数分後、ケーナが本陣に戻ってきた時には、もはやそこは混乱の坩堝と化していた。魔導師による急襲の前には、負傷者を多く抱えた兵士たちには為す術もない。どこから飛んで来るかもわからない、即死級の攻撃魔法が降り注いできているのだ。せいぜい狙われないことを祈るくらいしか、できることがない。
直径三メートルを超える巨大な火球が立て続けに救護テントに直撃する。恣意的に狙ったとしか思えない一連の攻撃に、ケーナの髪の毛が逆立つ。ケーナは神殿騎士たちに救助の指示を出し、自らはファイラスのテントに一直線に向かう。その間にも火球は雨のように降り注いできている。
「ファイラス様!」
「ケーナ! だいじょうぶか! どこへ行っていた!」
ファイラスは長剣を抜いた状態で、周囲に次々と指示を飛ばす。その隣にはイレムが腕を組んで立っている。イレムは血まみれのケーナの姿を認識すると、目を丸くして尋ねた。
「ケーナ、それは?」
「え?」
ケーナは慌てて自分の身体を見下ろす。鎧といい、マントといい、そして恐らく顔も、返り血と煤で染まっていた。ケーナは慌てて両手を振る。
「火の玉を食らうところで。あぶなかったです。血の方は負傷者の……」
「そうか、危なかったな」
ファイラスが言った。ファイラスはといえば、焦点が若干定まっておらず、声にも張りがなかった。疲労が限界値を迎えているのは誰の目にも明らかだった。対するイレムの顔には疲労の色はない。
「今はそれよりも魔導師です。被害がどんどん拡大しています。イレム様」
「ああ、そうだな。俺とケーナでどうにかする。ファイラス、お前は神殿騎士の指揮を執れ。これ以上被害を出させるな」
「俺も――」
「今のファイラス様は戦力外です。私たちにおまかせを」
ケーナはきっぱりと言った。その迫力に押され、ファイラスは「わかった」と渋々承諾する。ファイラスも自分の調子についてはよく理解していた。
「しかし、ケーナ、君は」
「私を女と思って侮られても困りますよ。私だってゼドレカ様の手ほどきを受けているんです」
「そ、それはそうだが」
「実戦経験だってあるじゃありませんか」
ケーナは胸を張った。イレムが「お前の負けだ」とファイラスの肩を叩く。
「ケーナちゃんは俺が責任持って――」
「だいじょうぶです、イレム様」
ケーナはイレムを見上げる。イレムは「?」を頭に浮かべたが、ケーナはそれには応えずに、迷いなく本陣外縁部へと移動し始めた。
「ファイラス、任せるからな。俺たちで仕留めるまで待っていろ」
「わかった」
ファイラスの声を背中で聞きながら、イレムはケーナを追う。
「あてはあるのか?」
「わかります」
ケーナは印を追っていた。この印は、イレムにですら見えないものらしいなとケーナは分析する。となると誰が?
「ケーナちゃん!」
イレムの声が飛ぶのとほとんど同時に、ケーナは剣に魔法を掛けて、大上段に振りかぶっていた。ケーナの直前に突如現れる火球。人間を遥かに上回る大きさの火の玉が、ケーナを焼き尽くそうと迫ってくる。
イレムが動くよりも早く、ケーナは剣を打ち下ろしていた。それは魔力の圧力で火球を押しつぶし、吹き飛ばす。ケーナ自身には、こんなことができる確信はなかった。が、声は迷わずその行動を指示してきた。結果としてケーナは髪の毛を数本焦がした程度で無傷だった。
「こいつぁ、参ったな」
イレムが珍しく硬い声を発した。
「魔導師は私が殺します。イレム様は部隊の指揮に」
「ケーナちゃんさ、お前、何を隠してる?」
「な、何を……?」
「あれだけの魔力を中和する魔法を瞬時に無詠唱で発動し、並の騎士を遥かに凌ぐスピードで切り裂いた。神帝もかくやという戦闘力だ。あのケーナちゃんがたった数年でこの領域に辿り着けるとは、にわかには信じがたいぜ」
「……すみません」
ケーナはそれだけ言って、イレムの目をじっと見た。
「やれやれ」
その視線をまともに受けたイレムは、目を細めながら首を振った。
「頼むわ、ケーナ」
「承知しました」
熱い風が吹く。イレムはその炎の風の向こうに、ケーナが消えるのを見届けた。
コメント