グラヴァードは自らが構築した氷壁の結界の中に、魔神ウルテラと共に浮かんでいた。地面も空もないこの結界の内側では、双方ともに自由に動き回ることは難しい。その上、外界への影響力もほとんど及ぼすことができない。グラヴァードは抜身の剣を下げたまま、「さて」と魔神に語りかける。
『我をかような空間に閉じ込めるとは。さすがは奴らの末裔といったところか」
魔神ウルテラが地響きを伴う声で言った。グラヴァードは氷のように冷たい表情のまま尋ねる。
「貴様の望みを確認しておきたいのだが、魔神ウルテラ」
『不遜なる貴様ら龍の英雄の末裔の除去』
「それはないな」
グラヴァードは剣を軽く振るった。青い目がギラリと輝く。
「それはありえないだろう、魔神ウルテラ」
『……何?』
「貴様ら魔神が、紫龍を利することはありえまい。かつての大災害では、さも共闘したかのように歌われるが、その実は覇権の奪い合いだったと俺は見ている。そして俺たち無制御を殲滅するということは即ち、紫龍の力を強めることに繋がる」
『しかし、貴様らがいなくなれば、紫龍の封印を解くものもいなくなる。陣魔法といったか?』
「なかなか博識だな、魔神ウルテラ。いかにも、陣魔法によって紫龍の封印は解かれていく。確かに俺たちがいなくなれば、その方法での封印解除は行えなくなる。しかし」
グラヴァードは切っ先を魔神の巨体に向けた。
「それは同時に、紫龍の力を引き出す術も失うということになる。俺たち無制御こそが、この世界と紫龍の力を繋げる、いわば媒体なのだからな」
『貴様らがいなくなりさえすれば、我々はゆっくりとその方法を探ることができよう』
「なるほど。しかし、その前にお前はこの世界での活動限界を迎える。お前の活動には多くの生命が必要だ。この世界の人間は、いや、生命はそう遠くない未来に滅び去る。そうなればお前は時間切れだ。元いた世界にすごすごと帰ることとなり、紫龍によって保護されたこの世界には二度と入り込むことは叶うまい」
グラヴァードの鋭い視線が魔神を穿つ。
「そこでだ、魔神ウルテラ。貴様の望みは紫龍の無限の魔力。違うか?」
『それであるとして?』
「それは我々人類も同じだ。であるなら、貴様と我々の共存もまた選択肢ではないか?」
『ふざけたことを言う! 我は貴様らなどと手を組む意味が理解できぬ』
「貴様に自由をくれてやろう」
グラヴァードはこともなげに言った。
「今の貴様は契約の下に顕現しているに過ぎん。俺は今からそれをなかったことにしてやろうと言っている」
グラヴァードは左手で素早く印を切った。そこにカヤリと、すっかり観念した様子のバレスの姿が現れる。バレスは魔神ウルテラの巨体を見上げて、上ずった声を上げて逃げようとする。しかし、後ろにはカヤリがいたので、それ以上は下がれなかった。
カヤリは目を氷の色に輝かせながら囁いた。
「さぁ、言え、司祭。それでお前もまた、この魔神の呪縛から解き放たれる」
バレスは呆然と目を見開きながら、譫言のように言う。
「私は……この身を……契約と、ともに、捧げ……る」
半ば聞き取ることは出来なかったが、魔神ウルテラは「よかろう」と低い音を発した。
『分を弁えぬ愚かなる召喚者よ。我は貴様の魂を喰らおうぞ』
魔神の右手の剣がバレスの身体を粉砕した。衝撃で跳ね飛ばされた首が絶叫を上げていた。声は出ていなかったが、そこから強烈な魔力が溢れていた。バレスの内側に溜め込まれた魔神ウルテラの力が放出されて、また魔神ウルテラの中に戻っていっている――グラヴァードはそう理解した。
粉砕されたバレスは血の一滴に至るまで、魔神ウルテラの中に吸収されていった。
「魔神ウルテラ、ご苦労だった」
グラヴァードは剣を収めた。
『なに?』
「再び永き微睡に落ちるがいい」
『なんだと……?』
事態を飲み込めていないのか、ウルテラは攻撃することもせずにただ佇んでいる。グラヴァードは腕を組んで顎を上げた。
「貴様は新たなる契約を結ばなければならない。ある意味、契約更新だ」
『何?』
「カヤリ」
「はい」
カヤリは目を細めて魔神を見上げる。
「お前との契約者は私。かつて妖剣テラと接続していた私が、今後お前を使役する」
『何をほざくか、小娘』
「私はお前の力を知っている。そしてお前の力は私の中に存在している。私は、闇の子だ」
『……確かに、お前の魔力には覚えがある』
「私はお前との契約の埒外で、常にお前と共闘関係にある。いまさら敵対する必要もないだろう」
カヤリは自らの胸に手を当てながら無感情に言う。
「先の契約者、バレスは、その権利を自らの意志で私に譲渡した。契約は今も有効。そして私はお前を使役する権利を有する……が、使役はしない」
『意味が理解できぬが? 何をするにもそもそも贄が足りぬ』
「それだ、魔神ウルテラ。贄はいくらあっても足りぬが、それではこの世界はすぐに滅ぶ。それはお互いにとって不幸ではないか?」
カヤリの淡々とした説得に、魔神ウルテラは考えているのか、沈黙する。
「お前を再び剣に戻す。そうなればお前はこの世界に存在し続けるのに、さほどの贄を必要としなくなるはずだ」
『また我を剣にして封印すると。笑止な――』
「話は最後まで聞け、魔神。誰も封印するとは言っていない」
『なれば我は殺戮の――』
「なればそれでよし」
カヤリは即座に反応する。
「貴様を聖騎士に託す。聖騎士が刃を振るうのであれば、それは正義の刃」
『なるほど。それを我の贄とするか』
「そうだ。正義だ悪だと眉唾ものではあるが、あの聖騎士であれば恐らくは正しい力となるだろう」
『ははははは!』
魔神ウルテラが時空を震わせる。
『我を正義の刃とするか! それはまた滑稽な話であるな! 正義を振るえば振るうほど、この世界は滅亡へと近付くと!』
「もっとも、その聖騎士が虐殺者となった所で、お前の今の形を維持するのには到底足りぬがな」
『よかろう。それをもってその時を待つ、それもまた趣深きこと。その聖騎士とて百年と生きられぬであろう? その後は我は自由の身というわけだな』
「それで良い」
カヤリはグラヴァードをちらりと伺ってから頷いた。
『我はその時にこそ、この世界を滅ぼし、紫龍の力を手に入れるだろう』
「知ったことではない」
カヤリは首を振る。
「私は遠い未来への責任など負うつもりはない。私は今の話をしているのだ」
一歩も退かないカヤリを、魔神ウルテラは興味深げに見下ろしている。
『よかろう、小娘。我は戯れに聖騎士とやらを懐柔し、殺戮者に育て上げるだろう』
「なればそれもよし」
まるで興味がないと言わんばかりの反応に、さしもの魔神も口を噤む。
「その時はまた別途話をしよう、魔神ウルテラ」
『よかろう、気に入ったぞ、小娘。我は剣と化し、その聖騎士とやらの力と――』
「もう一つ、条件がある」
カヤリはここぞとばかりに割り込んだ。
『……なんだ』
「なに、たいしたことではない、貴様にとっては」
カヤリはグラヴァードをまたちらりと見た。グラヴァードは肩を竦め「好きにしろ」と応じた。
カヤリは勝ち誇ったような表情を一瞬だけ見せてから、ゆっくりと頷いた。
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