翌朝、ファイラスは諸々の事務仕事を終わらせるなり、幾らかの食料とシーツなどの一式を持って隔離施設へと向った。今日は神殿騎士たちもおらず、ファイラスの単独行動だった。
施設は相変わらず不気味な佇まいだったし、外まで悪臭が漏れ出てくる。この中に入るのかとファイラスは首を振る。視覚的な惨状はもう見慣れたと言っても良いだろうが、嗅覚だけは慣れることはできなさそうだった。
「ケーナ、起きてるか?」
ファイラスは鉄格子越しに呼びかける。ケーナは「開いてるよ」とモゴモゴと返答する。
「無警戒だな」
「誰も来るはずないし」
中に入ったファイラスを見て、ケーナは身を起こす。それだけでも少し辛そうに見えた。
「寝てていいぞ」
「食べ物の匂いがする」
「食えるか?」
「たぶん」
ファイラスは乾パンと質素なサラダを取り出した。
「水を汲んでくる」
「ありがとう、ファイラス」
ケーナはサラダに口をつける。フォークの使い方もマナーからは程遠い。ファイラスは少し思案しながら水を汲みに出ていった。
「おいしい、のかな、これ」
ケーナは久し振りに口にする生野菜の食感と、若干の苦味に顔を顰める。
「ファイラス」
水を持って戻ってきたファイラスに、ケーナは呼びかける。
「最後に、嬉しかった、よ」
「最後? 何を言っているんだ?」
「だってあたし、もう死ぬんでしょ」
「死なせない」
「でも原因不明の病気でしょ。熱もあるし、痛いし、もう立って歩けないし」
「原因不明ってことは、必ず死ぬというわけでもないということだ」
ファイラスはそう言うとカップに水を入れて手渡し、管理室で拾ってきた別の小さな桶に水を移した。
「まずは身体をきれいにしよう。拭けるか?」
「……難しい。ファイラスが拭く?」
「んー……」
ファイラスは躊躇する。患者だと思えば身体を拭いてやることくらいは、たとえ相手が若い女性であろうがどうということはない。だが今は、何故か気恥ずかしさが先に立った。
「今日は顔や手足にとどめておこう。伝手があるから手伝ってもらおう」
最初、同僚の女性神官を頼ろうかと考えたのだが、神殿関係者をこの建物に関わらせるのは気が引けた。ここの存在そのものが、かなりきな臭かったからだ。本当は優秀な治癒師の同僚たちにも手伝ってもらいたい案件ではあったが、クォーテル聖司祭がファイラスを名指しにしたこと、他の治癒師たちはここの存在をほとんど知らなかったことから、その線はないとも考えた。
少女が食事を終えるのを待ってから、ファイラスはその顔や手足を拭いた。一度や二度では綺麗になるような状態ではなく、ファイラスは少なからず衝撃を受ける。正直、ここまで汚れた身体は見たことがない。
「臭くて、ごめん、ね」
「気にするな。君のせいじゃない」
「平気?」
「ではない」
ファイラスは正直に言い、ケーナは小さく笑った。
「ねぇ、ファイラス。外、出れる?」
「出るか?」
「うん。あ、でも、きれいになったらね」
ケーナはそう言って息を吐く。その小さな身体は相変わらず熱い。ファイラスは昨日のように解熱の魔法をかけてから、ケーナの様子を観察する。
「魔力はすごいな、確かに」
昨日はあまり検知できなかったが、今日ははっきりとそのうねりが見て取れる。
呪い、だろうか?
ファイラスは直接的には呪詛に関する症例を見たことはない。だが、噂に聞いているものと良く似ていた。とにかく禍々しいのだ。心の奥がささくれだつような、そんな不安が常に襲ってくる。
「ねぇ、ファイラス。あたし、なんの病気なの?」
「普通の病気ではないのは確かだな」
「治せる?」
「ケーナはどうなんだ。治りたいか?」
「うーん……」
ケーナは眉間に皺を寄せる。
「わかんない。苦しいのが取れれば何でも良い」
「俺は治癒師だぞ」
ファイラスは腕をまくる。
「俺が診る以上、死なせはしない」
「これ以上、苦しむことになるなら、死にたいよ? 昨日の夜も、頭が砕けそうだった」
「……一人にしてすまなかった」
「ファイラスが、悪いんだよ」
ケーナは低い声で言う。
「ファイラスが来なければ、いつもと同じ苦しさだった」
「ケーナ、今日も掃除するぞ。あと、これだ」
ファイラスは荷物から清潔なシーツを引っ張り出した。ケーナの目がキラリと光る。
「わあ、白い!」
「毛布もあるから、少しはマシになる」
ファイラスはケーナをベッドから下ろすと、すぐにシーツを敷き直す。
「ファイラス、すごいね」
「なにが?」
「シーツが白いんだよ」
「いや、それは普通の――」
「その普通が、あたしには、なかった。ずっと」
ケーナはそう言ってファイラスにしがみつく。ファイラスはベッドに移そうとしたが、ケーナは首を振った。
「もうちょっと、こうしてたい」
ケーナの伸びた前髪の奥から覗く緑の視線がファイラスを捉えている。そこでファイラスは思いついた。
「髪切ろう」
「へ?」
「髪を整えよう。今の状態はあまりよくない」
「あはは!」
ケーナはファイラスにしがみついたまま、か細い声で笑う。
「ファイラスがなんかズレてるのは、あたしにでも、わかるよ?」
「……それは心外だ」
「でも安心した」
「なにを?」
「あたし、これでも女の子だし?」
「ああ――」
そういうことか。
ファイラスは微妙な表情を浮かべながらも、頷いた。
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