「魔女のオラトリオ」関連短編――。
ターニャ。あんたの名前は今日からターニャさ。
夢か現か判然としないその声を感じて、ターニャは慌てて頭を振った。ターニャは顔や手に痣や切り傷の痕がいくつもある、痩せた少女だった。
「珍しいじゃないか、あんたが居眠りなんてさ」
扉を開け放って、黒い外套を纏った長身の女性が入ってくる。さながら剣士のような雰囲気を纏った艶のある女性だった。雪に濡れた長い髪が、蝋燭の灯りを受けてきらきらと妖しく輝いていた。
「ご、ごめんなさ──」
「ターニャ、簡単に頭を下げるもんじゃないさね。アタシはあんたの頭のてっぺんになんざ、これっぽっちも興味はないよ」
「でも、その」
「アタシが大魔女マグダレーナだろうがそこらの役人だろうが一緒さね。相手を見て態度を変えるもんじゃないよ。それに誰であろうと、その顔色を伺って生きるのはおよし」
「でも、わたしあの」
「ま、仕方ないねぇ。あの村で生きてきたんだ。今、ターニャがここで静かに居眠りできてるのは、それだけで奇跡、か」
あの村、という言葉にターニャは肩をびくつかせる。マグダレーナは艶やかな黒髪を揺らしながら、腰に手を当てて息を吐く。ほのかに白い呼気を見て、ターニャは自分がすっかり冷えきっていたことに気が付いた。マグダレーナは「そうさね」と暖炉に右の人差し指を向けた。するとたちまち暖炉の炎が勢いを取り戻した。ターニャは慌てて薪をくべる。
「魔法は便利だろう?」
「でも」
「村を焼くこともできる」
「先生、わたし──」
「責めちゃいないよ、ターニャ。あれはあんたのせいじゃないさね。だけどね、あんたの中の悪魔は、アタシのなんかよりはるかに強力で凶悪で、凶暴で貪欲だ。だから、そうさね、アタシはあんたを拾ったとも言えるのさ」
「はい……」
その話は何度か聞いた。ターニャは青白い顔で頷いた。
「ターニャ、あんたはその内なる悪魔を飼い慣らさなきゃならないのさ。その悪魔は一生つきまとうんだからね。悪魔の囁きを拒絶するのは難しい。存在を認めて、飼いならし、言うことを聞かせる。黙ってろって。でもそれは、アタシにだってできなかった。今だって高い代償を払い続けて悪魔との力関係をなんとか保っているのさ」
「代償……」
「そうさ、代償。だから、アタシは魔女のままなのさ、ターニャ。あんたはとっとと魔女をやめなきゃならないよ」
「できるんですか、そんなことが」
「あんたになら、ね」
マグダレーナは眉尻を下げる。ターニャには、その表情は泣き顔のように見えた。マグダレーナは前髪を払い除け、口角を上げる。赤い唇が灯火を受けて淡く光る。
「魔女はね」
マグダレーナはターニャが練習していた文字を指でなぞりながら微笑む。なぞった先の文字が炎のように輝いて揺れる。その輝きがターニャとマグダレーナの顔を照らした。
「先生?」
「綺麗だろ。でもこれもまた悪魔の力」
「でもこれは……悪い力じゃないと思います」
「そうさ。力に善悪なんてない。使い方。力の本質なんてのは畢竟、使う人間の心なんだ」
「それなら、わたしの、あの」
「あの村であんたが起こした大殺戮。あれが善とは言わない。ターニャ、あんたは赤子の一人まで消し炭にした。それは事実さ」
歯に衣着せぬマグダレーナを見ることもできず、ターニャは下を向く。マグダレーナはターニャの小さな両肩に手を置いた。
「下を向いても見えるのは自分の影だけさね。それはなんのヒントもくれやしないよ」
「影……」
「確かに影は、いつでも寄り添ってくれる。けど、暗闇の中で途方に暮れたときは、その暗闇と手を組んで追い詰めてくるもの、それが影さね。そしてそれこそ、悪魔ってやつの本質さ」
マグダレーナはターニャの艶やかな黒髪を軽く撫でて「だがあんたは間違えたわけじゃないのさ」と囁く。
「間違えてないのに、善でもない?」
「むしろあれは、そうさね、殺人という名前の悪さ」
「悪……」
ターニャは唇を噛んだ。
「わたし、どうすれば……良かったんですか」
「言ったじゃないか。あんたは間違いを犯したわけじゃないって」
「でも善でもないと」
「この世の中にさ、人一人が必死に生き延びる以上の正義があるのかい? ましてあんたには何の罪もなかった。あんな村に生まれた不幸以外のなにもなかった。あんたを産んだ人に、生きろといわれたから、生きたかった。生きたくなった。だからそこで囁いた悪魔をも利用した。そこに何の罪咎があるって?」
マグダレーナの柔らかな声に、ターニャは震えた。ようやく生え揃ってきた真新しい爪が、手のひらに鈍く食い込んだ。ターニャはそのことにすら罪を覚える。激しく苛まれる。
「あんたの生まれが運命なら、あんたの行いも運命。その結果起きたことも運命さね。避けられない、まして、変えられない。だけどね、アタシにはわかる。あんたは一生この傷を忘れない。その身体に刻まれた傷は、このアタシがキレイに消してあげる。でもアタシはあんたの心の痛みは消してあげられない。だけどね、そうである限り、あんたはアタシのようにはならないさ」
「せ、先生は立派な──」
「そうであろうとしているだけ。そう見せかけようとしているだけ。アタシの本質は醜くて残忍な魔女。騙されるんじゃないよ」
凪のようなその声に、ターニャは息を飲む。マグダレーナの暗黒の瞳が、ターニャの顔を揺らしている。
「利用するんだ、アタシを。アタシはあんたにいろいろ教えてやる。なんだって教えてやる。だけどね、アタシの本質は悪魔さね。だから利用するだけ。絶対に信用するな。アタシに心を許すな。あんたの頭で考えて考えて、考えて、考えるんだ。アタシを徹底的に利用するんだ。いいね」
マグダレーナはそう言うと、ターニャが使っていたインクボトルの蓋を閉め、「おやすみ」と言った。ターニャは立ち上がり、「おやすみなさい」と返す。そして少し頼りない足取りで部屋を出ていった。
ドアが音もなく閉ざされたのを見てから、マグダレーナは愛用の揺り椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「大魔女、か」
あの子はエリザ女公爵の再来になるか、あるいは。
アタシはそれを望んでいるのか。それともそれは悪魔の願いか。
マグダレーナは右手を掲げ、ぼんやりと眺める。厭になるほどの罪にまみれた手だった。そしてまた、これからも多くの罪を重ねるのだ。嗅覚に染み付いた血の匂い、頭の中で反響する慟哭の不協和音、目を閉じれば幾らでも浮かび上がる凄惨な静止画の連なり。
「あの子のための罪、か」
いや──。
その言い分はとんだ欺瞞だ。笑えてくる。マグダレーナは苦い笑みを浮かべる。目の前にある燭台の放つ白金の揺らぎが、マグダレーナの白皙の顔を昏い影で弄ぶ。いま鏡があったら、さぞ不愉快な気持ちになっただろう――マグダレーナの表情が一段と険しくなった。
「これはアタシの望みさ。アタシの……」
あの子のためでもない。まして、アタシの中の悪魔のためでもない。アタシの、本心。
あの子の内なる悪魔は強い。とてつもなく強い。だからこそ、あの悪魔にこれ以上の生贄をくれてやるわけにはいかないのだ。それならばいっそ、アタシの悪魔を肥らせた方が、まだマシだ。アタシの中の悪魔はもう、ターニャと出会う随分前からほとんど満腹なはずだ。
マグダレーナは暖炉の前にしゃがみ込む。マグダレーナを嘲笑うかのように、炎が大きく揺れてあわやマグダレーナの髪に届きそうになる。マグダレーナは忌々しげにそれを追い払う。
「アタシは善行をしたんだと思いたいだけなのかも知れない。生きてるうちに、一つくらいは」
その行為の結果、あのエリザ女公爵以上の大魔女を生み出してしまうかもしれないのに。
「あの子を見殺しにできなかったのは、アタシなのか。それとも、アタシの中の悪魔なのか」
その答えはどこにもない。マグダレーナは首を振って立ち上がる。暖炉の炎がふわふわと揺蕩って、一度爆ぜて消えた。
「神様とやらがいるのなら、アタシは最初で最後の願い事をするさ」
今や光源は、すっかり短くなった蝋燭だけだ。マグダレーナの中の悪魔が興味深そうに耳を澄ましている――マグダレーナにはそれがはっきりと知覚できていた。
マグダレーナは唇を歪めて目を細める。すっかり暗くなった室内で、蝋燭の輝きがマグダレーナの顔を下から照らす。暗黒の瞳がきらきらと揺れた。
「幸せになれ、さ。……嗤えばいい」
そのためなら、アタシはお前をいっそう肥らせさえするさ。
マグダレーナは揺り椅子に戻り、灯火を消して目を閉じた。
「幸せに――」
幸せに。
それはなんて空虚で陳腐な言葉だろう。
だけど、アタシにはそんな言葉しか贈ってやれないんだ。
でもきっとあの子なら。
マグダレーナは冷え始めた部屋の中で、暗闇に意識を手渡した。
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