ファイラスはそれからずっとヴラド・エールの聖神殿で修業の日々を送っていた。神官としての修行の他に、治癒師として、そして医師としての修練も積み、ゼドレカに剣術も学んだ。ファイラスはどの分野においても卓越した能力を示し、各種試験にも合格を重ね、十代にして正式に「神官」の地位を与えられた。
それからさらに時間は経過し、ファイラスは二十二歳となる。この時にはすでに、故郷の村がなくなっていることを知らされていたが、ファイラスは特に何の感傷も覚えなかった。というよりも、帝都聖神殿での日々があまりにも忙しすぎて、故郷のことなどは――あの変異した村人の一件を除いては――ほとんど記憶に残っていなかったからだ。
ファイラスは聖神殿に隣接する孤児院での仕事も与えられていた。読み書きを教えるためだ。その中で、帝都一の知識人と誉れ高い錬金術師のシャリーとも知り合った。錬金術師とは、鉱石から薬を生み出す能力者のことを言い、シャリーは世界展開している錬金術師ギルドの中でも最高位の称号、赤を与えられていた。
「へぇ、クォーテル聖司祭に呼ばれたと。それでそんなに朝から怖い顔しているんだ?」
薬の運搬を部下たちに指示しているシャリーは、ファイラスよりも五つ年上だった。若干二十七歳にしてその地位であるから、錬金術師としての能力は推して知るべしである。同時にシャリーは政治的駆け引きにも優れていた。今もアルディエラム中央帝国中枢に完全に入り込んでいたし、ヴラド・エールのみならず、他の宗派の神殿にも欠かせない存在となっていた。誰もがシャリーの生み出す薬を求めるのだ。その治癒能力については、ファイラスの再生魔法すら凌駕すると言われている。
「シャリーは聖司祭と面識は?」
「当然あるわよ」
褐色の肌に長い黒髪、青緑色の瞳という、アルディエラム中央帝国では珍しい色の持ち主である。出身はアイレス魔導皇国らしいが、詳しいことは誰も知らない。
「ど、どんな方なのです?」
「そうねぇ」
シャリーは一瞬思案する。
「バレス高司祭とやりあえる方よ。穏やかそうに見えるけど、それだけじゃないわ。って、まぁ、神殿関係者で裏表のない人間なんてそうそういないけどね」
「そんなものですか」
「そんなものよ。あなたはだいたいにして素直すぎるのよ、ファイラス。ゼドレカ伯爵もそうおっしゃっていたわ」
「師匠とも面識が?」
「帝国一顔の広い女よ、私。大抵の有名人とは接点があるわ」
シャリーは入庫チェックに余念のないファイラスの肩に手を置いた。
「あなたももっと政治的に動ければ、今頃はって感じなのよ。だって抜群の能力を持った治癒師でしょ」
「俺はそういうのは」
「あなたがどうってのは関係ないの。みんながみんな、あなたを利用したがっている。今のままだとあなた、利用されるだけよ。政治力ってのは、あなたがあなたの思う正しい力を適切に振るうために必要なものなのよ。毛嫌いするべきじゃないわ」
シャリーは最後の一箱が降ろされるのを見て、軽く手を叩いた。部下たちが少し疲れた様子でシャリーのところへ戻ってくる。
「というわけで、私はもう帰らなきゃならないから。ファイラスもがんばって」
――そしてその日の昼下がりに、ファイラスはクォーテル聖司祭に伴われ、帝都郊外にぽつんと建っている石造りの建物を訪れていた。何の説明もなしに「ついてこい」とだけ言われたファイラスは、当然ながらこの建物の存在すらも知らなかった。
「あの、この建物は」
面識のない神殿騎士たちに周囲を取り囲まれているファイラスは、恐る恐る口にする。クォ―テルは豊かな白髪を風に遊ばせながら、濃灰色の瞳でファイラスを見る。信者たちの前では柔和な表情を見せていることの多いクォーテルだったが、今の表情は険しい。
「ここには、治る見込みのない病人たちが収容されている」
「そんな施設が」
「知る者は少ない。今日はどうしても君に診てもらいたい患者がいてな」
クォーテルはそれだけ言うと、ファイラスだけを連れてその建物に踏み入った。
酷い臭いだ。ファイラスは顔を顰める。どうにも形容し難い、吐き気をもよおす程の臭気が四方八方から襲いかかってくる。建物内はほとんど真っ暗だ。形ばかり取り付けられた明かり取りの穴から入ってくる陽光が全てだ。
クォーテルは光の魔法を使い、空間を照らす。それとともに、建物内のあちこちから唸り声のようなものが聞こえてくる。およそ人間のものとは思えないそれは、しかし確かに人間が発する声だった。
その建物は、地上一階、地下三階にも及んだ。部屋数はファイラスが見たものだけで三十以上あった。それはまるで小さな独房で、事実上、糞尿も垂れ流しだった。誰も掃除などしていない様子だった。
「ここは人間のいる環境では……」
「ファイラス君」
抗議の声をあげようとしたファイラスを、クォーテルは一睨みで黙らせる。
「君にはこの少女の世話を頼みたい」
地下の最奥部に少しだけ広い部屋があった。その中にあるベッドのようなものの上に、少女が一人、横たわっている。少女はファイラスたちに気が付くとごろりと寝返りをうち、顔だけをファイラスたちに向けた。その目はギラリと輝き、ファイラスとクォーテルを物色しているかのようだった。
「この子に、何かあるのですか」
「それは今は知る必要のないこと。その時が来ればわかるやもしれんが」
「この子は何に侵されているのですか」
「それも含めて、だ。私にも手が出せなかったが、君ほどの治癒師であれば或いはという期待を持っている」
クォーテルは有無を言わせぬ口調でそう言い、ファイラスの肩を二度叩いた。
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