ファイラスがケーナを車椅子に乗せて建物の外に出ると、そこには馬車がニ台いた。一台は例の食事配達係の一頭立ての小さな二輪荷馬車で、もう一台は二頭立ての四輪の荷馬車だった。こちらの馬車の側面には大きく錬金術師ギルドのマークが刻まれ、その下には最高位の階級を示す「赤いリボン」のマークがあった。
それぞれの馬車の主人が、入れる・入れないで言い争っている。
「シャリー」
「あ、ファイラス。来たわよ!」
狼狽える食事係をよそに、シャリーは手を振って歩いてくる。
「だれ、このひと」
「世界的に有名な錬金術師のシャリーだ」
「はぁい、あなたがケーナちゃんね。よろしく、シャリーよ」
「あ、はい」
勢いに押されてのけぞるケーナだが、シャリーは構わずその頭に手を乗せて、一瞬だけ眉根を寄せた。そこに食事係が迷惑そうな顔をして言い募る。
「あ、あの、ファイラス神官。部外者は困ります」
「俺はクォーテル聖司祭にこの子を任されている。それにこの方は」
「いいのいいの。私は自由にやらせてもらうわ。というか、この子をお風呂に入れるためだけに来たのよ、私」
「お風呂!」
ケーナが立ち上がらんばかりに反応する。シャリーは微笑むと食事係に向き直った。
「ていうか、この食事内容はなに? 死ねと言わんばかりじゃないの。ケーナちゃん、太陽にも当たらずにこんな食事してたの? よく生きてたわね」
「死ぬ気はしなかった」
ケーナは難しい顔をして応じた。
「お腹も空いたし、具合も悪かったけど、死ぬかなーとは思わなかった」
「ふぅむ」
シャリーはまた思案する。
「よし、でもま、ひとっ風呂浴びてスッキリしましょ」
「うん!」
その間に食事係はイヤイヤながら食事配達のために建物に入っていった。
「でもこれ、ひっどい臭い! ケーナちゃんもそうだし、ファイラス、あなたにもかなり染み付いてるわよ」
「なんとなく自覚はあった」
ファイラスは生真面目に頷いた。一日の大半をこの建物で過ごしている以上、洗おうが拭こうが臭いは取り切れない。神殿のベッドの臭いも気になり始めた頃だ。
「お湯を沸かさないとね」
シャリーは持参してきた風呂桶をケーナの部屋に移した。そしてファイラスに命じて水を汲ませ、持参してきた風呂桶を満たしていく。ケーナは車椅子の上からその様子を興味深げに眺めている。
「お湯って、どうするの?」
「錬金術は万能なのよ」
シャリーは持参してきた大きな肩掛けカバンの中から赤い石を一つ取り出した。珍しい輝きを放つ石は一見するとルビーの原石にも見えなくはなかったが、そうではない。シャリーに言わせれば「ただの石が魔力を持ったもの」らしい。
「魔力石って総称されてるけど。紫龍の身体が石化したもの、と言われているわ」
「そうだったんだ」
ファイラスは驚いた様子でその石をしげしげと見る。
「危険じゃないんですか?」
「力のあるものはどれも危険。だけど使い方次第よ。この石を攻撃魔法に転じようとすればできる。この大きさの魔力石なら、この建物くらいなら簡単に吹っ飛ばせる。だけど、ちゃんと使えばほぼ無限にお湯を沸かせる力にもなる。便利と危険は紙一重なのよ。その危険を遠ざけるために、私たちみたいな専門家がいるの」
「すごい!」
ケーナは痛く感激して、その石を見つめている。
「力は使う人次第なのよ、ケーナちゃん。覚えておきなさいね」
「はぁい。でも、あたし、力なんて何もないよ」
「ふふ」
シャリーは微笑う。
「いい、ケーナちゃん。本当に力のない人間なんて、ただの一人もいない。些細な行動や言葉が、誰かの運命を変えてしまうこともある。誰かを守る力になることもあれば、誰かを殺す力になることもある」
魔力石を風呂桶に入れると、シャリーは何事か唱え始める。魔法とはまた違う言語体系の言葉で、ファイラスには理解ができない。
すると見る間に風呂桶の中の水が薄紅に変わった。ファイラスとケーナが目を瞠る。
「色が」
「これはね、安全装置なの。色が消えたら頃合い。色がついてるうちはちょっと熱いってこと。これなら誰も火傷しないでしょ」
「すごい!」
ケーナは再び感嘆の声を発する。シャリーは微笑むと、ファイラスを手で追い払うような動作をする。
「それとも観察したいの?」
「いや、そんなことは。とりあえず外で待ってるから終わったら」
「呼ぶわよ」
シャリーはそう言いながらもケーナの服を脱がし始めている。ファイラスがいるのもお構いなしだが、シャリーはもともとこういう性格だ。ファイラスはすごすごとその場から退散し、建物の外に出て、整えられてない雑草の上に座り込んだ。
食事係の馬車はもういない。シャリーが乗ってきた馬車の馬がニ頭、馬車から離れてのんびりと草を食んでいる。間もなく東の空が赤らんでくる頃合いだ。風向きの関係で臭いは来ない。悪くはない午後だった。ごろりと寝転んでみると、そこはかとない背徳感が襲ってくる。それは仄かに心地よかった。自分は普段目一杯働いているから、たまにはこういうことをしても良いのだ――そんな風に自分に言い訳もする。
「おさぼりファイラス」
うっかり眠ってしまっていたファイラスに、シャリーが声を掛けてきた。
「あ、眠ってしまった」
「疲れてるのね、わかるわ」
シャリーはそう言って、カバンから小さな袋を取り出した。
「錬金術で作った薬でもいいんだけど、それよりはまずこっち。お茶にすると眠りが良くなるわ」
「ありがとう」
シャリーは薬草学にも通じている。少なくともファイラスが知っている中で一番の知識人だ。
「それで、シャリー。ケーナのことは何か……」
「あの子」
シャリーは建物の中を伺うようにして声を潜める。
「あなたじゃ手に負えない」
「えっ!?」
「正確には、あなただと、手に負えなくなる」
「どういうことですか」
ファイラスの問いに、シャリーは噛み砕くように言う。
「魔力自体が原因の病気よ。あなたたちにとってもっと分かり易い表現をするなら呪い。あの子はいつしか呪われたの。私の見立てでは五年か、そのくらい前。あるいは闇の子だったのかもしれない」
「闇の子?」
「闇の子は大魔導の素質を持つ子どもの中でも、抜きん出た紫龍との親和性を持つ子どものこと。当然、紫龍の力には強烈に晒されることになる」
「魔力の集中……」
「それをあなたが加速させている」
そんな――ファイラスは絶句する。
「なら、どうしたら……」
「あなたがあの子の苦痛を取り除こうとすればするほど、あの子は化け物に変わっていく」
「化け物……!?」
「あの子に何が干渉しているのかはわからない。だけど、この呪いの威力は、魔神だと思う」
シャリーは深刻な表情でそう告げた。
コメント