ファイラスたち神殿騎士の到着により、最前線の兵士たちは適切な治療を受けることができるようになっていた。エウドへの後送手段も確立され、多くの負傷者が一命をとりとめた。また、エウドで治療を受けた兵士たちの少なくない数が最前線に戻ることを希望した。
特別手当のようなものが支給されることが周知されたのも大きい。しかし、兵士、こと騎士たちの大半は、あの神帝師団と共に戦えるということから、進んで前線に戻ってきていた。それほどまでに神帝というブランドは価値があったのだ。実際に、イレムの戦いを目にした兵士たちは、「この戦いは勝てるかもしれない」と感じたという。
「地獄も三日も経てば慣れるだろ、ファイラス」
「慣れるものか」
イレムの軽口に、ファイラスは幾分むすっとして応じた。
「一日何人死んでると思っているんだ、お前」
「それよ」
イレムは腕を組み、北に広がる草原を見る。緑であったはずの草原は赤茶けていた。草は根こそぎ踏み荒らされ、何百何千という死体も放置されている。危険すぎて回収できないのだ。
「もうこっちも限界だ。増援も来るはずがなかなか着かん。或いは妨害を受けているかもしれない」
「お前の一万の手勢もあと数日かかるらしいしな」
「ああ。あいつらは妨害などどうとでもしてくるだろうが、さらなる増援は厳しいかもな」
「元老院がなにか?」
ファイラスも腕を組んだ。血なまぐさい風が嗅覚を刺激する。
「神殿も絡むだろうね」
「いや、しかし」
「お前さぁ、神殿も元老院も伏魔殿だぜ? というか、神帝だって目下ゼドレカおばちゃんが抑えててくれてなかったらわかんねぇよ」
「この反乱自体が何かあるみたいな口調だな」
「あるに決まってる。じゃなかったらこんなにスムーズにアイレス魔導皇国が介入できるはずもない。異形が大勢――こりゃすなわちアイレスの魔導師軍団が助力してるってことだろうが。ちょっとやそっとの金や政治の話じゃ――」
イレムは空を見上げ、また敵の出城を見た。空は不思議なくらいに高く済んでいて、雲の一つも見当たらない。夏が終わる頃合いの空だ。ファイラスは風の向きが変わったのを察知する。敵陣からこちらに向いていた風が、ちょうど反対に変わったのだ。
「なんだ、急に」
「定期便だ」
「定期便?」
「魔力の歪み。来るぞ、見えるだろ?」
イレムが背中の大剣を引き抜いた。陽光を物ともしないほどの輝きが発せられる。それを見て、周囲の騎士や歩兵が慌てて動き始める。弓兵たちが矢をつがえ始めている。ファイラスが到着して数日が経つが、彼らの動きは目に見えて良くなっていた。萎えていた士気が回復したため、と言って良いのかもしれない。
「慣れたものだな、皆」
「だろ? 人間、地獄にも慣れるのさ」
イレムの言葉に肩を竦め、ファイラスは剣を抜いて、イレムから距離を取る。近くにいると殲撃に巻き込まれるからだ。
「わかってるな、ファイラス」
「逃げてもいいか」
陣地の目前に現れた魔力の渦に目を細め、ファイラスはそう尋ねる。イレムは「だぁめ」と茶化しながらも、その目はその魔力の塊にしっかりと向けられている。
魔力の塊が弾けると同時に姿を表したのは、青い巨人だった。人間の身体に、巨大過ぎる蝿の頭がついている。それも腐敗したように半ば溶けた顔だ。背中には何十枚もの蝿の羽が乱雑に生えていて、その周囲にはぼたぼたと腐液のようなものが落ち――煙を上げていた。
「こいつは強烈な異形だ」
「イレム、気を付けろ。液体は強酸性で、有毒なガスも放っている」
「げ。マジか」
「ガスは吸い込んだらまずい。卵の腐ったような臭いがするだろ」
「ああ、たまんねぇ臭いだ」
イレムは兜を被ると大剣を一振りする。陽光がギラリと反射する。
「近付くのは良しとこう。じゃぁ、行くぞ、ファイラス」
「気を付けろよ」
「ま、どうにでもなるさ。俺は主人公だからな」
イレムの姿が消えた。蝿の巨人の背後に回ったイレムが、その背中に強烈な殲撃を御見舞する。斬撃だ。それは派手に青い血を吹き上げる。
「おっと」
降り注ぐ血飛沫を衝撃波で往なし、イレムは距離を取る。その間に、蝿の巨人に無数の矢が降り注ぐ。だが、その殆どは突き刺さった直後に溶けてなくなった。
「酸で守られているのか、こいつ」
ファイラスは囮になるべく、蝿の巨人の前を駆け回る。
「しかし、異形のバリエーションたるや、呆れるばかりだ」
ファイラスには呆れ顔を見せる余裕すらあった。降り注ぐ酸と毒ガスにだけ気をつけていれば、そこまで恐ろしい手合ではない。そしてこの体液にはファイラスの防御魔法が有効だった。
「超弩弓隊、放て!」
弓兵の隊長格が怒鳴る。攻城兵器である超弩弓が四基、丸太のような矢を打ち出す。そのうちの三本が蝿の巨人に命中する。蝿の巨人は咆哮を上げて脇腹に突き刺さった矢を引き抜いて、そのまま超弩弓の一つに向けて投げつけた。凄まじい速度と威力でぶつけられた丸太によって、その場にいた十数人の兵士が肉片と化す。数十メートル離れたところにいたファイラスの足元に、半ば潰れた頭部が転がってくる。
「くそっ」
救えるものではない。ファイラスは一瞬だけ祈りを唱え、蝿の巨人の足元に息を止めて走り込んだ。そしてその右足首に殲撃を叩き込む。抉られた足首から滝のような体液が溢れてきて、ファイラスに襲いかかってくる。骨まで溶かす濃度の酸だ。ファイラスは咄嗟に魔法の盾を展開して、そのまま大きく後退する。
その際に体液が一滴、左手首に命中した。
「くそっ」
手甲が溶けて、灼けるような痛みが肩に向けて奔っていく。
「ファイラス様! 後退を!」
エウドへの後送手配の手伝いをしていたはずのケーナが前線に現れた。そしてすぐにファイラスの手首に回復魔法を使い始める。
「助かる」
「お役に立てて何よりです」
ケーナは魔法の盾も同時に展開していた。蝿の巨人がファイラスたちをその複眼で見つめている。
『ヲヲヲヲヲヲヲ!』
どういう原理かは不明だったが、蝿の巨人が吼えた。
「ファイラス、もういい。ケーナ、頼む」
巨人の顔の前にイレムが浮いていた。そこに瞬間転移してきたのだ。イレムほどの戦闘力があれば、空中戦など造作もない。
「ファイラス様、行きますよ」
「ケーナ、この場で全力防御だ。イレムが勝つ」
ファイラスは自分たちの周囲に聖盾を張り巡らせて、周囲の兵士たちに後退を指示した。
「肉片浴びるのイヤだなぁ」
ケーナはうんざりした顔をして、同じく聖盾を展開した。
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