DC-09-01:五年ぶりの空の下

治癒師と魔剣・本文

 ファイラスの仕事はケーナの治療だけではない。日々様々な仕事が降って湧いてくるし、日次でこなしていかなければならないタスクも数多い。神官というのは本来とても忙しい立場なのだ。ましてファイラスは力のある治癒師である。主に多額の寄付を行うことのできる者たちの苦痛をとりのぞくのも重要な仕事だった。神殿も結局は寄付で成り立っている。ファイラスの主義主張の介在する余地はどこにもなかった。

 そんなファイラスにとって、ケーナとの時間はある意味癒やしであった。優先すべきものさえ対応していれば誰にも文句は言われない。なぜなら誰あろう、最高権力者であるクォーテル聖司祭からの依頼だったからだ。そしてまた、ファイラスがあの謎の建物に出入りしていることが数日にて発覚してからは、ほとんどの者が近寄ってこなくなった。これはファイラスにとっては嬉しい誤算だった。

「今日はちょっと外に出てみよう」

 一週間と少しが経過した頃、ファイラスは提案した。ケーナの発熱は相変わらずではあったが、それでも出会った時に比べればかなり改善が見られていた。

「俺がやったことと言えば、掃除と食事の手配くらいなんだが」
「ファイラスがずっと魔法、かけてくれてるから、じゃない?」

 ケーナの発話もだいぶ明瞭になってきた。声を出すのもだいぶ楽になったようだ。

「しかし、だとしたら俺じゃなくても良かったような」
「ファイラスくらいの、すごい魔法じゃ、ないと、ダメだったんじゃ?」
「んー……」

 ファイラスは一通りの診察を済ませると、ケーナをひょいと抱き上げた。ケーナは驚いた様子もなく、ファイラスにしがみつく。

「外に出て大丈夫なの、あたし」
「この建物の周りだけだ。許可は貰っている」
「抱っこのまま?」
「いや、良いものを調達してきた」

 ファイラスはそう言って外に出る。そこにあったのは簡素な造りの車椅子だ。

「わぁ、車椅子!」
「使い古しの安物だが、ちゃんと使えるのは確かめてきた」
「どれどれ」

 ケーナは椅子の具合を確かめて少し顔をしかめる。

「ちょっと、お尻が痛い、ね」
「ああ、布を敷こう」

 ファイラスは木の座面に手拭いを重ねてみる。

「どうだ?」
「いいねぇ」

 ケーナは空を見上げた。昼前の空は高い。

「ファイラス、今の季節は?」
「初夏。これから暑くなる」
「空とか、何年ぶりに見たかなぁ」
「太陽に当たらなくて、よく平気だったな」
「平気じゃぁ、なかったよ。今も、太陽がまぶしくて頭が痛い」

 ケーナは目を細めて口を歪める。

「でも、風は気持ちいい」
「少しずつ慣れよう」
「あたしの、病気、治る?」
「治す」

 まだはっきりとした原因はわからない。何にしても時間はあっという間に過ぎていく。あまり悠長には構えてもいられない。

 風が吹き抜けていく。

「んん、いい匂い。あたしが十歳くらいの時、だったと思う」
「ここに連れてこられたのが?」
「うん。誕生日の後だったと思う。でも、気がついたらここにいたって感じで、何も覚えてない」
「その時から熱とかが?」
「起きたらもう辛くて辛くて。時々ファイラスみたいな人が、治療? に来たけど、すぐこなくなった」
「クォーテル聖司祭は?」
「おじいちゃん?」
「そうだな」
「ときどき。難しい話をいっぱいされたけど、具合が悪くて、何も覚えてないよ」

 そうか、と、ファイラスは車椅子を押しながら唸る。

「いきなり長時間外にいるのも身体にさわる。一旦中に戻ろう」
「うん……って、臭ッ! なにこの建物! こんなに臭かったの!?」
「ああ」

 ファイラスも顔を顰める。わかっていても、この刺激臭は強烈だ。

「やだやだやだ、こんなところに戻りたくない」
「気持ちはわかるが……。今のところ君を連れ出す許可はもらえていないんだ」
「でもやだ! 臭いもん」
「困ったな」

 ファイラスはケーナを強引に抱き上げる。ケーナは暴れるが、ファイラスにとってはどうということもない。

「じゃぁ、ファイラス! 交換条件!」
「なんだ」
「お風呂に入らせて」
「風呂か。すぐには無理だが、どうにかする」

 となれば、あの人を頼るしかないだろう。ファイラスの知る限り、超法規的手段をとれる唯一の人物だ。ファイラスの言葉にケーナは渋々納得し、頷く。

「絶対だからね」
「わかった」 

 シャリーならきっと協力してくれるだろう。

 ファイラスはそれから夕方になるまでケーナの治療を続ける――治癒魔法による対症療法に過ぎなかったが。

「ファイラス、疲れないの?」
「治癒魔法だけならそんなに疲れないな。難しいものになればそれなりだが、君に使っているくらいだったら、ちょっとした距離を駆け足したくらいの疲労感だな」
「よくわかんないね」

 ケーナは笑う。笑いながらファイラスが持ってきていた干し肉を齧っている。

「もうちょっと柔らかいのが、良いよ。顎が負ける」
「わかった。じゃぁ、こっちは」
「煮た肉だ!」
「保存食だが、干し肉よりはマシだ」
「わぁ」

 ケーナはさっそくそれに齧りついた。

「おいしいね」
「それは何より」

 ケーナの回復が顕著に現れているのが食欲だった。今では半人前程度の分量なら食べることができる。

「あたし、お風呂のために、がんばるよ」
「俺も風呂の手配をがんばらないとな」

 ファイラスは頷いてケーナの頭を撫でた。ケーナは猫のように目を細める。

「ん?」
「どうした、の?」

 ケーナはもぐもぐと口を動かしながら尋ねる。

「馬車の音だ」 
「食事の人かな?」

 ケーナは能天気に言う。しかし、ファイラスは胸騒ぎを抑えきれない。

「ケーナ、ここって食事係以外に人は来るのか?」
「うーん。たまに。でも、あたし、一番奥の部屋だったから、よくわかんない」

 それもそうか。ファイラスは立ち上がる。

「なんか嫌な予感がする」

 の気配、とも言おうか。

 そもそもクォーテル聖司祭が関わっているという時点で、の存在も考慮しておくべきだった。

 ファイラスは迂闊な自分を責めた。

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