ウチ、もう見てられへん――リヴィがガナートの剣を抜いた。炎の柱が俺とリヴィの間に生まれる。
「ウチな、やっぱりじっとしてるんは苦手や」
炎の生み出す風に髪を弄ばれながら、いつになく真面目な顔でリヴィが言う。
「ウチはママを助けに行くで。パパはウェラを……じゃない、ウェラはパパをしっかり守るんやで」
そう言って、リヴィは「にひひ」と笑う。
「ウチな、ママが強いのは知っとる。ママが負けんのも知っとる。せやけどな、ママのそばにおらなあかん気がするんねや。たとえ何もできんでもええんや」
「……わかった」
俺は頷く。それ以上の言葉は、お互いに必要なかった。
「おおきに、パパ」
リヴィがタナさんのもとへと向う。ウェラがその小さな手で、俺の左手を強く握ってきた。
「火の精霊さんを呼べば……」
「まだだ。呼ぶとしても、まだだ」
「どうして? ママが……」
「クァドラってのがどこにいるのか、まだわからない」
「そう、だけど」
ウェラもまた何かをしたいのだ。俺と同じだ。そしてウェラには、やろうと思えばやれる力がある。俺とは違う。だが、仮に俺が、自由に動ける身体だったとしても、今は動かない事を選んだだろう。
「タナさんを信じろ。タナさんはユラシアと約束した。あの子の気持ちを受け止めたのは、タナさんだ。タナさんの想いを最優先にしたい」
「……わかったよ、パパ」
ウェラは俺の手を握り直した。炎の柱は俺たちを避けるようにして生まれ、消えていく。
「だいじょうぶ、精霊さんが守ってくれる」
「……ボーナスを弾んでやってくれ」
「うん」
そうか、俺たちに炎の柱が命中しないのは、そういうことだったのか。俺は精霊とやらの力の凄まじさ、そしてウェラの能力の強力さを思い知った。
「はは、リヴィ、来ちまったかい」
少し離れたところではタナさんが笑っている。リヴィの服はところどころ焦げていた。致命傷にならないまでも、ある程度のダメージは避けられないのか。
「ウチ、ママっ子やねん。せやから、ママのそばにいたいんよ」
そう言ってリヴィはガナートの剣をタナさんに差し出した。タナさんは「わかってるねぇ」と言いながら、リヴィと剣を交換した。すっかり忘れていたが、ガナートの剣はいわゆる魔法剣だ。普通の鋳造剣よりはよほど戦力になるだろう。
そんな二人の周囲をクァドラが飛び回る。くるくると周囲を回り続けるクァドラは、今なお炎の柱を降らせるのをやめようとしない。おそらく何百、いや、何千という単位で犠牲者が出ているだろう。まるで無差別な、運にすがるしかない卑劣な攻撃だ。
「魔女ってのはね、魔女であり続けてはいけないものなのさ。エリザや此奴みたいにこじらせちまうからねぇ」
『何をブツブツと! そろそろおしまいだ、死ね、魔女め!』
「元魔女さね! 間違えるんじゃないよ!」
タナさんはそう言うと、ガナートの剣を右手一本で一振りした。
「ユラシア! 思う存分、此奴を呪いな! あんたにはその権利がある!」
「タナさん、それは……!」
タナさんの次の言葉を、俺はなぜか知っていた。タナさんはニッと笑みを見せ、また剣を振る。
「返しは私が受けてやる!」
「だめだ、やめろ、それは……!」
俺はウェラの手を握ったまま、一歩前に出た。ズキンという音を立てて、鋭利な痛みが腰から脳天までを走り抜けた。こんな時に――!
「くそっ」
近付けさえしない。タナさんのそばにいけない。どころか、立っているのもやっとだ。足を踏み出したらどうなるか、そんなことは自明の理だった。まるでタナさんが「来るな」と魔法をかけているかのようだった。剣を抜く抜かない以前の問題だ。
「ママなら、だいじょうぶ」
「……ウェラ、俺も、そうは思う」
「ウェラは光の精霊さんに祈る。大切なママを護ってくれるようにって、祈る」
光の精霊――天使か。魔女と対峙している今、最もご利益がありそうな精霊ではあるな。
「ウェラ――」
「パパは腰が痛いからね」
「情けないなぁ」
「でも、祈って」
「……わかった」
祈るなんて、いつ以来だろう。俺はあの事を知ってから、決して神には祈らなくなった。だが、今はそんな事を言っていられる時ではない。
「パパがいるからね、ママは強いんだ」
ウェラはひどく大人びた声でそう言った。
「たとえ何もできないこんなヤツでもか?」
「パパが生きてるだけで、ママは強く在れるんだよ」
ウェラは俺を見上げてそう言った。そしてゆっくりと視線をタナさんたちに向ける。
「あれ?」
時が止まっていた。広場の周囲では未だ、野次馬だか焼け出された人だかわからない人々が右往左往していたが、広場の内側は完全に時間が止まっていた。タナさんは剣をクァドラの半透明の身体の前に突き出し、リヴィはそれを支えている。クァドラはまるで無防備にそこにいた。炎の柱は全て消えていた。
呼吸も風も何もない。ただ、ウェラの掌の温かさだけが、俺がまだ生きているということを感じさせてくれる。タナさんもきっと、リヴィの温度を感じているだろう。
「ウェラの言う通りさ」
不意にタナさんの声が聞こえてきた。
「あんたがいるから、アタシは負けられない」
タナさんは右手の剣を一気に打ち下ろした。クァドラの半透明の身体が分断される。
『馬鹿なぁッ!?』
悲鳴とも怒号とも取れるその声が、俺たちの鼓膜に突き刺さり、意識にねじ込まれてくる。タナさんはその意味不明の音の羅列に強引に割り込んでいく。
「ユラシア! 恨みを晴らして天国へお行き!」
タナさんは剣を天にかざす。
「タナさん、何を!?」
「心配することはないさね。アタシはアタシのするべきことをしているだけさ」
「結果なんてどうでもいい。タナさんが無事でなければ意味がない!」
俺は怒鳴っていた。自己犠牲の上に成り立つ正義なんてあり得ない――俺はそう信じているし、自己犠牲を認めようとも思わない。
「あははは! エリさん、アタシはね、そんなにいいもんじゃないのさ。でもね、あんたはアタシのもんさ。魔女の印のついたあんたは、アタシのもの。だから、アタシが好きにするし、アタシはアタシの好きにさせてもらう」
「そういうのじゃないだろう!」
その時ひときわ高く、クァドラのヒステリックな声が響き渡った。もはやその声は意味を為していない。そんなノイズを容易く制圧して、タナさんは呟いた。
「アタシはユラシアと出会っちまった。そして、救ってやるって約束したんだ。アタシの魂で、約束した。これは絶対に違えることのできない約束さね。だからね、エリさん。たとえあんたであろうと、アタシのこの約束を反故にさせるなんてことはできやしないのさ。だから、あんたも覚悟を決めておくれよ」
「タナさ――」
「アタシを信じてくれるならね」
「……俺を置いていくなよ」
それしか言えなかった。
「約束はできないねぇ。今はね、正直言えば、一瞬先の未来さえ予測できる状況じゃないんだ」
「冗談じゃない」
俺は踏み出そうとした。が、ウェラが見た目にそぐわぬ力で俺を引き止めた。
「ウェラ……放してくれ」
「ママを信じて、パパ。パパがここにいることに、意味があるんだ」
「そうさ、ウェラの言う通り」
タナさんは剣をかかげたまま言った。
「あんたはそこにいておくれ、エリさん」
「しかしっ!」
「アタシが死んだら、誰が花を供えてくれるんだい?」
「俺は花なんて供えないぞ!」
タナさんにはもっとふさわしい未来がある。こんなに運命のクソッタレの野郎に押し付けられた負債を抱えたまま、人生を終わらせられてたまるものか!
「俺は、タナさんと生きたいんだ!」
「あっははははは!」
タナさんは笑う。クァドラの様子が変わる。半透明のその姿に、徐々に色がついていく。
「あんたね、エリさん。そんな死相まみれの顔で言われてもねぇ。信憑性が低いよ、ほんと」
「どこまでお見通しなんだ」
「アタシはね、結局は魔女なのさ。男の考えてることはだいたい分かるように出来てるのさ」
タナさんはクックックと笑い、ついに目の前に実体化した若い女性を睥睨した。
「若ぶりやがって。七十にも手が届く婆さんだろう、あんた!」
『おのれ……! 赤の他人の呪いを引き受けるだなど、ありえん! 狂っているのか!』
「そうさねぇ」
タナさんは剣をくるりと回した。
「狂っているって言ったほうが良いのかもしれないねぇ。でもね!」
急に語気が強まった。
「こんな汚辱と汚穢に塗れたアタシでもさ! 良いって言ってくれる男がいるんだよ。そしてたぶんね、いや、絶対に、もっともっと汚れたって、たとえ汚され尽くしたって、それでもアタシを嫌いにならないでいてくれる男がいるんだよ、アタシにはね!」
タナさんは躊躇する様子も見せずに、剣をクァドラの胸に突き立てた。
『ぐぁっ!?』
さっきまで全く通用していなかった攻撃が、今は完全にクァドラを痛めつけている。
「魔女なのに、知らなかったのかい?」
『馬鹿な……そんなはずは……!』
「呪いにはね、物理法則も、魔法も、通用しないようにできているのさ」
タナさんの浮かべる凄絶な微笑。それは俺の人生で見た、最も危険な微笑みだった。
『お前は……なにもの……』
「通りすがりの元魔女さ」
『無名の魔女ごときにっ……』
クァドラはまだ喚く元気があるようだった。タナさんはうるさげに剣を払う。それはクァドラの首を引き裂いた。
「お貴族様の狭い了見じゃぁ理解できないのかもしれないけどねぇ」
タナさんは二度、三度と剣を突き入れる。
「澱のように代償を貯めて生きる生き方もあるってことさね」
『しかし、そんな不合理な……』
「不合理も不条理もないさね。ただね、代償は魔女を強くするのさ。望む望まざるとに関わらずね」
アタシの中の悪魔が囁くのさ――タナさんは厳かに告げた。
「ユラシア! やっちまいな!」
『やっ、やめっ、やめろっ! おのれ、下賤な流浪人め! おのれ、おのれぇ!』
クァドラの全身から青い炎が噴き上がった。
「はん! やっと本気かい!」
タナさんの黒褐色の瞳が、物騒に輝いていた。
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