イレムの纏っている威圧感は凄まじいものがあった。その眼力に、さしものバレスも身が竦んだ。しかしそれでもなんとか机の後ろに逃げ込む。クォーテルの死体を踏みつけながら。
「神帝師団の一人として、この事態は看過できやしねぇのよ、おっさん」
「くそっ」
バレスは一時的に身体能力を高めると、机を飛び越えてイレムの横を走り抜けた。イレムは慌てる様子もなく、腕を組んでバレスの背中に視線を突き立てる。
バレスが扉を開けようとしたその瞬間、扉の目の前にファイラスが姿を見せた。カヤリの魔法で姿を隠していたのだ。クォーテルが殺害される際にファイラスは動こうとしたのだが、カヤリによって拘束されて動けなかった。
「逃げられると思うなよ、バレス」
ファイラスはそう言うなり剣を抜いた。イレムはクォーテルの机に腰掛けて見物の体勢だった。前後を挟まれたバレスは、壁の方へとジリジリと動き始める。
「私を殺したら、魔神ウルテラは暴走するぞ」
「殺してみなければわかるまい?」
ファイラスの黒い瞳が物騒に輝く。手にした剣も燭台の灯を受けて、濡れたように光る。
「今すぐ魔神をどうにかするか。それとも今ここで正義の裁きを受けるか。選ばせてやる」
「私は魔神ウルテラの主。おまえごとき――!」
バレスはそれ以上続けられない。喉元にファイラスの剣が突きつけられたからだ。わずかに皮膚が切れ、血が滲む。
「未来の話をしているんじゃない。今どうするかと訊いているんだ」
「私を殺しても何も解決などせん。ならば私に協力するのが賢明と思うが」
「断る」
ファイラスは微動だにせずに言った。
「ケーナを犠牲にした貴様を、俺は赦さない」
「あ、あの娘は死ぬ運命にあった! 私がニ年もの余命を与えてやったと言っても良いのだぞ、ファイラス!」
「その点だけは感謝している」
ファイラスは無表情に言う。
「だがな、納得はしていない」
ガッと音を立てて、壁に剣が突き刺さる。バレスの顔すれすれの位置を、ファイラスの剣が貫いていた。バレスは腰を抜かしてへたり込む。ファイラスは容赦することなく、その頬に剣を当てる。
「ケーナを返せ」
「む、無茶を言うな! あの娘のことは間もなく全ての人間の記憶から消える! そうすれば、お前の中からもあの娘は消え、なにもなかったことに――」
「黙れ、バレス!」
ファイラスの怒声が響く。
「ケーナの存在をなかったことになどさせない。絶対にだ。お前が主だというのなら、魔神に言え! ウルテラに命じろ! ケーナを返せとな!」
「無理を言うな!」
「ならば死ね!」
ファイラスは今まで感じたことのないほどの憤怒を覚えていた。そして身体が勝手に動き、バレスの脳天を叩き割ろうとする。
「待て、聖騎士」
その動きを止める力があった。ファイラスでは到底、抗し得ない強大な力だった。バレスの頭を叩き割る寸前で、長剣が激しく震えている。
「なぜだ、どうして止める」
ファイラスは背後に現れた気配に尋ねる。
「この人間を殺したところで、あの娘は戻ることはない」
「どのみち同じなら、俺が裁く」
「あなたは聖騎士になる人間。恨みで人を裁いてはならない」
「だが、俺はこの男を赦せない」
ファイラスの言葉にカヤリはわずかに眉根を寄せた。
「私にはその気持は理解できない」
「ならば大魔導、あなたはこの男を」
「赦す、とは一言も言っていない。罪は悉皆裁かれねばならない。そしてその男に相応しい刑がある」
「相応しい?」
カヤリの冷静な口調に、ファイラスの頭も少し冷えてくる。カヤリは頷いて、はっきりと口角を上げた――笑ったのだ。
「魔神の生贄となってもらう」
「それは、そんなことは!」
バレスが一瞬で取り乱し始めた。
「私は支配者となるべき男だ。その力を持ち、その運命にある者だ! 世界をこの手で完全なものにすることこそが、私の使命!」
「痴れたこと言ってんじゃねぇぞ?」
イレムがへたり込むバレスの眼の前でしゃがみ込む。その重甲冑の威圧感に、バレスはすっかり震え上がっていた。
「ものすごい数の犠牲者を出しておきながら、てめぇはてめぇの生命の危機に震えている。身勝手な話だよなァ!?」
「無制御のいない未来を夢見て何が悪い!」
「だったらさ、あんた一人でいなくなりゃよかったんだよ! あんたのゴミみてぇな大義名分のために、不満もなく慎ましく生きていた人間が百万? 百万も犠牲になった? てめぇに何の権利があってそんなことが出来たってんだ!」
イレムが凄む。バレスは首を振る。
「私は自らを生贄になど……」
「あなたの――」
カヤリは冷然とバレスを見下ろしている。
「あなたの意志なんて、どうにでも変えられるから」
カヤリは再び微笑んだ。それは美しくも残酷な微笑だった。
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