その日の昼、混乱の収まらないベラルドの城から、俺たちは出発した。ガナートが「これ以上迷惑をかけたくない」と言ってきたからだ。しばらく滞在してガナートの補助をすることも考えなくはなかったが、ガナートは「お前たちにはもっと大きな役割があるだろ?」と言って、俺たちを追い出した。ジェノスが最後まで見送ってくれたが、彼女もまたガナートには賛成の立場だった。
「馬車だけじゃなくて、五人の騎士の護衛、食料品に大金。馬車だけでも十分だったんだがなぁ」
馬車の荷台に座りながら、俺は後ろをついてきている二人の騎士を見る。もうすでによく知った顔になっている騎士たちだ。あの激戦を生き抜いたのだから、相当な手練のはずだった。
「あの男なりの誠意と後悔の表れさね」
タナさんは静かに言った。その声音に気付いて荷台を見回すと、俺たちとは反対の、つまり御者に近い側で、リヴィとウェラが抱き合うようにして眠っていた。平和な寝顔である。
「よっぽど朝の戦闘が堪えたんだねぇ。ふたりともよく頑張ったよ」
タナさんはそう言いつつ、俺の隣に移動してくるなり、強引に俺の膝に頭をのせた。いわゆるひざまくら状態である。
「落ち着くねぇ……」
俺を見上げながら、タナさんは言った。その瞳は俺をまっすぐに貫いていて、俺はその美しい輝きから目を離せない。夜空よりも昏く深く、それでいて優しい瞳だった。
「タナさん」
「うん?」
タナさんは柔らかな声で応じる。
「タナさんは、エリザなんかをどうにか出来ると考えている?」
「さぁ、ねぇ」
タナさんは目を閉じる。無防備な唇が少し開いている。
「アタシたちじゃ相手にならないかもしれないけど、ね」
「ウェラとリヴィはどうする?」
「連れて行くさ」
タナさんは即答した。
「でも、タナさん。それだとあの二人も……」
「あの子たちにとっては、この世界は全て危険さ。ハーフエルフの精霊使い、竜族の末裔。世間様にとっちゃ、どっちもよくわからない存在――立派な魔女なのさ」
「だけど、あの子たちは悪魔となんて――」
「言っただろう? 誰の中にでも悪魔はいるんだって。だから、そいつがいつ目を覚ますかなんて誰にもわかりはしないのさ。そしてね、ヒトってやつはね、絶望したら悪魔にも縋りたくなっちまう。そういうふうにできているのさ」
タナさんは目を閉じたまま囁く。車輪の音にかき消されないくらいの、ギリギリの声だった。
「タナさん」
俺は意を決する。タナさんはゆっくりと目を開けて、俺を見た。その目は、俺の言葉を促している――少なくとも俺はそう感じた。
「タナさんは、どうして魔女に?」
「そうさねぇ」
タナさんは右手を上げた。その指先が俺の頬に触れる。
「あんたには……話そうか」
「無理にとは、言わないけど」
「あんたに聞く覚悟があるかだけ、確認させておくれ。聞いたら、アタシを」
「タナさん」
俺はタナさんの繊細な右手を握った。
「俺は、腰以外は、なかなか頑丈にできてるんだぜ?」
「……信じるよ」
タナさんは静かに言って、深呼吸をする。そして語り始めた。
「アタシの生まれた村ではね、女の子は物だった。道具と言ってもいいね。もちろん、男のための道具っていう意味さ。生理も付く前から、男たちの慰み者にされて過ごしたんだ」
「そんなことが――」
「あったのさ。ずーっとだ。アタシの生まれるずーっと前からそうだった。女は誰のかわからない子どもを何人も何人も産まされて、使い捨てられて死んでいく。三十前で十八人も子どもを生まされた人もいたよ。さすがに十八人目を産んでまもなく死んだけど、埋葬さえされなかったって話。亡骸は山に捨てられたんだ。女は死ぬと、みんな動物の餌や、堆肥に混ぜられて畑の肥料になったりしたのさ」
俺は唾を飲む。想像以上の重量に、胸が痛くてかなわない。
「アタシの母さんも、毎晩いろんな男に犯されてね。人間としての誇りを、アタシたちの目の前で、何度も何度も打ち砕かれた。次はお前たちの番だって、男どもはそう言っていっつも笑っていたっけねぇ……」
何も言えない俺。何を言えばいい?
「ある日、母さんは男たちがわざと残していったロープで首を括って死んだ。アタシにこっそり手紙を遺して、ね。アタシはその手紙を受け取って……母さんの自殺を手伝ったんだ」
「タナさん……」
呼びかける以上に、俺に何ができただろう。
「エリさん、お願いがあるよ」
タナさんの声が震えていた。
「手を握ってくれないかい? アタシは……」
「心配するな、タナさん」
俺はタナさんの右手を両手で包んだ。タナさんは震えながら、握り返してくる。
「俺は、ここにいる」
「汚れたアタシでも、いいかい?」
タナさんは時々言葉を詰まらせながら言った。
「汚しに汚され尽くしたアタシでも、エリさんはそばにいてくれるかい?」
「それはタナさんの罪じゃない。タナさんの負うべき十字架じゃない。だろ?」
俺は首を振る。タナさんの震えが大きくなった。それでも涙は溢れない。唇が大きく震えている。
「幸いなことにさ、アタシは赤ちゃんができなかった。でも、だから、アタシはずっと、都合の良い道具として犯され続けた。アタシの身体、汚れてないところなんて一つもないんだ。汚穢に塗れた、ただの道具だったんだ」
俺はタナさんの両手を強く握った。タナさんも握り返してくる。その力強さに、俺はタナさんという人間の本質を知る。
「母さんの遺書にはね、『村から逃げろ。生きろ』とだけ書いてあった。当時のアタシが読めた文字なんてほんの少しだったから、母さん、本当はもっと伝えたいことがあったんだと思う。だけど、アタシが理解できる限界を知っていたんだね、母さんは。だから、それだけを書いたんだ。……って、なんだい。冷たいね、エリさん」
タナさんは目を開けて自分の頬を拭った。その頬は濡れていた。だが、それはタナさんのものじゃなかった。
「お、俺……?」
そんなバカな。俺は慌てて自分の両目をこすった。ぼやけていた視界が急速にクリアになる。
「あんた、アタシのために泣いてるのかい……?」
「泣いてない」
俺は首を振った。タナさんはほんの少しだけ口角を上げて言う。
「そういうことにしておこうかねぇ?」
タナさんはそう言ってくれたが、俺は自分のその行為が信じられなかった。涙なんて、気付いた時にはもう流していなかった。三十年ぶりくらいに落涙したのかもしれない。
「でもアタシ、男の涙なんて、初めて見たよ」
「面目ない……」
「とんでもないさ。嬉しいよ、エリさん、ありがとう」
タナさんは身を起こすと俺の頬に口付けた。そして俺の隣に座り直す。
「母さんの遺書には逃げろってあったけど、実際問題不可能だった。道具は一箇所に押し込められていて、外には見張りが何人もいた。よしんばその小屋を逃げ出しても、村から逃げおおせるなんて不可能だった」
それからタナさんはずっと逃げること、生きることだけを考えて、男たちの道具としての日々を過ごしていたのだという。
「ある時、アタシは声を聞いたのさ。今すぐここから出してやる代わりに、女を十人殺せって言われたのさ」
「それが……悪魔の?」
「そういうこと」
タナさんは俺の肩に頭を乗せた。
「アタシは……その部屋にいた女全員をね、殺したんだ。一人一人、順番に殺して回った。だけど、みんな抵抗しなかった。誰も、もがかなかった。みんな静かに死んでいった……!」
タナさんはついに激しく嗚咽した。両目からポロポロと涙が溢れてきていた。そんなタナさんを、俺は力いっぱい抱きしめる。この時にそれ以上何ができたのか。俺にはわからない。震えるタナさんを受けとめる以外に、何ができただろう。
「みんな、自分の順番になったら、『ありがとう』って言ったんだ。アタシは、ただ一思いに縊り殺すことしかできなかった。自分だけが助かろうっていう浅ましささね……」
「タナさん、俺の思いは最後に言うから。タナさんは今、言いたいことを全部吐き出せ。遠慮はいらない」
「でも、エリさん」
「俺、タナさんより年上なんだぜ? たまには年上の力を見せてやりたいんだよ」
「……わかった」
タナさんはそう言ったが、しばらくは沈黙していた。馬車の弾き出す諸々の音だけが、俺たちの間に流れていく。
タナさんは今までずっと一人でその思いを抱えていたのか。そう思うと、俺の胸は張り裂けそうになる。タナさんの強さの裏にあるもの。タナさんを支えるもの。そして、苛むもの――過去。
「女たちを皆殺しにしたあとに、いつものように男が入ってきた。そこから先は正直に言うけど、よく覚えてない。はたと気付いたら、男は喉を掻き切られて死んでいたという話。……このナイフでね」
それはタナさん愛用のナイフだった。
「でもそこまでだった。小屋は一瞬で包囲され、アタシは魔女だと言われた。まぁ、そうだったんだけど。でも、火を放たれそうになった瞬間に、アタシの中の悪魔はまた言ったんだ。村を全て代償として捧げるのであれば、お前は自由の身になるぞとね」
「その前に何人も殺させているじゃないか」
「悪魔はしれっと言ったよ。それは小屋から出してやるための代償だって。この村から逃げたいなら、村を皆殺しにすればいい。お前をこんな境遇に陥らせ、救おうともしなかった村の連中を殺すのに、何を躊躇するのかってね」
「とんでもない話だな」
何という強欲さか。俺の胸の奥が今度は熱を持ってくる。タナさんは静かに息を吐く。
「でもね、その言葉はアタシの言葉でもあったのさ。気付けば村は……ご丁寧にも少し離れた里山の麓にあった家に至るまで、しっかり燃えていた。赤子から老人まで。男も、女も。みんな灰になるまで焼けちまった。その時さね、アタシが本当に魔女になっちまったのは。本物の魔女にね」
「仕方ないじゃないか。そんなの、あたりまえじゃないか……!」
俺は思わずそう応じていた。タナさんは「ふふ」と小さく笑う。
「そうするしかなかったって、今でも思ってる。正しいか正しくないか。間違いか、そうじゃなかったか。それはわからない。でも、それしかなかったんだ。でもね、たとえそれがどうであっても、胸は痛む。罪に痛むのさ。罪もない赤ん坊まで皆殺しにしちまったんだから。生きろ――その言葉に従って、アタシは百人も二百人も焼き殺したんだから」
「それは罪なんだろうか」
俺はタナさんの肩を抱きながら呟いた。タナさんは「罪だよ」と答える。
「アタシが、最初にアタシに殺された子たちの立場だったら、みっともなく抵抗していたと思う。だって、アタシは……アタシは、生きたかったんだ。どんな代償を払うことになるとしても、なんとしても生きたいと思っちまったんだ。母さんの遺書のあの言葉が、アタシをこの世に縛り付けようとして、だから、アタシは未練がましくしがみついた」
タナさんは子どものようにしゃくりあげる。俺はその頭を撫でてやる。
「タナさん、そいつこそが、運命ってやつじゃないかなぁ」
「アタシが人殺しをして魔女になったことが、運命なのかい?」
「それもこれもひっくるめて」
俺はタナさんの髪をまた撫でた。
「俺にとって大事なのは、今ここにタナさんがいること。スリージャヴァルタナという一人の人間がここで生きていることなんだ。過去がどうだって関係ないとは言わない。もし、その過去が重いというなら、半分くらいは俺が背負ってやる。タナさんは、そういうことを含めて、過去のその全てを含めて、今のタナさんなんだ。どの過去が欠けても、今のタナさんにはならないんだ」
「全肯定……してくれるのかい?」
「あたりまえだ」
俺はタナさんの右手を取った。華奢で繊細な手だ。
「都合のいいところだけを好きになれるほど、俺は器用じゃないんだ」
「エリさん、あんた……アタシを殺す気かい?」
タナさんは俺を見ていた。俺は苦笑する。
「アタシは村一つ皆殺しにした人非人さね。その過去を知っても、そんな事を――」
「俺を見くびるなよ、タナさん」
俺はタナさんの手を軽く握って離した。
「俺だって、タナさんには惚れてる。……もしかしたら、だけど、愛してるのかもしれない。この気持ちが愛だというのなら、そうなんだろうね。だからさ、タナさん。タナさんのその過去が罪だっていうなら、その過去を含めて全部、タナさんの全てを愛するって決めた俺がいるのならね、その過去も半分は俺のものだ。イヤとは言わせないぞ、タナさん」
「エリさん、でもそんな」
「タナさん――いや、スリージャヴァルタナ」
「なんか、本名は……くすぐったいねぇ……」
「人の顔と名前を覚えるのは得意でね」
俺は言う。俺の厄介な生い立ちもたまには役に立つ。
「カルヴィン伯爵に会う。魔女狩りを何とかする。ついでにエリザ女公爵とやらも黙らせる。そしたらさ」
「それって、ずいぶん高いハードルじゃないのさ」
タナさんが、ようやくいつもの表情に戻った。そして小さく唇を動かす。
「それで……?」
「俺とさ、どこかに腰を落ち着けないか?」
「それは、アタシにあんたの罪も背負えって言っている?」
「お見通しかよ」
「アタシには悪魔が憑いてるからねぇ」
微笑むタナさん。それは、この世のものとは思えないほどの美しい顔だった。
「でも、アタシが先にあんたに惚れたのさ。あんたの罪咎の凄まじさは、初対面のときにわかったよ」
「そうと分かっていて、どうして……?」
「似た者同士だから、かねぇ?」
タナさんはそう言うと、俺の唇に唇を重ねてきた。俺は一瞬ウェラとリヴィを伺ったが、二人はしっかりと眠っている――ように見えた。
「タナさん……」
「好きさ、エリさん。逃さないよ?」
「逃げると思うかい」
「無理、だろうね。腰も悪いし」
「そうじゃないだろ」
俺は笑った。そして今度は俺からタナさんの唇を奪いに行く。タナさんは俺を受け止めながら、クックッと笑っている。
「あんた、顔以外は本当にいい男さねぇ」
「余計なお世話だよ、タナさん」
俺はタナさんの背中を強く抱きしめた。嫋やかな背中だった。
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