた。その輝きが主のいなくなった豪奢な椅子と、俺たちの姿を照らしている。ガルンシュバーグは……タナさんが静かに鞘に戻した。もう金輪際、その刃を見ることはないだろう。
「パパ! ママ!」
いつしか閉まっていた扉が、豪快に蹴破られる。哀れ、その扉の蝶番は外れ、扉の本体は音を立てて床に叩きつけられた。
「リヴィ! ウェラ!」
俺たちは振り返って、そして吹き出した。二人とも、ものの見事に全身煤けていたからだ。元の服の色も鎧の色も、もはやわからない。肌や髪さえ真っ黒だった。
「パパもママも、怪我しとらん? 大丈夫? エリザはどないした?」
「ははは、一度に訊きすぎさね。でも、アタシたちは大丈夫。エリさんもまだ立ってるしねぇ」
「なんとかな」
――というより、ウェラとリヴィが無事だったことの喜びが大きすぎて、俺は腰の痛みを忘れていた。
「エリザもしばきたおしたん?」
「がっちりお仕置きしてやったよ」
俺は「タナさんがね」と付け足すのを忘れない。タナさんは「まぁ、そうかねぇ?」と……否定してくれない。せめて「一緒にやった」とか言い直してほしかったな。
「それよりあんたたちの方がよっぽど一大事にみえるけどねぇ。真っ黒じゃないか」
「ちょっと髪が焦げてもうたけど、大丈夫や。ウチら、ずっと逃げ回ってただけやから」
「がんばったのは精霊さんたちやからな!」
「ねーちゃん、訛っとるで?」
「ふぇ?」
目を丸くしたウェラだったが、やがてケラケラと笑い始めた。
「すごくこわかったんだ」
笑いながら言うウェラ。
「だけど、精霊さんが助けてくれて、リヴィががんばってくれて、だから、ウェラもがんばろうって」
「良い子だな」
俺はウェラの頭に触れようとして――膝を付いた。
ぐぎっという音とともに、猛烈な痛みが腰を中心に全身を駆け抜けたのだ。
「パパ!」
リヴィが支えてくれなければ、あわや黒曜石とキスするところだった。前歯くらいは折れていたかもしれない。
「これは――ぎっくり腰、か……」
噂に聞いていたアレだ。それだけは常々回避するように気を付けていたのに。最後の最後で油断した。
「パパ、大丈夫? 怪我したんか? なぁ!?」
「だ、大丈夫……」
「ぎっくり腰かい」
タナさんの「ふむ……」という声が頭上から降ってくる。
「それ、魔女の一撃って言うんだ、別名ね」
「ええ?」
俺は頑張ってタナさんを見上げた。
「魔女は引退したんじゃなかったっけ?」
「えっ?」
タナさんは目を丸くする。そして、少し慌てて右手を振った。
「ち、違うよ! アタシ、何もしてないから! ほんとに!」
「ほんとかなぁ」
俺が言うと、タナさんは腕を組んでそっぽを向いてしまった。
「リヴィ、エリさん背負って。三人で凱旋と行こうじゃないさ」
「りょーかいや。黒ぅなるけどな、堪忍、堪忍な!」
ひょいとリヴィに背負われるおっさん。剣はタナさんが持ったままだし。ありとあらゆる語彙を尽くしても足りないくらいに格好が悪い。そのくせ、腰が痛くて脂汗。
「ちょっと待って、タナさん。三人って?」
「エリさん、あんたはそれで、凱旋って言えるのかねぇ?」
「刺さるね、相変わらず」
「アタシは、変わらないよ」
タナさんは少しトーンを落として、囁いた。
「俺も、多分変われないだろうね」
「腰が痛いもんね」
ウェラが明るい声で笑っている。いや、それはあんまり? だが、タナさんも「でもそこそこ程度にはいい男なんだよ」とか言っている。そこそこって……。ええい、もうどうにでもしてくれよ、ほんとうに!
「なぁ、パパ」
「うん?」
「ウチ、カッコイイ所見せられんかったなぁ?」
「ん?」
ぽそりとした呟きは、タナさんたちには聞こえてないかもしれない。
「もっとこう、大活躍したかったんや」
「したじゃないか。リヴィとウェラのおかげで、一件落着。俺たちだけじゃ何もできなかった」
「ほんま?」
「ああ。間違いない」
「ほんなら、ウチ、パパとママの助けになれたん?」
「もちろん」
俺はひょいひょい歩くリヴィに背負われながら、うなず――こうとして失敗する。腰に響いた。
「パパ、なぁ」
最後の扉から外に出て、リヴィが空を見上げて呟いた。
「月が、綺麗やで」
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