衝撃波をまともに受けて、俺たちは背中を地面に打ち付けることになってしまった。
「ちっくしょう……」
完全に腰がいってしまった。足先の感覚すらない。起き上がることもできない。
「パパ、大丈夫?」
ウェラが俺を覗き込みつつ、助け起こしてくれる。本当なら寝たまま絶対安静が良いのだが、俺のプライド的にそれは許されなかった。俺の前にはリヴィとタナさんが立っている。
「あの子、燃えとる……」
「魔女になっちまったんだよ」
処刑台の上の少女が、青い焔に包まれていた。絞首台も燃え、そして僧兵たちは残らず焼かれていた。役人と兵士は無事で、異端審問官も何故か無事だった。完全に故意に焼殺したとしか思えないありさまだった。
異端審問官が少女を指差して叫んだ。
「早く処刑しないからこうなるっ!」
「違う!」
タナさんが吐き捨てる。異端審問官は腰を抜かしていたが、まだ喚く元気はあるらしい。
「何が違うと――!」
「異端審問官! あんたの目は節穴だ。あんたらの言う神の声も何もかも、集団ヒステリーの生み出した、妄執妄想の類のものだ!」
「我らを侮辱するか!」
「ああ、するさ! いっくらでもしてやるさ! 無垢な娘を悪魔に捧げたのは、お前だ! 異端審問官! 地獄に落とすだけじゃまだ足りないねぇ!」
タナさんのナイフの切っ先が異端審問官に向けられる。異端審問官はよろよろと立ち上がると、腰に刺していた剣を抜こうとする。
「やめておけ」
座ったまま、俺は言った。
「あんたが抜いた瞬間、あんたの首と胴は永遠のさよならだ」
「一思いにやったるさかいな」
リヴィが剣の柄に手をかける。今のリヴィなら、瞬き一つ程度の時間があれば、それを為し得るだろう。
「この子はね、魔女にされたのさ。あんたらはまんまと本物の魔女の撒いた餌に食いついたにすぎないのさ! この街に入ったときからずっと気になっていた。この街はね、その全てが何かに呪われている」
「ど、どういうことだ」
異端審問官は剣を抜く直前の姿勢のまま、硬直していた。
「神の御意志が聞いて呆れる! 無実の子を魔女にしやがって!」
「魔女だったからこそ、あのような化け物に――」
「化け物? 化け物だ?」
タナさんの声が物騒に低くなった。
「……あんたと話すだけ時間の無駄、か」
「魔女め、貴様、ただで済むと思う――」
「そのセリフは聞き飽きた!」
タナさんの鋭い声が、異端審問官を強かに打った。
「お役人さん。この男を捕まえといてくれないか」
「我らも教会に目をつけられるわけには――」
「アタシたちという流浪の暴漢から、王都からわざわざお越し下さったお偉いさんを護るための身柄確保さね」
「……それならば仕方ないですね」
初老の役人は頷くと、喚く異端審問官を兵士に捕らえさせた。雨が石畳に叩きつける音をBGMにして、異端審問官の声は遠ざかっていく。広場の端まで連行されたようだ。役人のそばには兵士が二人だけ残っていた。
「異端審問官には、まだ仕事があるのさ」
「名誉回復……かい?」
俺が訊くと、タナさんは「それは、難しいかもね」と言った。
「なぜ?」
「それ以前に、あいつにはするべきことがあるのさ」
「するべきこと?」
俺が問うと、タナさんは小さく頷いた。
「そしてそれは、異端審問官にしかできない」
「するかな?」
「させるさ……」
タナさんは俺を振り返る。
「それじゃ、アタシも一つ仕事をするかね」
「だめだ、タナさん」
「危険だからやめろ、だなんて、言うかもしれない」
タナさんはそう言いながら、未だ青い焔の嵐の吹きやまない死刑台の方へと歩いていく。
「でもね、エリさん。見限るのは、簡単さね……」
俺はリヴィの助けでようやく立ち上がる。タナさんは足を止めない。死刑台を溶かすほどの炎の中に、タナさんは歩いていっていた。
「タナさん、危ない! やめるんだ!」
「アタシはね、後悔したくないのさ」
「死んだら元も子もない!」
「エリさん。お願いをしてもいいかい?」
「断る」
冗談じゃない。俺は首を振った。タナさんは一瞬足を止めて、小さく溜息を吐いた。
「だけどな、タナさん。無事に帰ってきたら、何だって聞いてやる。それでいいだろう?」
「ったく、あんたのその無駄に回る頭は癪だよ、エリさん」
……何か酷いことを言われた気がするが、今回は良しとする。
「でも、それならそれでいいかねぇ。前言撤回はなしってことでいいね?」
「ああ。構わない」
「なら、アタシもちゃんとやるよ」
タナさんはそう言うなり、劫火の中に飛び込んだ。
「タナさん!?」
「ママ!?」
俺たちの声が重なる。
しかし、炎はタナさんを焼かなかった。炎がタナさんを避けていた。石畳を溶かすほどの炎だというのに、それはタナさんを傷付けない。処刑台はとうに溶け落ち、少女はいま、地上に在った。
「なぁ、あんた」
タナさんの静かな声が、炎の生み出す暴風を柔らかく引き裂いて届く。
「名前も知らないけどさ、あんた。ほんとうに、つらかったねぇ」
その言葉を受けて、少女はゆっくりと顔を上げる。そして燃え盛る身体を、一歩、また一歩とタナさんに近付けていく。
タナさんは退こうとはしない。想像を絶する灼熱の中でも、タナさんは至って涼しい顔をしていた。
「心の中の悪魔と契約しちまうその気持ち。アタシには痛いくらい……わかる。わかるって言える。でもね、あんたに手を差し伸べてきた悪魔は、何もしちゃくれないんだ。あんたは今、自由になれたなんて感じてるかもしれないけれど、それは自由でもなんでもないんだ」
静かな言葉が炎を薙ぐ。
「犠牲の上に立つ人生――これほどきついものはないんだ。アタシにはそう言える。アタシが、そうだから。世界をぶち壊したいくらいの気持ちになったんだろう? 皆殺しにしてしまいたいくらいに憎んだんだろう? わかるよ。でもね、世界って、理不尽で傲慢で限りなく横暴でとんでもなく我が侭だけれどね、案外優しいんだ。それがたまたまそばに落ちているか、そしてそれに気付けるかどうか。それだけなのさ」
轟々と、炎が俺たちにも吹き付けてくる。リヴィとウェラを背中にかばう。このくらいなら、お安い御用だ――と言いたいところだが、呼吸も難しいほどの熱気だ。タナさんがどうして無事なのか、さっぱりわからない。
そのタナさんと、少女の距離は五歩分程度。もはや至近距離だった。
「アタシも最近知ったんだけどね。この世界だって、案外捨てたものじゃ、ないんだよ? もしかしたら……だけどさ。アタシたちがこうしてあんたと出会えたのも、世界とやらの計らいなのかもしれないよ?」
タナさんの顔は見えない。だけど、その青い焔に包まれた後ろ姿はいっそ神々しくもあった。
「あんたはね、その世界のこのわかりにくい優しさってやつに気付けなかったのかもしれない。もしかしたら、優しさはあんたに何もしてくれなかったのかもしれない。人間ってやつの小汚い部分ばかりを見せられたかもしれない。苦痛と汚辱を前にして、全てを呪うほどに絶望しちまったのかもしれない。まるで自分が汚穢にまみれて、だから絶対に救われることなんてないなんて思っちまったのかもしれない」
タナさんの言葉が青い焔を鎮めていく。
「つらかったね。苦しかったね。アタシには、あんたにそう言う権利があるんだ」
「ママ……」
ウェラの声が震えていた。俺の背中を支えているリヴィの手からも、少し震えが伝わってくる。
「あんたのその呪い。アタシが引き受けてやるよ。あんたをそこまで追い詰めた、本物の悪に、あんたの怨嗟を全て返してやる!」
タナさんの顔は見えないが、どんな顔をしているかくらいはわかる。
「パパ、ウチら、なんもできひん……?」
「今は、な」
タナさんに任せるしかない。タナさんを、信じるしかない。覚悟は決まっている。
「ユラシアっていうのかい、あんた」
タナさんと少女の意思疎通は続く。少女――ユラシアの声は、俺には聞こえない。
「わかってるよ。アタシはあんたのことを忘れない。だから、あんたの記憶を全部アタシに寄越しな。全部、全部、引き受けてやるよ。あんたの痛みも、憎しみも、全部だ。そこにほんのちょっとの喜びを乗せてくれりゃ、なおいい」
タナさんはそう言う。そして、燃え盛る少女を抱きしめた。
「タナさん!?」
思わず前に踏み出しかけた俺だが、それは強烈な熱風で阻まれる。
「あるだろう、喜びの記憶。楽しかった事。笑った思い出。あんたの人生じゃ、そんなにたくさんはないかもしれない。けど、あったはずさ。記憶の中の喜びを、数えてごらん?」
雨が止んだ。炎がふわりと消滅した。熱風も何もかも、嘘のように消えた。
「ユラシア。一つ、二つ、大切な思い出が、あっただろう?」
『……うん』
聞こえた。まだ幼さの残るその声が。
「その思い出は、それだけじゃ輝かないんだよ、ユラシア。つらい、苦しい――怒り。否定的な思い出があって、はじめて過去という記憶は美しくなっていくんだよ」
『でも、私が……どうしてこんな思いを、痛みを……』
「そうだね、そう思うよね」
タナさんはユラシアを抱きしめる。強く抱いているのがわかった。
「どうして、なぜ。アタシもそう何度も叫んだ。叫ぶ気力もなくなるほど、泣き喚いたさ。でもさ、ユラシア。今のアタシを見てどう思う? あんたの目の前で、こういう話をしている女を見てどう思う? 不幸でボロボロになっているように見えるかい? 世界を呪っているように見えるかい?」
『……見えない』
「だろう?」
タナさんは囁く。
「だけどね、アタシも過去に世界を恨んだ。憎んだ。滅べばいいのにって、何度も願ったんだ。目が覚めたら何もかも終わっていますように――眠る前には毎晩そう祈っていたのさ。だけど、今はそんなことは思わない」
『……なぜ』
「それはね、あんたの来世で考えるんだよ」
『来世……』
「そんなものがあるかどうかは知らない。けど、次に生まれるときはね、今よりはマシな人生が待っている。どのくらいマシになるかはわからないし、保証も約束もできない。けどね」
タナさんは俺を振り返った。俺はゆっくり頷いた。
「けどね、最期に一つだけスカッとさせてやるよ、ユラシア。あんたに最後に囁いたのは、誰だい?」
『クァドラ……そう名乗った』
「わかった」
頷いて、深く息を吸う。
「魔女クァドラ! さっさと出ておいで!」
タナさんの怒声が、静寂を破り裂いた。
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