冷や汗だか脂汗だかよくわからないものにまみれて辿り着いた先には、ボロ布を継ぎ接ぎにして作られたテントのような何かがあった。とてもじゃないが、「家」とは呼べない。だけど、焚き火の跡や、古びた鍋の類があるところから、ウェラは間違いなくこの場所で長い間生活していたのだろうとわかる。
「ここがウェラの家か?」
「なーんにも! ないけどね!」
わはははとウェラは腰に手を当てて笑う。一方で、その時の俺の頭の中は、「立ったままでいるべきか、座るべきか」でいっぱいだった。正直に言えば、このまま石像と化してしまいたい。許されるなら、今すぐタナさんのマッサージを受けたい。そんな俺の気持ちを察したのか、タナさんは俺の腰に触れる。衣服越しにも何故か暖かさが伝わってくる、不思議な感覚だった。タナさんは周囲を取り囲む木々をぐるりと見回しながら尋ねる。
「ウェラは、食べ物とかどうしてるのさ?」
「森が色々分けてくれるんだよ。だから、食べるのに困ったことはないんだよ」
「冬はどうしてるんだ?」
思わず訊く俺。このあたりでも、冬は結構厳しいことになるだろうと想像できる。
「冬はね、寝てるよ」
「寝てる?」
クマ?
思わぬ回答に俺は思わず腕を組もうとして、やめた。代わりに自由な左手で頭に手をやった。右手は剣を杖にしたままだ。
「冬はこんな小屋じゃどうやっても生きていけないから、水の精霊さんに守ってもらって寝てるんだよ」
「この辺は雪が多いそうだしねぇ」
タナさんが頷いている。
「よく聞く話さね。エルフの血……というより、精霊使いの力が強いんだねぇ、ウェラは」
「そういうことなのか?」
「そうだよ、パパ」
ウェラは俺を見上げながら言った。パパという表現がくすぐったい。
「エルフって、ほとんどは冬は眠ってるんだって本当のママに聞いたよ。狩りして過ごす部族もあるみたいだけど」
「自然信仰さね」
タナさんはまた頷いた。
「春とともに目覚め、冬とともに眠る。自然の恵みを糧に生き、何ものにも縛られない。それがエルフという種族なのさ」
「でも、ウェラのパパは……」
言いかけてやめる俺。どういう事情があったにせよ、今、当事者を前にする話でもないだろう。
それにしても、三十七年生きてきたし、政治の世界も見ては来たが、エルフと関係があったことは一度もない。どころか、エルフについての情報は、王都にもほとんどなかったはずだ。謎に包まれた種族――その程度の認識しかない。
「ん?」
俺は右足をわずかに引く。虫の声が止んだ。鳥の気配もなくなった。耳を澄ますと、かすかな金属音。
「タナさん、なにか来るぞ」
「そうみたいだねぇ」
タナさんは悠然と腕を組んで大樹を背にしている。俺はこの気配をよく知っている。いわゆるひとつの、殺気だ。明確な殺意が俺たちに向けられている。
「また来たんだぁ……もう」
ウェラは風に向かってなにか語りかけつつ、首を振った。またって言うけど、こいつら、本気で殺す気で来てるぞ?
「魔女狩りさね、エリさん」
「魔女狩りだって? 俺たち目当てか?」
「いや、違うね。ウェラさ」
こんな小さな子を殺しに?
魔女狩り名目で?
眩暈を覚えるほどバカバカしい話だった。魔女を狩る奴らの方が、よほどの鬼畜生じゃないか。
「ハーフエルフの女の子ってだけで、奴らにしてみたら都合が良いのさ」
「酷い話だ」
俺は剣を抜こうとして、やめた。敵の気配は四人。一人は少し離れた木の陰に隠れていて、三人が接近中。まもなく茂みから姿を見せるだろう。
「ウェラ、俺の後ろに」
「うーん……パパこそ、だいじょうぶ?」
「うっ……」
この子も刺さるなぁ。心配されてしまった。
俺は内心深く深くため息をついてから、近付いてくる気配の方を睨んだ。
「パパ、四人。一人は後ろの方」
「なんでわかった?」
「土の精霊さんが教えてくれた」
すげえ、精霊使いすげえ。語彙力が消失しつつあったが、とにかくウェラはすごいヤツだということがわかった。今まで一人で生きて来られたというのも納得だった。
「さて、と」
そろそろ俺の虚勢タイムである。タナさんよりも前に出て、俺は剣を(さりげなく)支えにして立った。茂みから姿を見せたのは三人の男。それぞれ年季の入った革の鎧を着けているのだが、その身なりも相まってひどく臭そうに見えた。大方魔女を狩って小銭でも手に入れようという程度の小悪党だろう。
とはいえ、四人もの盗賊を相手にできる状態ではない(腰が)。
剣を持ったリーダー格の男が俺たちを見て下品な笑みを浮かべる。
「昨日も来たんだよ、このおじさんたち」
ウェラがぶすっとした声で教えてくれる。
「凝りずにやってきたってことか」
「昨日は二人だったけど」
ウェラは斧を持った男を指差す。なるほど剣と斧が首謀者か。そしたら、残りの鎌使いと、隠れてる一人は増援というわけか。こんな女の子一人相手に大の男が四人。情けない話だ。
ウェラは「あんまりやりたくないんだけど」と言いつつ、俺の右袖をつまんだ。タナさんは鋭い視線を男たちの背後に飛ばした。
俺も瞬時に状況を悟り、慎重にウェラを後ろにかばう。
「魔法を使わせるな!」
リーダー格の男が怒鳴った。空気が裂ける音が聞こえてくる。俺は剣を鞘ごと持ち上げようと試みるが、間に合う間合いではない。
仕方ないなぁ。
気乗りはしないが身体で受け止めるしかないだろう。俺は覚悟を決めた。鎧を着ているわけでもないから、致命傷になる確率は低くない。でもまぁ、いいかな、なんて思ってもいたりする。
が、その時だ。キンという音が鳴った。
「キン?」
どこにも痛みはない。ウェラも無事だ。
「何を呆けてるのさ、エリさん。きょうび、自己犠牲なんてまったく流行りゃしないよ」
「何をした?」
魔法?
と思ったら、タナさんは俺の傍らにある木を指差した。幹にナイフが突き刺さっている。どうやら、ナイフで矢を撃墜したらしい。信じがたい技術だった。
「す、すげぇ!」
思わず俺は長剣を振り上げ――悶絶した。言葉にできないこの痛み。冷たく鋭い痛みが、腰から脳天まで駆け上がった。そんな俺に、三人の男たちが一斉に向かってくる。これはちょっとしたピンチだ。
「火の精霊さん! 守って!」
ウェラの悲鳴じみた声が響き渡る。その瞬間、男たちの足がピタリと止まった。初夏にふさわしくない熱風が周囲を包む。タナさんは「ほほぅ!」と声を上げ、俺は腰痛で苦しんでいる。
男たちは一斉に腰を抜かした。無理からぬ事だ。突然人の二倍以上もの大きさのある炎の巨人が出現したのだ。どう考えても常人が戦える相手ではない。
「う、うわっ、逃げろ!」
と言いつつ、真っ先に逃げ出すリーダー。部下二人は完全に腰を抜かしている。影で狙撃のチャンスを伺っていた四人目の気配もいつの間にか消えている。
『こいつら、食って良いのか?』
炎の巨人がウェラを見下ろしていた。目があるわけではないが、多分そういうことだろう。
「だめだめ! 追い払えばそれでいいの!」
『なら対価を寄越せ。もうタダでこんな大仕事はしないぞ』
「ええっと……」
ウェラがそう言っている間に、残りの二人は武器を捨てて震えながら抱き合っていた。一件落着、か?
と、思ったら、火の精霊は俺の方へ向き直った。
『なれば、そこの人間を食う』
お、俺――!?
「だめだよぉ、おじさんはウェラのパパなんだよ!」
『ならば奴らを食う』
「人を殺しちゃだめー!」
男たちの方へ向かい始めた精霊の前に出て、ウェラは両手を広げる。
「まったく」
タナさんがそんなウェラの隣に並んだ。
「あんたにゃ人情ってやつがわからないのかい」
『おれはヒトではない!』
「怒鳴られても言うことを聞かないヒトもいるってことを学習しな、精霊。とにかく、ヒト様の話は最後まで聞きな」
『……』
精霊が黙った。タナさん、マジで半端ない。
「あんたが腹減ってるのは、百歩譲ってそうだとする。だけどね、あんたがヒトを殺したら、そりゃこの子があんたを使って殺させたってことになるんだよ」
タナさんはウェラをひょいと抱き上げた。俺にはできない芸当だ。
『しかし――』
「こんな子に、そしてあんたらの無二の友人である精霊使いに、無為な人殺しをさせるってのかい」
『おれは、ただ、対価を求めているだけで』
「最初からそう言いな」
タナさんは少し空に視線をやった。
「ヒトの命にこだわっているわけじゃないんだろう?」
『うむ、その必然はない』
火の精霊がそう言った瞬間、男たちはどことなく安心した表情を見せた。
ちなみに俺は棒立ち。何もすることがない。でもあれだな! 俺が腰痛じゃなかったら、この男たちはとっくに皆殺しだったな! よかったな、お前ら!
などと妄想をしつつ、落ち込む気分を持ち直す。
「ならさ、火の精霊。こいつはどうだい?」
タナさんは馬の背にくくりつけられていたカバンの中から、小さな箱を取り出した。タナさんはその蓋を開けて、一枚のカードを取り出す。
「カード? 占いに使うやつかい?」
「もう何年も使っちゃいないよ、こんなもの。水晶玉もあったりするけど、それはちょっとご褒美にしちゃ過剰かねぇ」
「ま、ママ。そんな大事なもの……」
「魔女は引退したんだよ、アタシは。だからこんなもの、無用の長物さね」
タナさんはあっけらかんとそう言った。確かに未練のようなものはこれっぽっちも感じなかった。
『それで手を打――』
「待った」
精霊の言葉に割り込むタナさん。
「今全部くれてやるってわけじゃぁないよ。ここには全部で七十八枚のカードがある。そのうちの二十二枚はそれだけでヒトを呪い、あまつさえ殺められる力を持ってる」
『……それで?』
「この子があんたを呼び出すたびに、この二十二枚の方を一枚ずつ食わせてやる」
それってあと二十一回も召喚できるってことなのか。すごいな。
『……承知した、魔女よ』
「魔女は引退したんだよ、アタシは」
『ならばなぜ……』
「魔女はね、辞めましたって言って、それに纏ったものをサクッと捨ててられるもんじゃないのさ。魔女の道具って奴はね、それ自体が魔女の血だし、魔女の呪いなんだ。……そんなことより、結果として役に立つのだからそれでいいじゃないさね」
タナさんはそう言うと、カードを一枚、火の精霊に向かって放り投げた。それはまたたく間に燃え上がり、灰も残さずに消えた。その様子を見届けて、ウェラがタナさんを見上げた。
「いい、の……?」
「このカードはあんたのもんだよ、ウェラ。大切に使うんだ、いいね」
「う、うん、わかった。ありがとう、ママ」
「くすぐったいねぇ、ママかい」
タナさんはそう微笑み、そして、震え上がっている男二人に人差し指を突きつけた。
「誰かを殴りに来る時はね、殴り返される覚悟をしてからおいで! そんな覚悟も度胸もないくせに、誰かを傷つけようとするような人間が、アタシは一番嫌いなのさ! わかったらアタシの気分が変わらないうちに、さっさと失せな!」
男たちは「ひぃ」と情けない声を上げて、武器を拾いもせずに逃げ出した。
「タナさん、ああいう連中はもっと痛めつけといたほうが良いんじゃないのか?」
「どうしてだい?」
「相手を変えて、今度はもっと弱い人を相手に、またやるぜ?」
「そうさねぇ」
タナさんは木の幹に刺さったままだったナイフを回収して、目を細めて俺を見た。
「その論理だと、悪事をなした人間は、決して赦されないことになっちまうねぇ」
「でも、奴らは現にこの子をどうにかしようとした」
ぶっ殺しちまったほうが、よかったんじゃないかと思う。第二、第三の被害者が出るのを防ぐためにも。
「確かにね」
タナさんは頷く。そして直後に、「でもね――」と首を振った。
「今のあいつらはそうじゃない。三日もしたらケロリかもしれないけれどさ、でも、今そうじゃない人間まで責めちまうってのは、どうにも救いがないと思わないかい?」
「それは……そうだけど」
「正義なんだ、エリさんの言うことは。まったくもって正義。だけどね、どんな理由があっても、どんな相手であっても――他人を傷つけるものになった瞬間に、その正義ってやつは、正義の顔をしたただの暴力ってやつになっちまうのさ」
正義の顔をした暴力――か。
俺は胸の奥に痛みを感じて、無理矢理に大きく息を吸い込んだ。
「第一さ、エリさん。罪が永遠に赦されないなんて、悲しいだろ?」
「そう……かもしれないな」
口の中が苦かった。タナさんは少しだけ目を細めて俺を見た。微笑みを作ったのだろうか。俺は首を振って、ウェラの緑がかった金髪を見下ろした。ウェラはカードの収められたケースを両手でしっかりと握りしめていた。
「善は急げ、か。ウェラ、行こうか」
「うん、パパ!」
ウェラは俺の腰にしがみついた。
……死ぬかと思った。
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