それから一週間少々移動して、俺たちはベラルド子爵領とキンケル伯爵領の境界線上にある城塞都市に辿り着いた。旅の途中ではトラブルもないではなかったが、大抵は騎士たちがなんとかしてくれた。場合によってはタナさんがなんとかした。俺は……馬車の荷台で転がっていた。ウェラは精霊と話でもしているのか、退屈している様子はなかった。
リヴィは休憩時間になるたびに、俺や随伴の騎士に剣術を学んでいた。俺は実演できないから、騎士たちには本当に助けられた。彼らもめきめきと実力を付けていくリヴィを見て楽しくなっていたのだろう。俺から見てもよく言うことを聞く良い弟子だった。そしてたったの一週間で、リヴィの剣技は恐るべき進化を遂げていた。
城塞都市に着く頃には、季節は晩夏を過ぎていた。蒸し暑く感じる日もあったが、基本的には晩夏あるいは初秋である。赤い葉も増えてきた。きっと秋は短いのだろう。
「私たちはここまでです」
騎士のリーダーが俺たちを馬車から下ろしながら言った。城塞都市の門の前である。リヴィはリーダーに抱きついて、「ほんまにありがとう!」とお礼を言っていたが、リーダーは割と苦しそうにしていた。その一方で少し鼻の下が伸びていたような気がしないでもない。
「リヴィ、絞め殺す前に離れな」
「あっ、ご、ごめんやで!」
タナさんが止めなければ、騎士は本当に絞め殺されていたかもしれない。が、他の四人の騎士はそれを笑って見ていた。彼らはそれぞれにリヴィの師匠でもある。
「さびしいなぁ」
ウェラが名残惜しそうに騎士たちや御者を見ている。御者は小さく頭を下げ、騎士たちは「もっとこっちにいればいいのに」とか言ってくれた。が、俺たちはそれに甘えてはいられない。
「他に我々に出来ることはありませんか」
「そうさねぇ。路銀はたっぷりいただいたしねぇ」
タナさんはそう言いつつ考えている。そこでリヴィが「あっ」と声を上げる。
「ジェノスさんによろしゅう伝えてくれる?」
「もちろん」
騎士の一人が答えた。リヴィは「おおきに!」と元気よく言った。タナさんは小さく頭を下げてから、やや厳かな口調で言った。
「あんたたちは一刻も早くガナートの所に帰るんだよ。あの男にはまだまだやることがある。いくら手があっても足りないはずさ」
タナさんの言葉に俺も頷く。騎士たちも頷くと、一斉に敬礼して馬上の人に戻り、そのまま帰っていってしまった。
城塞都市にはあっさりと入ることができた。騎士のリーダーが一声かけてくれていたおかげだと思うのだが。どうやらこの辺りを仕切っているキンケル伯爵は、キースよりはガナートとの関係が良いらしかった。
城塞都市は丘の上に立ち、城壁で周囲を囲まれていた。だが、その大きさが凄まじい。人口十万、あるいは二十万はいるのではないかという住宅過密都市である。町の中央には巨大な煙突が立ち並んでいた。おそらく武具の生産も自前でやっているのだろう。籠城戦を想定した作りの都市だ。この都市を攻めようと思ったら相当な被害を覚悟しなければならないだろう。
「すごい都市だねぇ」
タナさんはリヴィと手を繋ぎながら俺たちの前を歩いている。俺はウェラに手をひかれている不審なおじさん状態である。都市に常駐しているキンケル伯爵配下の兵士たちの視線がちょっとだけ痛い。
都市の内部は本当に整備されていて、住宅街や商店街が明確に分けられていた。道もよくあるようなとってつけたようなものではなく、きっちりと計算された碁盤の目状に広がっていた。また、メインストリートの多くは、馬車が余裕を持ってすれ違えるほど広く、その上とても清潔だった。公衆衛生の点だけ考えたら、もしかしたら王都よりも上かもしれない。また、貿易も盛んなのか、様々な商店が立ち並んでいる。生活必需品や食料品についてはもちろん、武具も売られていた。見たことのない形状の武器や、珍しい素材の防具も売られていた。
「すっごいねぇ! 人がいっぱいだぁ!」
ウェラがキャッキャとはしゃいでいる。人がこれだけいると、誰もウェラがハーフエルフだとは気付かない。よしんば気付かれたとしても、もしかしたら誰も気にしないかもしれない。彼らは彼らの生活に忙しく、きっと他所者のことなど意にも介さないだろう。大都市の人間というのは、えてしてそういうものだ。
「なぁ、パパ!」
リヴィがくるりと振り返る。その青い瞳が昼時の陽光を受けてキラキラと輝いている。
「なんやむちゃくちゃええ匂いせぇへん!? 何の匂いや、これ!」
「ああ? うん、ピザかな?」
「ピザ? ピザってなんや?」
全身にキラキラをまとわせながら、リヴィが俺を見ている。タナさんは苦笑していた。
「ピザってのは……俺もどうやって作ってるのかまでは知らないが、ずっと南の国を旅していた時に食べたことがあるな」
「へぇ! 南の国かぁ! パパ、いろんな国行ったん?」
「まぁね」
俺は肩を竦めつつ、その匂いの発生源を探した。
「ああ、あそこだ」
「ん、あれか! ええ匂いやわぁ! むっちゃ美味しいんやろなぁ!」
実にわかりやすいリクエストである。タナさんは「リヴィ、行くよ」と行ってスタスタ歩き始めている。リヴィは「おおおおおお」とか雄叫びを上げながらついて行った。俺とウェラは、言うまでもなくゆっくりである。
「ウェラはピザは食べたことあるのか?」
「ないよぉ。チーズと小麦粉生地の焼けた匂いだよね、これ」
「お、すごいな、ウェラ」
俺も詳しくは知らないが、実物を見てもいないのによくわかるなと感心する俺である。
「ウェラ、料理は得意なんだよ。お肉はちょっと苦手だけど」
「すごいなぁ。旅が終わったら、ウェラが作った料理を食べたいぞ」
「いいよ! 作ってあげるね。パパとママと、リヴィの分」
「楽しみだ」
そうこうしているうちに、俺たちはリヴィとタナさんのいる場所にたどり着く。
「パパ、おっそーい! って言うてもしょうがないんねんけどな。ところで、これ、なんて書いてあるん?」
リヴィが看板の文字を指差した。
「あれ、リヴィは文字読めないのか?」
「いやいやいやいや、読めますー。書けますー。馬鹿にせんでくれる? せやけど、この街の文字は見たことがないんねや。話してる内容はよう分かるんねやけどな」
「ああ、そうか」
確かに、この都市の文字は特殊だ。というより、キンケル伯爵領の文字文化が特殊なのだ。現在のキンケル伯爵領は王都に続いて歴史が古く、言語文化も非常に排他的だった。俺も二十数年前にキンケル伯爵領の一都市に一年程度滞在していたことがあるが、文字に慣れずに非常に苦労した思い出がある。
「ピザって書いてあるな。そのままだ」
「へぇ、この奇っ怪な文字でピザねぇ」
珍しく、リヴィとタナさんの声が重なった。二人は顔を見合わせて笑っていた。親子というよりは姉妹に見えなくもない。
「さて、まぁ、腹ごしらえといくか」
表通りのこの店なら、他所者だからといってぼったくられることもないだろう。万が一そうなっても、タナさんがどうにかしてくれるに違いない。
この店は酒類の提供はしていないようだった。酒の提供をしない食事処なんて、俺も初体験だった。メニュー表を見ても、庶民価格だといえた。しかも水が無料だ――これには驚いた。
丸テーブルについて、大きなピザを注文し、待つことしばし。
「わぁ! これがピザかぁ! こないな量のチーズ、初めて見た! それにこれ、なに、パン生地? すごいなぁ。薄いのにモチモチや!」
切り分けてやったピザにかじりつきながら、リヴィが悶絶している。その有様をみて、タナさんは明るい声で笑っている。ウェラは伸びるチーズに苦戦しながらも美味しそうに食べている。
「美味しいねぇ、リヴィ」
「ほっぺたにチーズついてはるで、お・ね・え・ちゃん」
「ばかにするなー!」
ウェラはそう言いながらも、二切れ目に手を伸ばしている。俺とタナさんは水だけだ。
「ん? パパ、ママ、食べへんの?」
「まずはあんたたちの腹の虫を、おとなしくさせなきゃならないだろ?」
「一緒に食べればええのに」
といいつつ、リヴィは少し物足りなさそうにしている。タナさんは「ほらね」と言いながら、もう一枚を追加で注文する。
「おおきにー」
リヴィはまたキラキラしながら言った。ウェラは二切れで満足したようだが、リヴィは多分、三枚は食べなければ満足できないだろう。
「で、エリさん。この都市の感想はどうだい?」
タナさんの目つきが鋭い。俺は水を一口飲んで、その真意を尋ねる。
「異端審問官が来ているそうだよ」
タナさんが声を潜めた。さっきの雑踏の中でそのような趣旨の会話が聞こえてきたのだという。どういう耳だと思ったが、タナさんにならできるだろうという根拠のない確信はあった。
「魔女狩り、か」
「そういうことさね。それとこの都市、魔力の密度がおかしい」
「魔力の密度?」
「……相当な魔法が使われたか、あるいは使われつつあるのか。はたまた、何か強大な存在が潜んでいるか」
物騒だな。俺はピザに夢中のリヴィと、満腹で少し眠そうになっているウェラを見遣る。
「補給を済ませたらとっとと出発した方がいいか」
「そううまくいくかねぇ」
タナさんは思案顔だ。その時、リヴィが店員の女性から何やら聞いたらしい。
「パパ、ミルクも無料やて!」
言われてメニューを見てみると、確かに、ピザ注文の場合は一杯無料とある。俺はすぐにそれを注文してやる。
「おおきに! ウチ、まだおっきくなるで!」
リヴィはそう言って、受け取ったミルクを一気飲みした。ミルクが無料で出回ってるということは、この都市近郊では酪農も盛んなのか。豊かな土地だな。
「ねぇ、パパ、らくのーって?」
俺の呟きを聞いていたウェラが眠そうな目をしながら訊いてきた。俺はセンサーを張り巡らせながら、酪農に付いての説明をしたり――と言っても、俺もそこまで詳しいわけじゃない。ともかくも、俺はこの昼の時間は楽しく過ごそうと決めた。タナさんも水を飲みつつ、「それがいいね」と言ってくれる。
「リヴィ、満足したかい?」
「まだや」
タナさんの問いかけに即答するリヴィ。結局、リヴィ一人で五枚も食べた。
「せやけど、この街には美味しいもんの気配がぷんぷんしよる。腹半分くらいにしとかな、いざっちゅーときに食べられへんやろ?」
「まだ食えるのか」
俺は肩を竦めた。タナさんは「あははは」と声を上げて笑っていた。
「さて、それじゃ、いい時間だ。外に出るか」
俺はうつらうつらし始めているウェラを起こしてから、ゆっくりと立ち上がる。普通に歩く分には、腰はまだだいじょうぶだ。
そして店を出たその時、俺たちは見たくないものを見てしまった。
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